詩54編の作者はダビデともヨシヤとも言われていますが、正直分かりません。ただ分かっていることは、多くの人々がこの祈りの歌に勇気づけられ、慰められ、生きる希望を見出してきたことです。
ダビデはサウルの刃を背中に感じて逃亡生活を続けながら、神さまがもしわたしに目を付けず、サウルの後継者として選んで下さらなかったら、サウルとことを構えることもなく、今頃善良な国民の一人として羊の後を追う穏やかな日々を送っていたかも知れないのにと思ったかも知れません。ヨシヤもまたもしあの日、申命記を発見しなかったら貴族や宗教家を向こうに回してまで、こんなに苦労をしないで済んだのにと思ったかも知れません。
私たちクリスチャンも時に同じ思いが湧いてくることはないでしょうか。思えば私たちが神の御前に立つと心に決めたときから、かつて経験したことのない孤独と苦しみが始まったのです。何故でしょうか。謎は解けました。5節に言う通り、「彼らは自分の前に神を置こうとしないから」です。端的に言うなら神を知らない人です。祈らない人です。祈るよりも行動することの方が大切だという人は目の前に現実社会しか見ていないのです。神の導きを第一に考えることを常とする人ではないのです。
しかし、この詩人の祈りは、そのような困難や苦しみの中でも私たちに希望を見出させてくれます。「見よ、神はわたしを助けて下さる。主はわたしの魂を支えてくださる」と言う1節が何よりも慰めです。状況は少しも好転しません。しかし祈り続ける人のためには、「神がわたしを助けてくださる」とのみ言葉が与えられます。その時、私たちの心は「移り行くものにあたふたと心煩わしたことを悔い改めます」と言う祈りへと導かれて再び平安を取り戻すことができるのです。
新約聖書、殊に福音書を繙くと、主イエス・キリストこそこの世で最も孤独でした。主が人々を愛してもその報いは憎しみと裏切り、十字架による処刑でした。しかし、十字架の向こうにあるものは死と滅びの暗闇ではなく、復活の朝でした。主を信じ、主に従う私たちの日々が孤独と困難に満ちたものであっても、その向こうに待っているものは絶望の暗闇ではなく、主に見(まみ)える朝です。
この詩編はジフの住民がサウル王に、「ダビデはここに隠れています」と密告したことを知ったダビデの痛切な祈りの言葉です。或いはもう少し後の時代、即ち南ユダのヨシヤ王がささげた祈りの言葉ではないかという人もあります。ダビデにしても、ヨシアにしても、彼らは神の御前に敬虔な信仰の人として共通するものがあります。この機会に少し2人について紹介しましょう。
ダビデは羊飼いを生業(なりわい)とする父エッサイの子どもで、8人兄弟の末っ子でした。その頃イスラエルには既に英雄サウルが王として君臨していましたが、神はサウルに代わる王としてダビデを選び、彼を祝福されました。それを感じとったサウルはダビデを殺そうとあの手この手と画策します。神に愛されたダビデは人望もあり、その気になれば革命を起こし、サウルを王位から追放することも可能です。しかし彼はそのような手段に走ることをしません。どこまでも神を信頼し、サウル王に対する従順を貫きながら、逃亡生活を続けます。
ヨシヤもまた神を畏れ、国民を愛する名君でした。彼は偶々発見した旧約聖書の一書、「申命記」を発見してそれを読んだことから、宗教改革の必要を感じました。しかし、面従腹背の貴族や宗教家たちはヨシヤの思いとは違って密かに現状維持を図ろうとします。全てが明らかにされることを恐れたからです。
この詩54編の作者がダビデであるのか、ヨシヤであるのか、明確な裏付け資料を持たない私たちには分かりません。ただ分かっていることは、きっと多くの人々がこの祈りの歌に勇気づけられ、慰められ、生きる希望を見出してきたことであろうということです。だからこの祈りの歌が今日まで失われずに私たちの手許に届いたのです。
ダビデはサウルの刃を背中に感じて逃亡生活を続けながら、神さまがもしわたしに目を付けず、サウルの後継者として選んで下さらなかったら、サウルとことを構えることもなく、今頃善良な国民の一人として羊の後を追う穏やかな日々を送っていたかも知れないのにと思ったかも知れません。
ヨシヤもまたもしあの日、申命記を発見しなかったら貴族や宗教家を向こうに回してまで、こんなに苦労をしないで済んだのにと思ったかも知れません。
今日、私たちクリスチャンも時(とき)に同じ思いが湧いてくることはないでしょうか。教会に出入りするようになってから友達の数が減ったかも知れません。何となく親兄弟、親戚、伴侶、舅・姑の表情が曇りがちになり、言葉に険を感じることも一度や二度ではないかも知れません。思えば私たちが神の御前に立つと心に決めたときから、かつて経験したことのない孤独と苦しみが始まったのです。何故でしょうか。謎は解けました。5節に言う通り、「彼らは自分の前に神を置こうとしないから」です。自分の前に神を置こうとしない人とはどう言う人でしょうか。端的に言うなら神を知らない人です。祈らない人です。祈るよりも行動することの方が大切だという人は目の前に現実社会しか見えていないのです。神を自分の前に置く、先ず祈る、神の導きを第一に考えることを常とする人ではないのです。「異邦の者」というと、外国の人を考えますが、同胞でありながら、実は異邦人のような人がいます。言うことは信仰者のようであってもその行いを見ているとみ言葉に遠い人がいます。ダビデもヨシヤもこのような人たちの間で苦しめられていました。今日、多くのキリスト者もまたこのような人たちによって苦しめられているのです。
しかし、この詩人の祈りは、そのような困難や苦しみの中でも私たちに希望を見出させてくれます。「見よ、神はわたしを助けて下さる。主はわたしの魂を支えてくださる」と言う1節が何よりも慰めです。状況は少しも好転しません。相も変わらず「神を自分の前に置こうとしない」人々が私たちを取り囲んでいます。しかし祈り続ける人のには、「神がわたしを助けてくださる」とのみ言葉が与えられます。その時、私たちの心は「移り行くものにあたふたと心煩わしたことを悔い改めます」と言う祈りへと導かれて再び平安を取り戻すことができるのです。
この数週間、私たちはキリスト受難節として礼拝を献げてきました。新約聖書、殊に福音書を繙くと、イエス・キリストこそこの世で最も孤独でした。主イエスがどれほど人々を愛しても返ってくるものは憎しみと裏切り、そして十字架による処刑の宣告でした。しかし、十字架の向こうにあるものは死と滅びの暗闇ではなく、復活の朝でした。主を信じ、この方に従うことを告白した者もまたこの世で十字架の道、試練の日々を送らなければならないのです。しかし、「神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる」のです。たとえ私たちの日々が孤独と裏切りと困難に満ちた信仰生活であっても、その向こうに待っているものは絶望の暗闇ではなく、主に見(まみ)える朝です。
皆さんは「ヤベツの祈り」という書物を読んだことがあるでしょうか。そんなに高価な本ではありませんので、是非お読みいただきたいと思います。この本はきっとあなたに祈りの大切さと、祈りは神に聴かれているという確信を与えることでしょう。ヤベツとは実在の人物で、彼については歴代誌上4:9〜10に書き記されています。ヤベツの名前の由来は「悲しみ」という意味からきています。けれどもヤベツの生涯は祈りに貫かれていました。
一人の牧師の家庭に起こったことをお話ししたいと思います。その方は旧くからの友人で東北地方のある教会で伝道しておられるS先生です。3年前のある夏のこと、ご子息のN君がキャンプ奉仕のために九十九里浜海水浴場で遊泳中、折しも北上中の台風8号の余波を受け、高波にのまれて溺死したという悲しい知らせが入りました。余りにも突然の悲報に何と言葉をかけて良いか分かりませんでした。しかし、その後先生からのお便りには、「悲しみは事実ですが信雄の顔は実に穏やかで、主の御許に召されたことを確信させてくれました。生前彼は誰よりも祈りの人で、私たち両親も彼の祈りに何度支えられてきたことかと感謝している次第です。」というようなことが書かれていました。このような手紙を書くことが出来るまでどれだけの時間を要したことだろうかと、同労者の一人として感無量でした。先程ヤベツの祈りのことをお話ししましたが、佐々木先生にとっても信雄君は「ヤベツ」、悲しみの子どもです。しかし、ヤベツの生涯が祈りに貫かれていたように、佐々木先生に言わせると、信雄君もまた祈りの人、ヤベツの生涯そのものだと言えます。
今朝主イエス・キリストの御前に礼拝を献げておられる愛する兄弟姉妹。あなたの人生は何を基準としたものになっていますか。あなたもこの詩54編の詩人のように苦しみのただ中にあってもなお主をあなたの前に置く祈りの生活となっているでしょうか。ヤベツという名前にも匹敵するくらいあなたの今の状態が四面楚歌で苦難に満ちたものであっても、ヤベツに倣って祈りを欠かさない日々となっているでしょうか。あなたの上に主の祝福が豊かでありますように。 祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を讃美します。
キリストの御苦しみを思い起こすべき受難節第5週に入った今、私たちは私たちの日々の生活が如何に苦渋に満ちたものであっても、また如何に孤独であっても、詩54編の詩人に倣って、絶えず主なる神、あなたを自分の前に置くことを忘れさせないで下さい。また私たちの日々の生活がヤベツの名に相応しく、悲嘆に暮れることの中にあってもあなたの御前に出て祈り抜く者とさせて下さい。
私たちの救主イエス・キリストの御名によってお願い致します。
アーメン