【主日礼拝・メッセージ要約】                       2003年1月12日
                      
「思い出して泣く」

マタイによる福音書26章69〜75節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 ペトロは大祭司の中庭で人々と共に焚き火で暖をとりながら、尋問を受けておられる主イエスの成り行きを見守っていました。そのとき不意に「あなたもイエスの仲間では?」という声が飛んできました。1度、2度と彼は否定します。しかし3度目の問いかけに「誓って違う」と答えた直後、夜明けを告げる鶏の鳴き声がしました。その瞬間彼は、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」(34節)という主のみ言葉を思い出し、外に出て激しく泣きました。他の福音書によると、鶏が鳴くと同時に「主は振り向いてペトロを見つめられた」(ルカ22:61)ということです。主の眼差しに触れた時、居たたまれなくなって外に飛び出して行ったのではないでしょうか。深い闇の中で一番鶏が鳴きました。ペトロの心はもっと深い闇に包まれています。しかしその闇は長く続きません。夜明けは近いのです。間もなく太陽の光が彼の周りを照らすことでしょう。同じように彼の心の中にも一筋の光が今射し込んできました。彼の弱さ、卑怯な振る舞い、誓ってまで主イエスを知らないと言ってしまった罪深さなど、その一切を贖って下さる恵みの光、赦しの輝きが彼の心の奥深くに射し込んできます。彼は罪を探られるような主の眼差しをまともに浴びました。しかしあの主イエスの眼差しは彼の弱さを責めるものではありませんでした。主イエスは御自分を裏切るペトロのことを何もかもご存知だったのです。彼が見た主の瞳は「わたしはお前のために十字架にかかるのだよ」と言う赦しの眼差しだったのです。主イエスの眼差しに触れて彼は赦され、立ち直る恵みの機会を得たのです。

 私たちもこれまで何度主を裏切ったことでしょう。一番大切な時に、一番に証しなければならない主イエスを「知らない」と逃げてこなかったでしょうか。愛する皆さん、主イエスとペトロの物語は実にあなた自身に与えられたメッセ−ジであることに気が付きましたか。あなたもペトロと同じ所にいなかったでしょうか。しかし、あなたも主イエスのみ言葉を聴く機会に恵まれたのです。あなたも主の眼差しに触れる恵みの機会が与えられたのです。主は実にあなたのために十字架に上げられてあなたの罪を贖ってくださったのです。

 
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【主日礼拝・メッセージ】                       2003年1月12日

                      
「思い出して泣く」

マタイによる福音書26章69〜75節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 私たちの教会では第1日曜日を除く毎週の礼拝の中で教会のメンバーが交代で「信仰の証」というものをします。クリスチャンでない方のために分かり易く言いますと、普段の生活の中で自分が見たこと聞いたこと、また体験したことを通して主イエス・キリストが如何に関わって下さったかをありのままに語るのです。それは必ずしも嬉しい内容のこととは限りません。時に涙の体験談があります。失敗談もあります。しかしイエス・キリストを信じる人たちの信仰の証はたとえ失敗談であっても最後には感謝で終われるのです。今司式者が読んで下さったこの箇所は恐らくペトロの証を聞いたマタイがまとめて書き記したものと思われます。

 ペトロはつい数時間前、主イエスが主催して下さった最後の晩餐の席で、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言いました。また、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは。決して申しません」とも言いました(マタイ26:33,35)。その決心が本物であったかどうか試される時が来ました。ペトロは大祭司の中庭で尋問を受けておられる主イエスの成り行きを心配して見守っています。その時です。最初は中庭で1人の女性から、次に庭を出る門の所で別の女性から、三度目に数人の男性から「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた。」、「この人はナザレのイエスと一緒にいました。」、「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる」と詰め寄られたとき、慌ててそれを否定しました。三度目には、「呪いの言葉さえ口にしながら、『そんな人は知らない』と誓い始めた。」と言うことです。別訳の聖書によると、「『そんな男は知らない。これが嘘なら、呪われても良い』と幾度も呪いをかけて誓った」(塚本虎二訳)と言うことです。

 ペトロという人は良くも悪くも熱血漢です。あの最後の晩餐の時にも熱心に自分が如何に主を愛しているかを知って貰おうと一所懸命でした。そして今はまた自分が主イエスとは関わりのない者であることを信じさせようと必死です。どちらのペトロが本当のペトロかと、読む者は混乱します。ローマ・カトリック教会では、歴代の法王は使徒ペトロの継承者であると言い伝えられています。プロテスタントでもペトロは偉大な使徒であると認めています。しかし、ここに見るペトロにはその威厳らしき姿のかけらもありません。

 彼は大祭司の中庭に入って裁判の成り行きを見るつもりでした。マルコ14:67によると焚き火をしていました。海抜1,000mもあるエルサレムの夜は、春とは言えまだ冷えます。ペトロも焚き火で体を暖める仲間入りをして座っています。ヨハネ18:25では立っていたと言うことです。ペトロは火にあたりながら立ったり座ったり落ち着かないのでかえって目立ったのでしょう。「あなたもイエスの仲間では?」という問いかけを聞く度に中庭から門へ、そして外へと場所を変えながら逃げ回るように否定し続けます。3度目の問いかけに「誓って違う」と答えた直後、夜明けを告げる鶏の鳴き声がしました。その瞬間彼は、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」(34節)という主のみ言葉を思い出し、外に出て激しく泣きました。どうしてその場ではなく、外に出て行ったのでしょう。ルカ22:61を見ると、その謎が解けます。鶏が鳴くと同時に「主は振り向いてペトロを見られた」と言うことです。ペトロは主の眼差しに触れたので、居たたまれなくなって外に飛び出して行ったのでしょう。

 他の福音書によると、鶏が鳴くと同時に「主は振り向いてペトロを見つめられた」(ルカ22:61)ということです。主の眼差しに触れた時、居たたまれなくなって外に飛び出して行ったのではないでしょうか。「彼は己の意志の弱さと罪深さに苛まれていたのでは?」という人がいます。多分そうだと思います。そうだとすれば、彼がその後どうしたかと言うことを是非とも知りたいのですが、聖書はそこで終わっているのです。マタイによる福音書に関して言えば、これ以後彼の名前は全く見られません。確かに主イエスを裏切ってしまったという罪の意識が彼を苦しめて激しく泣いたことはうなずけますが、つまり罪を悔いたと言うことは分かるのですが、ルカ15章の放蕩息子のように主の御許に立ち返って、明確な悔い改めを言い表したという記録は見られません。しかしそれでも彼はその後悔い改めたという明確な証拠を見ることはできます。それは、主イエスのみ言葉を思い出して泣いたという事実です。クリスチャンでありながら罪を犯すことがあります。その時私たちははらわたに言い知れぬ苦いものを感じます。居たたまれない気持ちになって、その場から逃げ出したくなるものです。しかし罪を犯したからと言って逃げ回っているだけでは解決になりません。「み言葉を思い出す」ことが悔い改めに通じる唯一の道です。

 もう一つペトロが立ち直った証を見ることができます。それは主イエスの眼差しです。一番鶏が深い闇の中で鳴きました。ペトロの心も深い闇に包まれたかに見えます。しかしその闇は長く続きません。夜明けは迫っているのです。間もなく太陽の光が彼の周りを照らすことでしょう。同じように彼の心の中にも一筋の光が今射し込んできました。主イエスは何もかもご存知だったのです。ペトロが主を裏切ることを。それでも彼のために贖って下さる恵みの光、赦しの輝きが彼の心の奥深くに射し込んできました。人々の追求を逃れて逃げ出そうとしたペトロを主イエスが見つめておられることに気が付きました。罪を探られるような主の眼差しをまともに浴びました。しかしあの主イエスの眼差しは彼の弱さを責めるものではありませんでした。「わたしはお前のために十字架にかかるのだよ」と言う赦しの眼差しだったのです。彼が男泣きに激しく泣いたのは、主イエスの眼差しに触れたからではないでしょうか。彼はあの瞬間に赦され、立ち直る恵みの機会を得たと言えないでしょうか。

 私たちもこれまで何度主を裏切ったことでしょう。一番大切な時に、一番に証しなければならない主イエスを「知らない」と逃げてこなかったでしょうか。愛する皆さん、今朝読んだテキスト、この主イエスとペトロの物語は実にあなた自身に与えられたメッセ−ジであることに気が付きましたか。あなたもペトロと同じ所にいたのではなかったでしょうか。深い闇の世界をさまよっていたのではありませんか。しかし、あなたは今朝主イエスのみ言葉を聴く機会に恵まれたのです。あなたも主の眼差しに触れる恵みの機会が与えられたのです。主は実にあなたのために十字架に上げられてあなたの罪を贖ってくださったのです。今こそ犯した罪をありのままに認めて悔い改めましょう。そして主の御許に立ち帰りましょう。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(コリント6:2)ですから。 祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 今日もみ言葉を感謝します。私たちは主の日毎にこうして礼拝を献げ、奉仕をし、献げ物をしてあなたの弟子であるつもりですが、一歩教会を出ると、付き合う人によってペトロのようにあなたを知らないと言い切っている自分に気付かされますが、ペトロのように激しく泣くということはありませんでした。どこかでこれが人間だと言い訳をして何となくその時が過ぎてきたように思い出されます。

 しかしあなたはこんなに自己中心の私たちのためにも御子イエスをこの世にお遣わし下さいました。そして十字架の愛で私たちの罪を贖いとり、赦し、受け入れて下さいました。こんなに大きな愛を受けた私たちですから、これからの日々、絶えずみ言葉を思い出すことができますように。聖書を通して私たちを見つめておられるイエス・キリストの眼差しに出会うことができますように。

私たちの主イエス・キリストのお名前によってこの祈りをお献げします。  アーメン。


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