【主日礼拝・メッセージ要約】                  2003年3月9日
                      
「あなたを見捨てない」

イザヤ書41章8-16節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 教会暦では3月5日から4月19日までキリストの十字架を心に刻む日々(キリスト受難節)を送ります。キリスト受難節とイザヤ書41章の接点、それは「わたしはあなたを選び、決して見捨てない。」(9節)というみ言葉です。このみ言葉は数世紀の時を経てイエス・キリストにおいて実現しました。主イエスは33年の間、この地上で全き神でありながら、全き人として生活をしてくださいました。しかし主イエスに敵対する者もまた次第に数多くなり、力を蓄えていました。ある日、エルサレムに入って間もなく、「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」と忠告する人々がいましたが、主イエスは彼らに向かって、「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」とお答えになりました。更に「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛(ひな)を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」(ルカ13:33〜34)と不信仰な民を嘆かれたのです。

 主は御自分に対する恐ろしい計画を聞いてなお逃げ出さず、そこに踏み止まられたのです。いや、もっと恐ろしい計画がユダヤ教指導者たちの間で進められていました。主イエスを十字架につけようという陰謀です。主はそのことも既に承知しておられました。逃げ出そうと思えばその時間がまだ十分にありました。しかし主はそこに踏み止まられました。それが父なる神の御心だったからです。かつてイザヤ41:10を通して語られたことを今ご自身が率先して実行なさったのです。

 主は「恐れるな」と言われます。これはまた、「逃げ出すな」と訳すこともできるのです。私たちはこの世の大きな悪しき力を前にすると恐れます。恐れると、逃げ出したくなります。確かに主イエスを信じ抜くことは時に不安で、また疲れます。しかし、私たちがイエスさまを選んだのではなく、イエスさまの方が私たちを選んでくださった事実を思い起こしましょう(ヨハネ15:16)。主が私たちをキリスト者として下さったのは、それによって私たちの人生が本当に実り豊かなものになるためなのです。

 
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【主日礼拝・メッセージ】                       2003年3月9日

                      
「あなたを見捨てない」

イザヤ書41章8-16節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 教会暦では今年のキリスト受難節は3月5日から4月19日までと言うことになります。それで私たち仙川キリスト教会でも今日の主日礼拝から受難節に添ってみ言葉に聴きながらキリストが歩まれた十字架に至るまでの道を一週毎に跡付けて行きたいと思います。

 

 40章から始まる新たな展開の預言に主題を付けるとすれば、「解放を告げる福音の書」と呼ぶことができます。その昔、神が地の果てであるカルデヤのウルからアブラハムを呼びだしたとき(9節)、アブラハムは一族長に過ぎませんでした。その子孫はやがてイスラエル民族として国家を形成するに至りましたが、イスラエルのその後の歴史は確かに受難の歴史でした。周囲の国々から見て、真に弱く少数の民族でアッシリア、バビロン、ペルシャなど列強の国々に絶えず翻弄されて「虫けらのように」見なされていました。しかし神はこの弱く小さな群れを救うために、ペルシャの王として台頭したキュロスをお用いになりました。イスラエルの民は初めの内、新しい盟主キュロスを恐れていましたが、彼はイスラエルの民にエルサレムへの帰還を許す勅令を出しました。するとイスラエルの民はこのキュロスこそ待ち望んでいたメシヤ(キリスト)ではないかと期待をかけました。

 しかし神は、「人間に頼るのをやめよ 鼻で息をしているだけの者に」(イザヤ書2:22)と言われます。神はこの小さな群れに対して3度も繰り返して呼びかけておられます。「恐れるな」(41章10、13、14節)と。1度目は「わたしはあなたと共にいる神」と言い、2度目と3度目はただ共にいるだけでなく、「わたしはあなたを助ける」と約束して下さいました。だから「恐れることはない」のです。イスラエルの神はイスラエルを救うのに、鼻で息をする人間を用いることをしません。神は神でしかできない方法でイスラエルを救って下さるのです。

 今朝の礼拝からキリストの十字架を心に刻む日々が始まります。それではキリスト受難節と、このイザヤ書41章の接点は何でしょうか。それは「わたしはあなたを選び、決して見捨てない。」(9節)というみ言葉です。このみ言葉は数世紀の時を経てイエス・キリストにおいて実現しました。主イエスは33年の間、この地上で全き神でありながら、全き人として生活をしてくださいました。しかし主イエスに敵対する者もまた次第に数多くなり、力を蓄えていました。ある日、エルサレムに入って間もなく、「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」と忠告する人々がいました。しかし主イエスは彼らに向かって、「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」とお答えになりました。

 そして、「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛(ひな)を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」(ルカ13:33〜34)と言われました。主は御自分に対する恐ろしい計画を聞いてなお逃げ出さず、そこに踏み止まられたのです。いや、もっと恐ろしい計画がユダヤ教指導者たちの間で進められていました。主イエスを十字架につけようという陰謀です。主はそのことも既に承知しておられました。逃げ出そうと思えばその時間がまだ十分にありました。しかし主はそこに踏み止まられました。それが父なる神の御心だったからです。かつてイザヤ41:10を通して語られたことを今ご自身が率先して実行なさったのです。

 主は「恐れるな」と言われます。これはまた、「逃げ出すな」と訳すこともできるのです。私たちはこの世の大きな悪しき力を前にすると恐れます。恐れると、逃げ出したくなります。しかし神は、10、13、14節で3度にわたって、「恐れるな」と言われます。「わたしはあなたを固くとらえ 地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕 わたしはあなたを選び、決して見捨てない。恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け わたしの救いの右の手であなたを支える」(9〜10節)という約束の言葉が与えられています。

 確かに主イエスを信じ抜くこと、従い通すことはとても忍耐のいることであり、また疲れることでもあります。しかし、9節にある通り、私たちがイエスさまを選んだのではなく、主イエスが私たちを選んでくださったのだという事実を思い起こしましょう(ヨハネ15:16)。私たちはイエス・キリストの主人ではなく、僕であると言うことも忘れてはなりません。主イエスが私たちを選び、キリスト者としてくださったのは、それによって私たちの人生が本当に実り多いものになるためであります。

 

 今から大凡50年ほど昔の話です。阿波根(あわごん) 昌鴻(しょうこう)さんは、燃えている13軒の家の前で考え込んでしまいました。1955年3月11日のことです。300人余りの米兵が隊長の命令に従ってその村の人たちが何世代にもわたって大切に守り続けてきた田畑や家を取り上げてしまったのです。土地収用法という戦勝国の作った法律でこの島の真謝(まじゃ)部落(当時の人口394人)が立ち退きを迫られました。15軒のうちそれに従ったのは2軒だけです。最後まで反対し、抵抗した人々は強制的に追い払われ、ブルドーザーで壊された上、全てを焼き尽くされ、立ち入らないようにと金網が張り巡らされてしまいました。

 阿波根さんは伊江島の真謝部落で産まれ育ちました。小さい頃から男の子は天皇のために戦場に行き、死んだら靖国神社にまつってもらえると教えられ、軍人勅諭と教育勅語を暗誦するようにたたき込まれて育ちました。敵は鬼か畜生のように恐ろしく、全滅させなければならないのだとも教えられてきたのです。

 1945年、ながく苦しい戦争も日本の敗北でやっと終わりました。世間では日本の敗北を認めたくないばかりに8月15日を終戦記念日と呼びますが、阿波根さんは敢えて敗戦記念日と呼ぶようにしています。間もなく米軍が島にやってきました。どんなに恐ろしいことをされるかと恐れていましたが、進駐してきた米兵はみな優しく、親切にしてくれました。食べ物もくれます。子どもたちにはチョコレートやチュウインガムを配ってくれます。アメリカ人は鬼ではなかったのだと安心しました。

 クリスチャンの阿波根さんは、「なるほどアメリカ合衆国は民主主義の国、キリストの教えを生かす国だった。キリスト教国のアメリカが戦争に勝って良かった。もうこれからは殺し合うこともなくなるだろう」と米軍を信頼し、協力しようと考えるようになりました。それなのに、いまはこの有様です。あの優しく親切な米兵はどこへ行ってしまったのか。あれは自分たちを欺くための偽りの笑顔だったのか。やはりアメリカ合衆国は鬼だったのかと、悲しみがこみ上げてきました。

 阿波根さんは部落の何人かの人たちといろいろな面で話し合いました。そして出した結論はこの矛盾だらけの現実、アメリカ合衆国に勝つためには、「人間になる」ことでした。この結論は阿波根さんに勇気を与えました。「聖書にも、99匹を待たせてでも失った1匹の羊をさがす、とあるではありませんか。まして人間であるわたしたちの生活をアメリカ合衆国の軍事基地のために犠牲にして良いとはどう考えても理に合いません」。「キリストは貧しい者、虐げられている者、病める者の味方になって戦い続けられました。キリスト者はキリストにならい、神の剣をとって地上に平和な神の国を建て上げるために戦わなければならないと信じます」と。これが、その後18年のながきにわたって阿波根さんたちを支えてきた戦い方でした。

 

 阿波根さんとその仲間こそ圧倒的な力を持つ組織から見れば、まるで虫けらのように見えたことでしょう。しかし、彼らは巨大な力の前にも恐れませんでした。逃げ出しませんでした。イザヤ書41:9〜10が彼らの信仰と生活の背骨になっていたからです。 祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 私たちの周りには今とても大きな力が働き、世界は10年前の湾岸戦争以来、四度世界規模の戦争になるのではないかと不安な日々を送っています。こうした状況の中で、ある人は反戦デモを繰り返し、ある人は抗議の断食を試みました。ある者は日々に祈りを欠かすことが出来ません。ある人はインターネットでブッシュ大統領には取り返しのつかない行動に走ることを自重するように、また小泉首相には日本国憲法の持つ意味の重さを思い起こす冷静さをと語りかけています。しかし彼の人たちにとってわたしたちの存在は余りにも軽く、また弱く小さな群れ、虫けらのようにしか見えないかも知れません。

 しかし、あなたは全能の神、平和の主であります。主よ、どうかこの地球上に住む全ての人たちにあなたから来る平和の道を教えて下さい。剣を持つ者は剣で滅びるというあなたの教えを思い起こさせてください。

私たちの主イエス・キリストのお名前によってこの祈りをお献げします。  アーメン。

 


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