メッセージ 高橋淑郎牧師
ユダの場合は果たして本当に「自殺」という結論しかなかったのでしょうか。彼は神殿の指導者の前で堂々とイエスさまを「罪のない人」と宣言し、この方を売り渡すという愚かな罪を犯したことを後悔しました。そして手にしていた銀貨30枚を神殿に投げ込んで立ち去り、首を吊って死んでしまいました。その行為は一見潔いように見えます。それにもかかわらず、聖書はユダの行為を支持していないのです。使徒ペテロは彼について、「ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。」(使徒言行録1:17〜18)と言っています。罪の闇路を歩く人にとって、そこから先もはや救いはないのでしょうか。いいえ、あるのです。その心の闇を照らすためにこの世に来られたのがイエス・キリストでした。
「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(气ハネ2:1〜2)とあります。
主イエスが十字架にかかって死ぬことになったのは、勿論直接にはユダの浅はかな罪のためでした。しかし、神の御目から見ると、それさえ全世界の罪人を救うために遙か昔から定められた大いなるご計画であったのです。罪は人を孤独にします。後悔の念に満たされると、確かに目の前が真っ暗になります。しかし、その心の闇を照らすためにこの世に来られたのがイエス・キリストでした。このイエスさまは実に彼のためにも死んで下さるのです。彼は手にしていた銀貨30枚を神殿に投げ込んだ後、せっかくイエスを罪なき方と公言してはばからない勇気を持っていたのですから、この主のもとに立ち帰って赦しを請うべきでした。自ら死を選ぶのではなく、ユダのために死んで下さる十字架のイエスの下に悔い改めて立ち帰るべきでした。そうすれば、彼は救われたのです。後悔の涙は死に至らせます。しかし、悔い改めて流す涙はその人を主イエスの下に導き、救いと永遠の生命をもたらすのです。
メッセージ 高橋淑郎牧師
1998年5月17日の主日礼拝からマタイによる福音書を読み始めて今朝ようやく27章に入りました。毎週マタイによる福音書のみを読んでいたら多分2000年中には読み終えていたと思いますが、途中教会カレンダーに基づく聖書の箇所を読んだり、この教会独自の特別の行事や記念の日に因んだ聖書の箇所を読んだりと随分回り道をしましたので、皆さんにとってはマタイによる福音書の全体像を掴みにくいことでしょうが、お赦し下さい。主が与えて下さった聖書テキストとして最後まで読み通したいと思います。ご理解とご協力をお願いします。
さて、今日は福音書の中でマタイによる福音書にだけ見られるもう1人の弟子であるユダの悲しい物語について学びましょう。「イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、『わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました』と言った。」とあるように、ユダは今になって自分が取り返しのつかないことをしてしまったという激しい自責の念に駆られています。彼の目は後悔の涙で光っていたことでしょう。まさか愛する先生に有罪の判決が下るとは考えてもいなかったと言うのでしょうか。しかしどう言い訳をしても彼は主イエスをこの地上から抹殺したいと願う人々の悪巧みに手を貸してしまったことは紛れもない事実です。お金を返して済む問題でないことはユダにも良く分かっていましたが、せめてそうしないではいられません。ところが目的を果たした祭司長たちの彼に対する態度は、「我々の知ったことではない。お前の問題だ。」と手のひらを返したように冷淡です。「愛は、すべてを完成させるきずなです。」(コロサイ3:14)というみ言葉がありますが、反対に罪は人を孤独の谷底に突き落とします。確かに「ユダがしたことはユダ自身の問題」です。それはそうですが、祭司長たちの冷たい言葉に、彼は目の前が真っ暗になってしまったことでしょう。ユダはこの苦しみをどこに持って行くべきか、もう何も見えなくなってしまいました。「愛する先生に死罪が下るなら、私も一死をもってこの罪を償うしかない。これが彼の結論であり、とった行動です。「こうして彼は罪に罪を重ねて自ら命を絶ってしまった。ユダの罪は自殺をしたことだ。だから自殺は一切罪だ」と言う人がいますが、それは短絡的に過ぎる解釈だと思います。もちろん私も自殺を奨励するつもりはありません。自分で自分の命を殺めることをしないで欲しいと願う者の一人です。しかし、自殺は一切罪だと裁くことにも問題を感じます。それこそ死人に鞭をあてることであり、遺された家族は益々追い込まれてしまいます。人を裁く主権は神にのみあることを私たちは忘れてはならないのです
但し、ユダの場合は果たして本当に「自殺」という結論しかなかったのでしょうか。彼は主イエスを売り渡してしまったその罪を後悔しました。そして手にしていた銀貨30枚を神殿に投げ込んで立ち去り、首を吊って死んでしまいました。その行為は一見潔い行いに見えます。彼は神殿の指導者の前で堂々とイエスさまを「罪のない人」と宣言しました。ペトロのようにイエスさまの弟子であることを拒んだりしませんでした。それにもかかわらず、聖書はユダの行為を支持していないのです。一度は主イエスを知らないと逃げ出したものの、後に悔い改めて主に立ち帰った使徒ペテロは彼について、「ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。」(使徒言行録1:17〜18)と言っています。罪の闇路を歩く人にとって、そこから先もはや救いはないのでしょうか。あります。その心の闇を照らす為にこの世に来られたのがイエス・キリストです。主イエスはかつてユダを初めとして12弟子に向かってこう言われました。
「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マタイ20:28)と。
また他の聖書にも、「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(气ハネ2:1〜2)と。
主イエスが十字架にかかって死ぬことになったのは、勿論直接にはユダの浅はかさのためでした。しかし、このことも神の御目から見ると、全世界の罪人を救うために遙か昔から定められた大いなるご計画であったのです。罪は人を孤独にします。後悔の念に満たされると確かに目の前が真っ暗になります。しかし、その心の闇を照らすためにこの世に来られたのがイエス・キリストでした。イエスさまは実に彼のためにも死んで下さるのです。彼は手にしていた銀貨30枚を神殿に投げ込んだ後、せっかくイエスを罪なき方と公言してはばからない勇気を持っていたのですから、この主のもとに立ち帰って赦しを請うべきでした。自ら死を選ぶのではなく、ユダのために死んで下さる十字架のイエスの下に悔い改めて立ち帰るべきでした。そうすれば、彼は救われたのです。後悔の涙は死に至らせます。しかし、悔い改めて流す涙はその人を主イエスの下に導き、救いと永遠の生命をもたらすのです。
最後に神殿当局者の姿も見てみましょう。彼らはイエスを捕らえて裁判にかけるためにユダを利用しました。ところがその目的を果たすと、ユダに対して余りにも冷たい仕打ちです。ユダが放り投げて行った銀貨30枚を拾い集めてそれで陶器職人の畑を買い、外国人の墓地を作ることにしたと言うことです。これこそまさに辻褄合わせの形ばかりの慈善事業です。しかし、彼らはユダが放り投げていった銀貨を「血の代金」と呼びました。また、この銀貨で買い取った「陶器職人の畑」を後の人々は、「血の畑」と呼びました。どうしてこの銀貨が「血の代金」、この地所が「血の畑」と呼ばれるのでしょうか。使徒言行録における使徒ペトロの説教は、ユダの辿った結末と重ねていますが、福音書の著者マタイは、ゼカリヤ書11:12〜13とエレミヤ書32:6〜9の預言を重ねて、エレミヤの預言として紹介しながら、十字架の出来事によってこの預言が実現したと書いています。しかもそれは「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました。」とユダ自身が言ったことに由来すると証言しているのです。即ちこの「血の代金」で買い取った「血の畑」こそ、神殿当局者たちが罪を知らない方を十字架に釘つけると言う罪を犯していることを証言していることになるのです。神の不思議な摂理と言うほかありません。
このマタイによる福音書の記事は、ともすれば教会が陥りがちな罪の問題をえぐり出したと言えないでしょうか。気を付けないと一番貴い宝である福音を宣べ伝えるはずの教会であっても、人類のために血を流して下さった主イエスを閉め出して、辻褄合わせの慈善事業に熱心の余りに、意志の弱い人を罪に走らせるばかりでなく、教会に来たことを後悔させ、永遠の死に至らせてしまう救いがたい罪を犯すことがあります。心したいものです。 祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。
あなたのみ言葉を感謝します。今朝、私たちはユダの涙を見ました。しかしその涙は自分を責めるばかりの涙でした。後悔のために流した涙はその目を曇らせて彼のためにも死んで下さる十字架のイエスさまを永遠に見失わせてしまいました。今この席であなたに礼拝を献げている人々の中に犯した罪を思い、密かに泣いている人がいるかも知れません。どうぞその涙が後悔の涙で終わらず、命に至る悔い改めの涙となるようにその方の心を支えて上げて下さい。
そうした人々を十字架の主イエスへと導くべきこの教会を託されている私たちキリスト者が自分でも気が付かない内に退け、再び足を運びたくないと思わせるような群れとならないように、いつも清められた器とならせて下さい。愛と謙遜による一致を保つ一人びとりとならせて下さい。
私たちの主イエス・キリストのお名前によってこの祈りをお献げします。 アーメン。