【主日礼拝・メッセージ要約】                       2002年12月29日
                      
「その名はイエス」

ルカによる福音書 第2章21節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 「イエス」はヘブル語の読み方では、「イェホシュア」ですが、イエスさまはその他色々な名前でも呼ばれています。「インマヌエル(神は我々と共におられる)」、「驚くべき指導者」、「力ある神」、「永遠の父」、「平和の君」、「言(ことば)」、「まことの光」、「弁護者」、「ユダヤ人の王」と。またイエスさまもご自分のことを「天から降って来たパン」、「世の光」、「わたしはある(ヘブル語で『ヤハウェ=唯一の主である神』の意味」、「門」、「良い羊飼い」、「道」、「真理」、「命」、「まことのぶどうの木」、「復活」、「命」等と呼んでおられます。このようにイエスという呼び名には豊かな意味があります。それで弟子たちはこの方を「主」と呼び、またイエス・キリスト、またキリスト・イエスと呼ぶようになりました。イエスさまは人でありながら神の御子、神でありながら人の子であることを信じたからです。名は体を表すと言いますが、イエスさまに関して言うなら真にその通り、彼こそその名に相応しい生涯を送られた方です。イエス・キリストこそ真に神であり、人となられた方です。

 2002年も余すところ今日を含めて後3日です。皆さんにとって笑いと涙を秤にかけると、どちらの方が重いと感じる1年でしたか。12月25日を過ぎると、この国は「忠臣蔵」の映画やお芝居を見ることと、年末の慌ただしさと正月準備の渦の中に呑まれて行きます。しかしキリストの教会は来年1月6日まで降誕節としてイエスさまのお生まれを祝い続けます。クリスマスだけではありません。一年を通してイエスさま中心に生活することを忘れないのがクリスチャンです。この方無しに私たちの2002年はなかったのです。またこの方無しに2003年はありません。「わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって 聖なる御名をたたえよ。わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何一つ忘れてはならない」、また「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられる」と言う聖句があります。今ここにあることを互いに喜び、讃美と祈りを神さまに献げましょう。今日まで守られてきた事実を感謝しましょう。私たちの幸福は神が望んでおられることをすることによって得られることを忘れてはなりません。

 
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【主日礼拝・メッセージ】                    2002年12月29日
                      
「その名はイエス」

ルカによる福音書 第2章21節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 イエスさまがお生まれになって7日が過ぎ、8日目を迎えました。イスラエルでは、生後8日目の男の赤ちゃんは人生最初の試練の時を迎えます。火打ち石で作ったナイフで性器の包皮を切り取るのです。この場面を描いた油絵を見たことがありますが、幼子は泣きわめいています。十分な麻酔も施して貰えないで手術を受けることを考えていただければ、どれほどの苦痛かお分かりになると思います。こうして幼子はようやくイスラエルの男子として名前を貰えるのです。本人は痛みのためにそれどころではないでしょうが、両親にとって、周りの人々にとって、これはとても厳粛な儀式であり、同時にめでたい日で、これを「割礼」と呼びます。聖書に、「血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです」(ヘブライ人への手紙9:22)とありますが、元々はこの割礼の儀式を指して言われていたみ言葉です。しかし、この割礼と言い、後にお受けになるバプテスマといい、本来であればイエスさまはそのどちらも受ける必要のない儀式です。何故なら、イエスさまには赦されなければならない罪などないからです。しかし、イエスさまはそのどちらもお受けになりました。それは天の父なる神さまの御心だからです。

 人は「割礼」を受けることによって、そこで流される血をもって罪が清められ、神の民(=イスラエル)としての契約の印となるという意味があります。しかしイエスさまは後の日、頭に茨の冠を押し被せられ、十字架の上に手と足を釘で打ち抜かれ、脇腹を槍で突き刺されるというむごたらしい死を以て全身血まみれになられました。その血によって私たちは罪と死と滅びの縄目から解放されました。私たちはイエスさまの十字架の死と甦りによって救われ、罪は清められ、新しいイスラエル、神の契約の民と受け入れられたのです。だからもう割礼を受ける必要はなくなりました。イエスさまの降誕8日目の割礼は十字架の死と甦りの印であったのです。割礼ではなく、十字架によってこそ、「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」(ヘブライ人への手紙9:22)というみ言葉が全うしました。こうしてヨセフとマリアは彼らの知らないうちに割礼から十字架への橋渡しの役割を果たすことができました。

 この日、もう一つめでたいことがありました。それは幼子に対する命名の儀式です。どこの親でも一番嬉しいときであり、同時に一番頭を痛めるときです。その子の一生ついて回るものだからです。苗字は変えることが出来ますが、名前を変えることは大変です。だから親は子どもの幸せのために、またその子だけでなく、周りの人々が少しでも親しみを持つことができるためにとあれこれ考えるのです。

 ところがヨセフとマリアは幼子の命名に際して悩んだという記事は見当たりません。何故なら、その子についてはすでに天使から命名されていたからです。その名は「イエス」でした。イエスさま以後この名はユダヤ教徒の間で聞かれなくなりました。イエスさまを十字架につけたユダヤ人たちは十字架につけられた犯罪人と同じ名を我が子につけたくないと考えたでしょうし、クリスチャンの間では私たちの罪の贖いを成し遂げて下さったイエスさまと同じ名前を付けるなど恐れ多いと考えたからです。しかし、イエスさまの時代までこの名はどちらか言うと平凡な名前だったと言われています。「イエス」はギリシャ語で発音した場合の読み方で、ヘブル語の読み方では、「イェホシュア」となります。どこかで聞いたことのある名前だなと思い出した人も居られるでしょう。モーセの後継者で敬虔な神の人「ヨシュア」、また預言者の「ホセア」と同じです。その意味は「主は救い」という意味です。処がこの方についてはその他色々な名前で呼ばれています。いくつかを紹介しますと、預言者イザヤは「インマヌエル(神は我々と共におられる)」、「驚くべき指導者」、「力ある神」、「永遠の父」、「平和の君」(イザヤ7:14,9:5)と呼び、また使徒ヨハネは「言(ことば)」、「まことの光」、「弁護者」(ヨハネ1:1,9、气ハネ2:1)と呼び、主イエスを十字架につけたローマの総督ピラトは「ユダヤ人の王」と呼びました。イエスさまもご自分のことを、「天から降って来たパン」、「世の光」、「わたしはある(ヘブル語で『ヤハウェ=唯一の主である神』の意味」、「門」、「良い羊飼い」、「道」、「真理」、「命」、「まことのぶどうの木」、「復活」、「命」(ヨハネ6:41,8:12,58,10:9,11,11:25,14:6,15:1)等と呼んでおられます。このようにイエスという呼び名には豊かな意味があります。それで弟子たちはこの方を主と呼び、またイエス・キリスト、またキリスト・イエスと呼ぶようになりました。イエスさまは人でありながら神の御子、神でありながら人の子であることを信じたからです。名は体を表すと言いますが、イエスさまに関して言うなら真にその通り、彼こそその名に相応しい生涯を送られた方です。イエス・キリストこそ真に神であり、人となられた方です。

 

 2002年も余すところ今日を含めて後3日です。皆さんにとって笑いと涙を秤にかけると、どちらの方が重いと感じる1年でしたか。12月25日を過ぎると、この国は「忠臣蔵」の映画やお芝居を見ることと、年末の慌ただしさと正月準備の渦の中に呑まれて行きます。しかし、私たちキリストの教会は来年1月6日まで降誕節としてイエスさまのお生まれを祝い続けます。クリスマスだけではありません。一年を通してイエスさま中心に生活することを忘れないのがクリスチャンの生き方なのです。私たちはイエスというお名前を学ぶことを通してわたしたちの主イエスがどのようなお方であるかと言うことを知りました。またこの方が私たちのために何をして下さったかも知ることができました。この方無しに私たちの2002年はなかったのです。またこの方無しに2003年はありません。詩編103:1〜2を開いて読み、このみ言葉を心に留めてください。「わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって 聖なる御名をたたえよ。わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何一つ忘れてはならない。また別の聖書に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(气eサロニケ5:16〜18)と教えられています。今年も私たちの身の回りには色々なことがありましたが、今ここにあることを互いに喜びましょう。心込めて讃美と祈りを神さまに献げましょう。そして今日まで守られてきた事実を神さまに感謝しましょう。私たちの幸福は神が望んでおられることをすることによって得られることを忘れてはなりません。

祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 「そのみ名は何よりも高く、そのみ名はわが主イェス。そのみ名は何よりも高く、そのみ名は大いなる主」と讃美の歌がありますが、あなたのみ名だけがこの世界で最も高くおられる主です。2002年は世界中で平和が脅かされる年でした。北朝鮮による拉致被害者が受けた心の傷は深く、その家族の帰国の目途も立っていません。またあの国の核武装の脅威が現実のものとなりかけています。国連によるイラクの核関連施設査察も順調とは行きません。イスラエルによるパレスチナに対する弾圧はパレスチナ過激組織によるテロの脅威を増幅しています。国内でも今年暗いニュースが後を絶ちませんでした。この教会で共に礼拝を献げている人たちのご家庭にもまた多くの試練が次から次へと押し寄せています。

 しかし私たちは失望も落胆もしていません。主イェスのみ名の故に私たちには希望があります。この世界に対してもあなたの御業を信じることができます。あなたは不思議な指導者です。平和の神です。道であり、真理であり、命です。十字架に死なれましたが、あなたは甦って今も生きておられます。2003年もあなたに対する信仰をもって迎えることができます。勝利の主であるあなたが支えて下さるからです。

私たちの主イエス・キリストのお名前によってこの祈りをお献げします。  アーメン。

 


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