【主日礼拝−メッセ−ジ要約】 2002年11月3日
マタイによる福音書26章57-68節
主イェスが最高法院のメンバーが居並ぶ裁判の席で、世の終わりに起こることについて語られた時、大祭司は着ている服を引き裂いて、「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか」と言って、主イェスに対する極刑の判決を引き出しました。しかしこの大祭司カイアファの態度こそ「神を冒涜する」ものです。彼こそ神の座に着いてしまっています。そもそも最高法院が開かれる一番の目的は人を生かすために審議される場であったはずです。それなのに彼らは今、神以外に人の命を左右してはならないと言う基本原則を完全に忘れてしまっているようです。カイアファはイエスに対して「神を冒涜する者」と怒りながら、同じ口で自分を神の座に据えて、主イエスの息の根を止めようとしているのです。
忘れてならないのは主イエス・キリストこそ真に神の子であるということです。この方こそ来るべき審判主として、全世界の人々を御国に入れるべきか、滅びの世界に振り落とすべきか正しい審きを為されることでしょう。わたしたちはこの世にあって、本当に畏れなければならない方が誰であるかをしっかりと心に留めておきましょう。
それにしても人々が主にとって不利になる偽りの証言を繰り返している間、主イェスは不思議なほど沈黙しておられました。この沈黙の意味は何でしょうか。イザヤ書53:7〜8を読むとその理由が分かります。そしてこのみ言葉について、使徒言行録8:26〜39はイエス・キリストのことを証していると教えています。被告人イエスは今この時、神の御子キリストとして、人々が犯した罪の一切を沈黙の内に負って下さったのです。
預言者イザヤは500年以上も前にキリストの来臨を預言しました。事実キリストは預言の通り人の子として来臨され、十字架に贖いの死を遂げて甦り、そして天に上げられました。その後使徒言行録8:26〜39に証されているように、この預言の書は不思議な導きで一人の異邦人の手に渡り、この異邦人をして「キリストはわたしの罪のためにもこれを担い、そして救いを賜った」と告白せしめたのです。
2000年の歴史の中で教会はカイアファのように幾多の誤りを繰り返してきましたが、キリストの「十字架」はいつの世にも人々を失望させることなく、信じる者に救いの道、永遠の生命の道を歩ませ続けて下さっています。
マタイによる福音書26章57-68節
今、主イエス・キリストはユダヤ教最高権威者である大祭司カイアファの前に被告人として立たされています。この尋問は予審的なものですが、そこには律法学者たち、民の長老たちも同席していました。更に59節を見ると、「さて、」というように、(場所は変わって)そこはいつの間にか最高法院と呼ばれるサンヒドリン議会の面々が集まり、正式な裁判の場となっています。今日(こんにち)の裁判制度とは大きく異なり、弁護士などいません。訴える者と裁く者が一体になっていますから、罪名も罰条も判決内容も初めから明らかです。問題はどのタイミングで判決を下すかです。サンヒドリン議会の面々は「死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた」のです。建前上この裁判は公正なものであると世間に示す為に、形だけの証人を立てて、被告人から有罪にできる言質を引き出せばよいのです。律法によると証言は2人以上の一致が必要ですが、どの証言も一致しません。つまりそこから決め手を得ることはできませんでした。一方主は御自分にとってどれほど不利な偽証を並べ立てられても反証・反論することなく終始沈黙を守っておられます。しかし、「初めに死刑あり」の立場を崩さない大祭司カイアファは被告人自ら判決を下すことのできる言質を引き出そうと、主イェスに直接問います。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか」と。これに対して主もまた明白にお答えになりました。「それは、あなたの言ったことです。」と。新共同訳聖書のこの訳し方は、勿論原文に忠実ですが、読者にとってはもう一つ分かりにくい言い回しです。ここは口語訳聖書のように、「あなたの言う通りです」という意味として読んで良いと思います。続いて、御自分の復活と再臨と神性とを証されました。待ってましたとばかりに大祭司カイアファは、「諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。どう思うか」と一同を誘導します。彼らは当然満場一致で「死刑にすべきだ」と答えました。これで、サンヒドリン議会の目論見の第一歩は成功です。後はローマの総督ピラトを利用して十字架刑に処するのみです。こうして愚かな人間はつに神の御子を手に掛けてしまいました。かつて主ご自身の口で彼らを指して語られた通り、「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」(ルカ22:53)のです。
サンヒドリン議会のメンバーがどうしてこのような暴挙に出たかと言いますと、福音書全体を読めば分かることですが、彼らにとって、日頃から主イェスは目障りな存在でした。殊にサンヒドリン議会のメンバーにとって権威の拠り所である神殿に対する主の非難を面白く思っていませんでした。本来神殿は全ての人に開かれていなければならなかったのです。しかし、サンヒドリン議会のメンバーはいつの間にかこれを私物化し、男女間の差別、社会的差別、民族的差別の温床としてしまいました。主イェスはそのような偽善を厳しく非難されたのです。だから偽りの証人を立てて、このような証言をさせたのです。彼らの心は嫉妬に駆られていました。嫉妬心はやがて殺意へとエスカレートし、遂にその願いは今果たされるのです。
しかし思い返せば、私たちも聖書とかキリスト教会というものを自分流に誤解して主イェスを被告席に着けていることがあります。イエス・キリストを信じていると言いながら、イエスの悲しみとなる生活にうつつをぬかしているとすれば、それこそ真理の言葉を以て私たちを導こうとしておられるイエス・キリストをわたしの心の王座から引きずり降ろして、再び自分自身が返り咲こうとするに等しい主客転倒の偽りの教会生活となる危険があるのです。
「しかし、わたしは言っておく」と主は言われました。この終末の予告こそ主客転倒した偽りの信仰生活とならないようにと言う主の私たちに対する警告であり、恵みのご配慮です。主イェスがサンヒドリンのメンバーが居並ぶ裁判の席で、世の終わりに起こることについて語られたとき、大祭司は着ている服を引き裂いて、「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか」と一同の意見を求めました。そして主イェスに対する極刑をと言う意見を引き出したのです。しかしこの大祭司カイアファの態度こそ「神を冒涜する」ものです。彼こそ神の座に着いてしまっています。そもそもサンヒドリン議会が開かれる一番の目的は人を生かすために審議される場であったはずです。それなのに彼らは今、神以外に人の命を左右してはならないと言う基本原則を完全に忘れてしまっているようです。カイアファは主イェスが「神の右に座る者」と証された言葉に驚きと共に憎悪を抱きました。人が人を裁くことの難しさを思わずにいられません。イエスに対して「神を冒涜する者」と怒りながら、同じ口で自分を神の座に据えて、イエスの息の根を止めようとしているのです。
恐ろしいことですが、人はまたいつの世にもこの愚かな歴史を繰り返します。人が生かされるはずの教会に於いて、人が人を裁き合うという轍を踏んできました。魔女狩りという悲しい歴史がありました。異端論争が流血の事態を招くと言うこともありました。教会の中に紛争が起こり、分裂するという出来事は今も良く耳にします。
しかし忘れてならないことは主イエス・キリストこそ真に神の子であると言うことです。この方こそ来るべき時の審判主として、全世界の人々を「良い麦と毒麦」(マタイ13:30)を振り分けるように、御国に入れるべきか、滅びの世界に振り落とすべきかと正しい審きを為されることでしょう。わたしたちはこの世にあって、本当に畏れなければならない方が誰であるかをしっかりと心に留めておきましょう。
最後に、人々が偽りの証言を繰り返している間、主イェスは不思議なほど沈黙しておられました。この沈黙の意味は何でしょうか。イザヤ書53:7〜8(旧約聖書 p.1150)を読むとその理由が分かります。そしてこのみ言葉について、使徒言行録8:26〜39(新約聖書 p.229)はイエス・キリストのことを証していると教えています。被告人イエスは今この時、神の御子キリストとして、沈黙の内に、人々の罪を一切負って下さったのです。キリストがおいでになる500年以上も前にキリストのことを預言し、キリストが天に上げられて後、しかも異邦人の手にこの預言の書が渡り、「キリストは自分の罪のためにもこれを担い、そして救いを賜った」と確信してバプテスマを受けました。
2000年の歴史の中で教会は幾多の誤りを繰り返してきたこともありますが、キリストの「十字架」はいつの世にも人々を失望させることなく、信じる者に救いの道、永遠の生命の道を歩ませ続けて下さっています。 祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。