【主日礼拝・メッセージ要約】                       2003年3月2日
                      
「封印された墓」

マタイによる福音書27章57〜66節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 アリマタヤ出身の議員であるヨセフは、「イェスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠して」いました(ヨハネ19:38)。しかしその彼が、今「勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出」ました(マルコ15:43)。彼は自分のために用意しておいた墓地に主イエスを葬る決心をし、それを実行しました。今彼は公然と主イエスの弟子であることを行いで示しました。主のためには名誉も地位も財産も、いや命さえも捨てる覚悟ができたのです。十字架の力は彼を全く造り変えました。

 2人のマリヤという女性は、今まさに主が葬られる墓に向かって座っていました。アリマタヤのヨセフがするだけのことをやり遂げて家に帰っても彼女たちはまだ墓に向かって座っています。それは逃げ去った12人の男の弟子たちに代わって、主イエスが十字架の上で息を引き取られたこと、墓に葬られたことをその目に認め、そしてしっかりと心に焼き付けて置こうとしているかのようです。使徒信條の中に、「主はポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ」というくだりがありますが、復活の主イエス・キリストと出会わされたこの女性たちの存在なくして聖書に書き留めることはできませんでした。キリストの教会は、いつの時代にもこのように静かな信仰の眼差しに見守られながら成長させられてきたと言えないでしょうか。

 一方主イエスの復活を信じることができず、むしろその事実を隠蔽するために空しい努力をしているグループがあります。彼らが表面上宗教的な生活をしていても、彼らにとって、人は地上の死をもって全てが終わるという空しい哲学から自由ではないことを証明しています。確かに人はいつかは死ぬ。これは否定しようもない事実です。けれども命を与え、命を取り去る神のいますこともまた否定してはなりません。私たちは与えられた命を神が許す限り、精一杯生き抜かなければなりません。十字架を負うような厳しい試練が永遠に続くかと思っても、神はあなたをそのまま十字架に釘付けることはなさいません。あの呪いの木に上げられて下さったのはイエス・キリストだけです。神は決してあなたをお見捨てになりません。

 
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【主日礼拝・メッセージ】                      2003年3月2日

                      
「封印された墓」

マタイによる福音書27章57〜66節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 わたしの個人的な理由のために予定通りの順序でマタイによる福音書を読むことができませんでした。いつの日か抜け落ちた部分については埋め合わせをしたいのですが、今日は我が儘ついでにお許し頂いて、2月23日に読むはずであった57〜61節と併せて主イエス・キリストからのメッセ−ジに聴いて行きたいと思います。

 ミケラン・ジェロは、その生涯の中で4つのピエタを彫刻しました。「ピエタ」とは、イタリヤ語で「あわれみ」と言う意味ですが、十字架から降ろされたばかりのイエスの遺体を母マリアが膝の上に抱きとめている作品です。最初の作品は彼が25歳の作品です。若いマリヤががっしりとした膝の上にイエスの遺体を抱きかかえています。2つ目の作品「ドゥオモのピエタ」は78歳の時のものです。そこにはニコデモとマグダラのマリヤもいます。3つ目の作品、「パレストリーナのピエタ」は何歳の時のものか分かりませんが、そこにはニコデモとマグダラのマリヤのみがいます。最後の作品、「ロンダニーニのピエタ」は89歳の時の作品で、1m足らずの、まるで枯れ木のようにほっそりとしたものです。実は2つ目から死の数日前まで掘り続けた最後の作品まで、全て未完のものばかりですが、見る者には4つの作品一つひとつにメッセ−ジが感じられるそうです。とりわけ4つ目の作品には、イエスの死を哀しむと言うより、十字架のイェスと共に死ぬのだという、さながらローマ6:4の信仰告白をそこに見る思いがするという人がいます。

 さて、57〜61節の記事で印象的なのはミケラン・ジェロの最後の作品と重なって見える3人の弟子たちの姿です。一人はアリマタヤ出身のヨセフです。彼はサンヒドリン議会(ユダヤ教)の議員であり、同時に主イエス・キリストの弟子として「神の国を待ち望んで」いました(マルコ15:43、ルカ23:51)。しかし最初の内、「彼はイェスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠して」いました(ヨハネ19:38)。密かに主イエスの弟子となっていました。いわば隠れキリシタンです。その彼が、今「勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出」ました(マルコ15:43)。彼は自分のために用意しておいた墓地に主イエスを葬る決心をし、それを実行しました。今や彼は公然と主イエスの弟子であることを行動で示したのです。主のためには名誉も地位も財産も、いや命さえも捨てる覚悟ができたのです。主イエス・キリストが彼のために示して下さった恵み深さを悟ったからです。十字架の力は彼を全く造り変えました。ヨセフはもはや主の復活を何ら疑うことをしていなかったと言うことを裏付ける大胆な行動です。

 更に57〜61節を通して、もう一つのグループからもメッセ−ジを読みとることができます。マグダラのマリヤともう一人のマリヤという2人の女性の姿がそこにあります。彼女たちは、今まさに主が葬られる墓に向かって座っていました。アリマタヤのヨセフがするだけのことをやり遂げて家に帰ってもまだ彼女たちは墓に向かって座っています。それはあたかも逃げ去った12人の男の弟子たちに代わって、主イエス・キリストが確かに十字架の上で息を引き取られたこと、墓に葬られたことをその目に認め、そしてしっかりと心に焼き付けて置こうとしているかのようです。キリスト信仰のエキスとも言える使徒信條の中に「主はポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ」というくだりがありますが、このように明確な信仰の告白は、やはり復活の主イエス・キリストと出会わされたこの女性たちの存在なくして聖書に書き留めることはできませんでしたし、ましてや使徒信條の中に言い表すことはできなかったのです。キリストの教会は、いつの時代にもこのように静かな信仰の眼差しに見守られながら成長してきたと言えないでしょうか。

 もう一つ見逃せないメッセ−ジが62〜66節に記されています。これはマタイによる福音書独特の記事です。主イエスの復活を信じないばかりか、その事実を隠蔽するために空しい努力をしているグループがあります。ユダヤ教の指導者たちです。主イエス・キリストは十字架にかけられてついに息を引き取りました。彼らはこれで万事が解決したと胸をなで下ろすかと思うと、そうではありません。まだ心配の種は残っています。彼らはいつの日だったか、主イエスの口から「わたしは死んで三日目に復活する」と言われた言葉を覚えていました。ユダヤ教の中には復活も終末も、そして永遠の生命も全く信じない現世御利益的な信仰のサドカイ派のようなグループもありますが、永遠の生命と終りの日の甦りを信じているファリサイ派のような人々もいます。しかしその彼らでさえ死後三日目に甦るということを信じることができません。彼らが表面上どれほど飾り立てた環境で宗教的な生活をしていても、その本性は「人は地上の死をもって全てが終わる」という空しい哲学から自由ではないことを証明しています。だから、イェスの弟子たちが遺体を盗み出して「主イエス・キリストは復活した」と偽りの宣伝をするかも知れないと考えました。そこで再びピラトの許に行き、墓の封印と番兵を置くことを願い出て許されました。事実、主イエス・キリストは三日目に甦られたにもかかわらず、28:11〜15に記されているように、彼らは偽りの風説を流して、主イエスの復活を否定しようと努めたのです。この記事はこうした偽りの風説に対して、主イエス・キリストは確かに甦られたことを裏付けるために書かれたものであります。ミケラン・ジェロが活躍していた時代、ローマの修道士たちは、「死を忘れるな。主を忘れるな」という教えを合い言葉にして、人間に定められた死の事実と、命を与え、また取り去る主権をお持ちの主なる神のいますことを心に留めて聖書に親しみ、祈りに明け暮れていました。

 人はいつかは死ぬ。これは否定しようもない事実です。そして、命を与え、命を取り去る神のいますこともまた否定してはなりません。私たちは与えられた命を神が許す限り、精一杯生き抜かなければなりません。十字架を負うような厳しい試練の日々が永遠に続くかと思われる生涯であっても、神はあなたをそのまま十字架に釘付けることはなさいません。十字架に上げられて下さったのはイエス・キリストを置いて外にありません。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶほどの境遇に身を置かれたのは、イエス・キリストだけです。例えあなたの人生がどれほど厳しいものであっても、命の主である神は決してあなたをお見捨てになりません。今朝、あなたは復活を否定するために滑稽なまでに空しい努力をした彼らの轍を踏むまいと心に刻み込んで、与えられた人生を精一杯生き抜く決心と共にここから遣わされますように。 祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 私たちは今朝、主イエス・キリストが十字架の死を遂げて復活の朝を待つために墓に葬られた出来事を巡って従順で敬虔な人々の姿と復活を否定するために空しい努力をする神を恐れない人々の姿を学びました。しかし、この様々な群像を見ながら、私たちは再びあなたの大いなる愛に基づくご計画を思い起こします。私たちの主が十字架につけられたこと、死んで葬られたことは、実に高慢であなたに逆らう罪人にさえ救いの道を開くためでした。実に私たち自身がその罪人の一人であったことを今告白します。私たちは自分の意志や努力で生きているのではなく、この命はあなたの賜物でした。でも、いつかはこの人生を閉じなければならないときが来ます。あなたから賜った命はあなたのもとに還るのが本筋です。どうか、死の事実を覚え、命の主を覚える謙虚な心を私たちに与えてください。許された地上の命を大切にしながら、生かされている間にあなたを救い主と信じる信仰へと私たちを導いてください。。

私たちの主イエス・キリストのお名前によってこの祈りをお献げします。  アーメン。

 


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