主イエス・キリストの十字架の物語は、本当は部分的にでなく、四福音書全部を通して読む方が良く分かるのですが、時間の関係もありますので、今日は司式者に読んでいただいた箇所に加えてマタイによる福音書27章32〜44節(新約聖書57頁)だけを読むことにしたいと思います。
「八海事件」を覚えておられるでしょうか。無実の人が死刑の判決を受けましたが、再審請求を受けて最高裁判所から差し戻され、高等裁判所によって無罪が確定しました。実に約18年もかかりました。後にはこの事件の顛末(てんまつ)が本になりましたが、その題名は「真昼の暗黒」です。八海事件の被告は18年近くも犯罪者の汚名を着せられた上に、家族だけでなく、その他一切のものを失いました。まさに真昼の暗黒です。何もかも失った彼ですが、それと引き替えに死の淵から生還できました。
しかし、今から大凡2000年前のある春の日、裁判官が無罪を主張しながら原告と傍聴人に押し切られて死刑に処せられるというおかしな事件がありました。その時処刑された被告人こそイエス・キリストです。十字架による処刑は公開で行われました。周りを取り囲む人々の多くは口々にイエスをののしり嘲(あざけ)り続けます。祭司長や律法学者たちと長老たちといえば、当時ユダヤ人社会の精神的最高指導者であります。その彼らがイエスに向かって、「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい、そうすれば信じてやろう」と公然と口にします。全てを与え尽くした結果、返ってきたものは何とも冷たい言葉と仕打ちです。まさにこの世は闇です。実際お昼の12時というのに太陽は光を失い、3時間もの間全地は暗くなりました。それは単なる宇宙の法則に基づいた日食なのでしょうか。過越祭の時期に日食になるとはそれこそ自然の摂理にもとることです。しかも3時間もの日食など聞いたことがありません。アモス書8:9〜11(旧約聖書1440頁)を開いて下さい。この出来事は既に神が預言者アモスを通して警告しておられたことの成就なのです。十字架の下にいる人々はあの3時間に及ぶ暗黒の瞬間を経験したとき、アモスの預言を思い起こすべきでした。
人々が「世の光」(ヨハネ8:12)であるイエス・キリストを殺した時、この世は光を失うのです。彼らの上には太陽がありました。しかし、神からの光、栄光を失うとき、太陽の光は最早何の役にも立たないことを言い表しているのです。天地創造の出来事、創世記1章を思い起こして下さい。太陽と月と星は第4日になってようやく造られました。ではその間地上は暗黒だったのでしょうか。いいえ、既に天地創造の最初の日に登場していた栄光の主イエス・キリストによって天も地も光り輝いていました(創世記1:3)。ところが今、この世が栄光の主イエスを殺そうと十字架につけたとき、地上は「全ての人を照らす真の光」(ヨハネ1:9)であるイエス・キリストを退けたことによって闇に包まれました。闇が光に勝ったように見えました。罪の頭サタンは勝ち誇りました。罪がこの世を支配すると、この世は神を見失うのです。彼らはイエスに「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやろう」という傲慢な言葉を浴びせました。いつの時代にもこの世の人々は自分の人生を手探りで歩きながら、目の前に照らされた命の光であるイエス・キリストに同じ言葉を浴びせて光を吹き消そうとするものです。人間という生き物は十字架のイエスを素直に信じることができません。何か奇跡が起きるのを期待して、条件付きで信じようとします。
実際、イエスには手足を釘で刺し貫かれた十字架から降りる力がなかったのではありません。降りることをしなかったのです。深い闇の中で罪の奴隷としてサタンのもとに絶望するしかないこの世の人々を救うためには、神の怒りである罪の代価としての死をさえくぐりぬけなければならなかったのです。主イエス・キリストは十字架の上で息を引き取る道を選びました。主は今最後の力を振り絞って、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と叫びました。詩編31:6(旧約聖書861頁)を開いて下さい。ダビデは人間ですから、自分の霊を御手に委ねながら、罪の贖いを祈り求めます。当時のユダヤ人は就寝前にこの言葉を引用して祈りました。眠りに就くとわたしたちは無意識状態になるので、自分で自分を守ることができません。それで、「もしもこのまま息絶えたら、主よどうかわたしの罪を赦し、わたしの霊を御手に受け入れて下さい」と祈るのです。皆さんも今日から是非この詩を引用して祈ってから眠りについて下さい。
さて、わたしたちの主イエスもこの詩を引用されました。しかし主はご自身神の御子ですから、御自分のためではなく、御自分の死をもって全ての罪人の贖いを成し遂げてくださいました。「こう言って息を引き取られた」と聖書は一応の区切りをつけています。しかし、主イエスの物語はこれで終わってはいません。むしろここから新しい一頁が始まっています。十字架の下にいる人々の変化によって何かが始まったことを感じさせます。
第一にイエスを処刑したローマの百人隊長の変化には著しいものがあります。これまで多くの死刑囚の最期を見届けてきた彼ですが、主イエスの最後を見て思わず、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を讃美しました。このローマの下士官は、イエスが無罪であることを認めただけではなく、神をほめたたえました。十字架の主イエスはご自身の死を通して、一人の異邦人の心を揺り動かしました。
第二に軽い気持ちで見物に集まった人々も主イエスの死に様を見ている内に、その心に大きな変化が生じました。彼らは今になって主イエスを十字架につけたことに罪の意識が芽生え、悔恨の念と共に胸を打ちながら帰って行きました。十字架は当時、この世で最も恥ずべき処刑でした。そのようなところにかけられたイエスを見て、彼らは初め、「十字架から降りるがいい、そうすれば、信じてやろう」と嘲っていましたが、その十字架の上で息絶えたイエスの中に聖なる神の御霊を感じ、反対に自分の中にある罪に対する気づきが与えられました。
第三にイエスを知っていた全ての人々と女性の弟子たちです。イエスを裏切ったイスカリオテのユダを除く11人の弟子たちの姿はありません。彼らはどこへ行ってしまったのでしょう。十字架のイエスを最期まで見届け、その証人として選ばれたのは、未だにその名を留めない弟子たちでした。しかし、彼らの存在無しに十字架に上げられた主イエス・キリストの、この福音を私たちに伝える人はいなかったのだと言うことを忘れてはなりません。この無名の人々をこんなにも尊く用いて下さった主に感謝しましょう。彼らこそ、今日主の教会に招かれている全ての人々に計り知れない慰めと勇気を与えてくれます。
今日教会の前を通りかかる多くの人もまた、教会堂の屋根の十字架を見上げながら、「十字架から降りるがいい、そうすれば信じてやろう」と嘲り顔に言うかも知れません。その時わたしたちは彼らに向かって何と言うべきでしょうか。十字架を恥じるのでしょうか。いいえ、その時こそわたしたちはこの福音書に記されているローマの下士官の讃美を、十字架を見物に来た人々の悔い改めの心を、また黙々と主イエス・キリストの死をつぶさに見届けて、十字架の福音をわたしたちに証してくれた無名の弟子たちの存在を思い出しましょう。そして、わたしたちも主の死の証人として、「この方による以外に救いはない。わたしたちを救い得る名はこれを別にしては天下の誰にも与えられていない」ことを力強く証しようではありませんか。 祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。
わたしたちの罪のために主イエス・キリストが十字架に死んで下さったことを心から感謝します。わたしたちこそ終りの日、あの恐ろしい十字架につけられるべき者、神さまの厳しい審きの前に立たされるべき罪人です。しかるにあなたはこのわたしたちに代わって、あなたの最も愛される独り子を最も忌まわしい十字架につけてわたしたち全ての罪の代償として私たちを死と永遠の滅びから贖い出してくださいました。今より後、わたしたちをあのローマの下士官のようにあなたを讃美する者へと変えて下さい。罪を認めて胸を打ち、深く悔い改める者としてください。 そしてこれからはこの世で無名であることをむしろ喜び、しかも誠実にあなたの救いを証する者へと変えて下さい。
私たちの救主イエス・キリストの御名を通してこの祈りをお献げします。 アーメン。