【主日礼拝メッセージ要約】 2002年11月17日
- 「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。
- それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。
- 世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。」
ある女の人が初めて教会の礼拝に行きましたが、たちまち心はメッセ−ジに釘付けになりました。それは罪を悔いて神の懐に帰れと言う内容でした。彼女は牧師に「わたしのような者でも罪が赦されていることを信じます。わたしはイエスさまこそ救い主、キリストであることが分かりました。」と。
彼女は遠い村外れにある貧しい家に住んでいましたが、9年前に母親を一人置いて家出をし、その後転々としながら一杯の食物を得る為にあらゆる自堕落な生活に沈み込んでいました。しかしその日、教会で尊いメッセ−ジを聴いて回心した彼女は母親のもとに帰って赦しを乞うべく家路につきました。遠い道程をひたすら歩きました。途中雨に遭い、全身ずぶぬれです。ようやく懐かしのわが家の前に辿り着いた時はとっぷりと日が暮れていました。扉をノックしました。中には薄明かりが見えますが、答えはありません。何度叩いても答えはありません。もしや既に母は死に、良からぬ者が住みついているのではと、心の内に不吉な予感が走りました。もう一度戸を叩こうとしたその時、朝から何も食べていないので、体の力が抜けて前に倒れかけました。すると、すーっと戸が開くではありませんか。中に入ってベッドの近くにそっと寄って行きました。母親は目を覚まし、「誰?」と尋ねました。娘が灯りの影になっていてよく見えなかったからです。「お母さん、わたしです」と答えました。ああその声こそ、9年間聞くことのなかった娘の声です。母親は飛び起きて、「まあ、お前かい」と涙ながらに娘を抱き寄せました。そして直ぐに濡れた服を着替えさせ、温かい食事を用意してやりました。食べ終えると娘は親不孝と罪の生活を詫びて赦しを乞い、また教会で神に回心したことも報告しました。母親は満面笑みをたたえ、全てを赦しました。少しして、彼女は母に「お母さん、こんな寂しい、しかも真夜中に何故戸に鍵をかけておかなかったの?」と尋ねました。すると母親は、「あなたがこの家を出て行ったその晩から9年間、一度も鍵をかけたことはないの。あなたがいつ帰って来ても中に入れるように灯りもつけておいたのよ」と言いました。
この母の愛こそ神の愛です。この母の祈りこそ娘を神に近づけ、罪に目覚めさせ、神の子としての道を回復したのではないでしょうか。
メッセージ 高橋淑郎牧師
今わたしはこの教会から委託された牧師として子ども達に神さまの祝福があるようにと祈りました。教会がこの時期に子どもたちを祝福するのは聖書の教えに従った結果です。江戸時代から始まり、今や日本の文化となっている11月15日のいわゆる「七五三」の祝いとしての教会版ではありません。
ユダヤ暦の新年は11月です。かつてモーセに率いられた先祖がエジプトを出て40年の間荒野を旅しながら、夜は粗末なテント暮らしをしていたことに因んで、「仮庵の祭り」を祝うことになっています。実はこれがある意味で子どもを祝福する礼拝であり、祝いの日です。イスラエルの人々は仮庵の祭りを子どもたちと共に祝うことの中で、彼らは身をもって聖書に記録された先人の信仰の歩みと、彼らを導いて下さった神の愛の事実を一つ一つ子どもや孫に伝えています。日本の七五三は百%子どもにサービスする日であり、ひたすら子どもの幸福を祈る時ですが、イスラエルの人々はこの11月、子どもたちや孫たちに聖書の大切さを教え、神を畏れる心を培うことを念頭に置いて彼らを祝福するのです。彼らは大人に混じってそれぞれの会堂でラビと呼ばれる律法の先生から一年間モーセ五書(創世記〜申命記)を説き明かして貰いながら通読してきましたが、新年に入るとまた改めて創世記に戻って読み始めるのです。これは大切なことです。聖書66巻の基本は何と言ってもモーセ五書にあるからです。しかしイエス・キリストの十字架と復活の出来事以来、キリスト教会はモーセ五書の精神が福音書においてこそ明らかにされることを教えられました。牧師である私はこの教会に赴任して以来、今日のように何か特別な行事や教会暦が重なった時は別として、通常の主日礼拝では新約聖書、特に福音書を連続的に学ぶことにしています。
さて洋の東西を問わず、子どもの幸福を祈る親心に違いはありません。しかし問題は真の幸福とは何かと言うことが明確でなければ、教会もその子どもの親たちも、ただ甘えるばかりで我が儘な子どもにしてしまいます。
「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。」ヨハネの手紙一3章1節
これが今朝私たちに与えられたみ言葉です。このみ言葉の前には誰も一人前の大人と呼べる者はいません。神の御前には年齢に関係なく、等しく「子ども」です。私たちが私たちの子や孫に何かを教えようとするなら、その前に私たち自身がひとりの幼子として神を父と呼び、この父から学ぶ必要があるのです。2000年前、イエスさまは幼子をその腕に抱き、祝福しながら、それを見守る両親や大人たちに、「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われたみ言葉を思い起こして下さい。
神が私たちに教えようとするもの、それは「愛」です。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟たちのために命を捨てるべきです。」(16節)と教えられているように、神が私たちを愛する愛は御自分の命を捨てるほどの愛です。この愛を得た者だけが、兄弟の為に自分の命を与えることができるのです。私たちは先ず神の愛に生かされることから人生の目標を打ち立てる必要があります。神の「愛」は愛を与える側で大いなる犠牲を伴っていることを忘れてはなりません。神の愛は実に私たちを愛するために命を懸けて下さったのです。十字架がそれです。この愛に目覚めた者は必ず自分の罪を認めざる得ません。こんなに罪深い者を救う為にイエスさまは十字架の上に御自分の命を捨てて下さいました。このことを子どもたちに教えてこそ子どもを真実に愛していることになります。この愛を伝えてこそ子どもたちを真実に祝福したと言えるのです。
スコットランドと言う国のお話です。ある女の人が教会の前を通りかかりました。見るともなく案内看板を見ている内に、中に入ってみたくなりました。牧師が講壇に立ってメッセ−ジをしています。案内の人に導かれるまま、彼女は一つのベンチに座りました。ところがたちまち彼女の心はメッセ−ジに釘付けになりました。それは罪を悔いて神の懐に帰れと言う内容でした。聴いている内に彼女はその場に倒れ伏しました。礼拝は中断されました。皆は心配そうに彼女の周りを囲んでいます。その内に医者が来ました。しかしどこと言って異常がないことが分かり、彼女も間もなく起きあがりました。皆も安心してそれぞれのベンチに戻り、牧師もメッセ−ジを再開しようとしたその時です。彼女は牧師に言いました。「わたしは今ようやく回心しました。イエスさまこそ救い主、キリストであることがはっきり分かりました。わたしは神さまの愛を信じます。わたしのような者でも罪が赦されていることを信じることができます。」と。
彼女は遠い村はずれの山中にある取り分け貧しい一軒家に住んでいましたが、母親を一人置いて家出をしたのが9年前のことでした。それからというもの、彼女は転々と各地を巡り、一杯の食物を得るためにあらゆる自堕落な生活に沈み込んでいました。しかしその日、尊いメッセ−ジを聴いて回心した彼女は再び母親のもとに帰って赦しを乞うべく家路につきました。遠い道程をひたすら歩いてようやく懐かしのわが家の前に辿り着いたときはとっぷりと日が暮れていました。途中雨に遭い、傘も持たない彼女は全身ずぶぬれでした。彼女は家の扉をノックしました。家の中には薄明かりが灯っているようですが、何の答えもありません。もう一度ノックしましたが、やはり応答はありません。三度叩きますが、答えはありません。彼女の心の内に不吉な予感が走りました。さては9年の間に母は死に、誰か良からぬ者が住みついているかも、と。しかしとにかく家の中に入って確かめたいと、もう一度戸を叩こうとしたその時、朝から何も食べていないので、体の力が抜けて前に倒れかけました。すると、何と言うことはない、すーっと戸が開くではありませんか。家の中には明かりが寂しそうに灯っています。彼女はそれを頼りに、一間しかない部屋の隅っこにあるベッドの近くにそっと寄って行きました。静かに歩いたつもりですが、人の気配を感じたのか母親は目を覚まし、「誰?」と尋ねました。彼女がちょうど灯りの影になっていてよく見えなかったからです。「お母さん、わたしです」と答えました。ああその声こそ、9年間聞くことのできなかった娘の声です。母親は電気に打たれたように飛び起きて、「まあ、お前かい、お帰りなさい」と涙ながらに娘を抱き寄せました。そして直ぐに濡れた服を着替えさせ、温かい食事を用意してやりました。
食事を終えると娘はこれまで犯した罪の生活の全てを隠さず述べて赦しを乞い、ある教会の礼拝で神さまの前に回心したことも報告しました。母親は満面笑みをたたえ、全てを赦しました。二人はもう一度抱擁し合いました。彼女は母の背中を撫でながら、「それにしてもお母さん、こんな寂しい山の中、しかも真夜中に何故戸に鍵をかけておかなかったの? もしものことがあったら大変よ」と尋ねました。すると母親は体を離して娘の顔を両手で撫で回しながら、「いいえ、戸を開けていたのは今日に始まったことではないのよ、あなたがこの家を出て行ったその晩から9年間、一度も鍵をかけたことはないの。あなたがいつ帰って来ても中に入れるように灯りもつけておいたのよ」と言いました。
この母の愛に神の愛が見えます。この母の祈りこそ娘を神に近づけ、罪に目覚めさせたのではないでしょうか。 祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。
わたしたちは今日イスラエルの故事に倣って「子どもを祝福する」時を持ちました。2000年前、イエスさまは幼子をその腕に抱き、祝福なさいました。そしてわたしたち仙川キリスト教会も牧師に託して幼子の頭に手をおいて祝福を祈りました。同時に主が幼子を祝福しながら、「あなたがたも幼子のようにならなければ神の国にふさわしくない」と言われたみ言葉が思い出され、今日与えられた气ハネ3:1のみ言葉と重なります。あなたがこんな者をも愛して下さっていることにただ感謝の外ありません。どうかわたしたちも幼子のような心であなたを愛する者とならせて下さい。
私たちの主イエス・キリストのお名前によってこの祈りをお献げします。 アーメン。