メッセージ 高橋淑郎牧師
「初めての子」と書かれています。これには急に産気づいたマリアの不安、ヨセフの戸惑い、幼子を寝かせるものとして用意してやれるものが飼い葉桶の他にないのかという2人の涙、そんなものが読みとれます。しかし聖書が「初めての子」と呼ぶのにはもっと深い意味があります。同じ意味の言葉ですが、別の聖書の箇所に「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です」(コロサイ1:15)とあります。この「造られる前に生まれた方」というのが原語では「初めての子」と同じ言葉なのです。つまり、ここに言う「初めての子」は、永遠の初め、世界がまだ造られるはるか以前、既に父なる神によって生まれた神の独り子キリストという意味です。
神はこの「初めての子」イエスさまをこの世界に送り、ヨセフとマリアの手に委ねられたのです。ヨセフとマリアはこの世の権力者である皇帝アウグストゥスに服しながら、真の王であるキリストを授かりました。それはこの世の矛盾の中で苦しみながら、この世の法律のもとで最善を尽くして、魂の救いを待ち望んでいる人々を象徴しているヨセフとマリアの姿です。神は悪しき世の中にあって、悪の誘惑と戦いながら、誠実に生きようとする人のために救い主を送って下さいました。
同時にこの世の全ての罪人を救うためにもキリストは飼い葉桶の中に身を横たえておられます。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって、自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6〜8)と聖書にある通りです。この世は罪を知らないお方を十字架刑という最も忌まわしい殺し方でこの世界から追放してしまいました。しかもその十字架の下では刑の執行人たちがイエス・キリストの衣服を奪い、くじを引いて分け合っていたのです。真に裁かれるべきはこの世です。しかし神は主イエスの十字架による死と三日目の甦りを以て罪の一切を贖いとり、この世と和解して下さいました。これが「初めての子」の意味です。わたしたちは今朝、わたしたちの罪が清められ、救われ、永遠の生命の約束が果たされたことを感謝し、祝いましょう。
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メッセージ 高橋淑郎牧師
皆さんクリスマスおめでとうございます。先程教会の人々によって演じられた降誕劇でイエス・キリストがどのようにしてこの世にお生まれになったかお分かりになったことと思います。そこでわたしもまた短い時間、このクリスマスの意味についてお話ししたいと思います。クリスマスとは「キリストを拝む」と言う意味です。私たちは私たちの救主イエス・キリストのお生まれを心から讃美し、そしてお祝いしましょう。
ヨセフと許嫁の妻マリアはローマ皇帝の命令に従って住民登録するために住み慣れたナザレの地を離れてベツレヘムへと旅立ちました。ヨセフは身重のマリアを労りながら彼女のペースに合わせてゆっくりと旅を続けましたから、当然他の人々よりも遅れ勝ちになります。ようやくベツレヘムの町に入ったものの、彼らを受け入れてくれる旅館はどこにも見つかりません。しかし幸いなことに一軒の家(多分客間も持たない貧しい農家だったと思います)のご主人が「家畜小屋でよければどうぞ」と言って宿を提供してくれました。そして何日かが過ぎた頃、「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月満ちて初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」
これが救い主誕生の瞬間です。マリアが産気づいたのは夜のことでした。もちろん医者も助産婦もいません。マリアにとって初めて経験する出産です。そばにいるヨセフだけが頼りです。ヨセフは慣れない手つきでようやく赤ちゃんイエスさまを取り上げたものの、いつまでも掌に乗せているわけにも行きません。いささか抵抗もあったでしょうが、取り敢えず幼子を飼い葉桶の中に寝かせました。
「初めての子」と書かれています。これには急に産気づいたマリアの不安、ヨセフの戸惑い、幼子を寝かせるものとして用意してやれるものが飼い葉桶の他にないのかという2人の涙、そんなものが読みとれます。しかし聖書が「初めての子」と呼ぶのにはもっと深い意味があります。同じ意味の言葉ですが、別の聖書の箇所に「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です」(コロサイ1:15)とあります。この「造られる前に生まれた方」というのが原語では「初めての子」と同じ言葉なのです。つまり、ここに言う「初めての子」は、永遠の初めに既に父なる神によって生まれた神の独り子キリストという意味です。神はこの「初めての子」イエスさまをこの世界に送り、ヨセフとマリアの手に委ねられたのです。ヨセフとマリアはこの世の権力者である皇帝アウグストゥスに服しながら、真の王であるキリストを授かりました。それはこの世の矛盾の中で苦しみながら、この世の法律のもとで最善を尽くして、魂の救いを待ち望んでいる人々を象徴しているヨセフとマリアの姿です。神は悪しき世の中にあって、悪の誘惑と戦いながら、誠実に生きようとする人のために救い主を送って下さいました。
同時にこの世の全ての罪人を救うためにも真の王である救い主キリストは飼い葉桶の中に身を横たえておられます。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって、自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6〜8)と聖書にある通りです。イエス・キリストのご生涯は徹底した謙りそのものです。真の王である神の独り子が貧しい大工の家に生まれ、この地上にある間、人の子として歩み通されました。それなのにこの世は罪を知らないお方をこの世は罪人の一人に数えるようにして、十字架刑という最も忌まわしい殺し方でこの世界から追放してしまったのです。しかもその十字架の下では刑の執行人たちがイエス・キリストの衣服を奪い、くじを引いて分け合っていたのです。真に裁かれるべきはこの世です。しかし、神は主イエスを十字架に釘付けることによって、この世の罪の一切を贖いとり、それによってこの世と和解して下さいました。これが「初めての子」の意味なのです。わたしたちがクリスマスを祝うのは、主イエス・キリストの十字架と復活によってわたしたちの罪が清められ、救われ、永遠の生命の約束が果たされたことを祝うことなのです。はるか昔、イスラエルの王ダビデはすでにこの方を知り、この方こそ真の王であるキリストと認めて、次のように主イエス・キリストを讃美する歌をうたっています。「城門よ、頭を上げよ とこしえの門よ、身を起こせ、栄光に輝く王が来られる。栄光に輝く王とは誰か。強く雄々しい主、雄々しく戦われる主。城門よ、頭を上げよ とこしえの門よ、身を起こせ、栄光に輝く王が来られる。栄光に輝く王とは誰か。万軍の主、主こそ栄光に輝く王」(詩編24:7〜10)と。
クリスマスの朝、わたしたちも「すべてのものが造られる前に生まれた」神の独り子を王なるキリストと讃美し、この方の前に従順な生涯を始めましょう。祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。
あなたの独り子イエス・キリストの御降誕を感謝します。イエスさまはマリアを通してこの世に生まれてくださいました。もしイエスさまがお生まれ下さらなかったら、わたしたちは愛を知りませんでした。もしイエスさまが十字架に死んで下さらなかったらわたしたちは罪を悔い改めることを知りませんでした。もちろん救われることはなかったのです。「初めての子」という意味を今知りました。神の独り子が罪深いわたしたちの心というベツレヘムにお生まれ下さったことを悟ることによって、わたしたちは私たちの内に「初めての子」イエスさまに見えることができるのでした。あなたのみが全ての人々に崇められますように。私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン