主イエスが十字架上の死を遂げてから三日目の朝早く、2人の女の弟子たちがイエスの遺体に香油を塗るため墓に行きましたが、既に空っぽでした。主は復活なさっていたのです。その事実を彼女たちに見せる為に、御使が墓の入り口を蓋していた大きな石を転がして、その上に座っていました。そして、「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」と言いました。これが世界最初のイースターメッセ−ジです。復活という喜びの知らせ、これこそ聖書が言う「福音」なのです。主イエスの復活は私たちの罪を完全に贖う力となり、神さまがわたしたちに与えると約束して下さった永遠の生命の保証となりました。
多くの人は死が全ての終りと考えていますが、イエス・キリストを信じる者には復活の命が与えられています。「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられた」(气Rリント15:20)からです。復活は「蘇生」ではありません。新しい衣が与えられると言う意味です。即ち「霊のからだ」です。地上の肉体は死をもって朽ちますが、霊のからだは永遠の生命を持ち、死も滅びもありません。時間や空間の束縛を受けません。天地創造の神は見える世界をお造りになったばかりではありません。目に見えない永遠の御国、天国をも備えておられます。天国は単に人間が頭の中で考え出した理想郷ではないのです。
「人は、たとえ全世界を天国に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」(マルコ8:36)と主イエスは言われました。マルコが伝える主イエスの教えは、「あなたは死後神に出会う備えができているか」と言う意味です。巨万の富を得て健康管理に万全を期しても、永遠の生命を持っていなければ全く空しい努力と言うほかありません。復活の主は今あなたにその備えをさせたいのです。
【主日礼拝・メッセージ】 2003年4月20日
イエス・キリストが十字架につけられたのは金曜日の朝9時のことでした。総督ピラトの法廷からゴルゴタの丘(されこうべの丘という意味)へと引き立てられ、そこで処刑されました。イエスは十字架上で6時間にも及ぶ苦悶の果てに、「すべてが終わった(ギリシャ語;テテレスタイ。「完了した」という意味)」という言葉を最後に息絶えました。聖書の記者は主イエスの死をもって、何かが成し遂げられたというメッセ−ジが込められていることを私たちに伝えているのです。使徒ペトロが、「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」(气yトロ2:24)と言っているとおりです。
主イエスにとって十字架の死は死で終わりません。三日目の朝早く、マグダラのマリヤともう一人のマリヤがイエスの遺体に香油を塗るために墓に行きましたが、その墓はすでに空っぽでした。イエスは既に復活なさっていたので、そこにはおられなかったのです。その事実を彼女たちに見せるために、御使が彼女たちよりも一足早く墓の入り口を閉ざしていた大きな石を転がして、その石の上に座っていました。驚き恐れるマリヤたちに、「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」と言いました。
ここで皆さんにお考えいただきたいのですが、どうして女性の弟子たちにはこのエルサレムでご自身の復活を啓示して下さったのに、使徒と呼ばれる弟子たちにはガリラヤで会うと言われたのでしょうか。ガリラヤは彼らの故郷だったからでしょうか。そうではありません。ガリラヤ、そこは彼らが初めて主イエスと出会った所だからです。主に出会い、主に召され、献身したところなのです。いわばそこは彼らの信仰の出発点です。信仰の原点なのです。 実際福音書によると、ペトロもヨハネも主イエスが葬られていた墓に走って行き、空になった墓を確認したのです。でも、彼らは主イエス・キリストの復活を信じるには至りませんでした。聖書の著者はこの違いを悔い改めの思いを込めて書き表しています。使徒と呼ばれる弟子たちはこれまで何度主ご自身の口から十字架の死と葬りと甦りについて聞かされてきたことでしょう。それなのに、彼らは信じるには至っていませんでした。主が甦られた朝、女性の弟子たちからその事実を聞かされてもまだ信じませんでした。だから主イエス・キリストは彼らをもう一度信仰の出発点に立ち帰らせたかったのです。「初めの愛に立ち返れ」というメッセ−ジなのです。皆さんにも皆さんのガリラヤがあるのです。信仰の原点、立ち帰るべき場があるのです。イエスさまに出会い、罪を悔い改め、主イエスの弟子として立ち上がる決心をされた場があるはずです。あなたももし復活の主イエス・キリストへの信仰が曖昧になることがあったら、この世の惰性に流されることがあるなら、あなたのガリラヤに立ち帰りなさい、わたしはそこであなたに会うと主イエス・キリストは言われます。
これが世界で最初のイースターメッセ−ジです。主イエス・キリストが甦られたという喜びの知らせ、これこそ聖書が言う「福音」なのです。これに優るビッグニュースはありません。それはわたしたちの罪を完全に贖う力となり、神さまがわたしたちに与えると約束して下さった永遠の生命の保証となりました。多くの人の間で死は全ての終りと考えられていますが、イエス・キリストを信じる者には復活の命が与えられています。「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂(はつほ)となられた」からです(气Rリント15:20)。復活は「蘇生(そせい)」を意味するものではありません。復活とは、死者の霊に新しい衣が与えられるのです。聖書はこれを「霊のからだ」と言います。地上の肉体は死をもって朽ちますが、霊のからだは永遠の生命を持ち、もはや死も滅びもありません。時間や空間の束縛(そくばく)を受けません。天地創造の神は、この見える世界をお造りになったばかりではありません。イエス・キリストを信じる者を受け入れる永遠の御国、天国をも備えていてくださいます。聖書の言う天国は単に人間が頭の中で考え出したユートピア(理想郷)ではないと言うことです。
「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」(マルコ8:36)と主イエスは言われました。確かに人は肉体の命、即ち健康を取り戻すためには全財産をつぎ込むことも惜しみません。しかし、その命もいつかは土に帰るときが来るのです。ここにいう主イエスの教えは、「あなたは死後神に出会う備えができているのか。」と言う意味なのです。この世で巨万の富を得て、健康管理に万全を期しても、永遠の生命を持っていなければそれは全く空しい人生と言うほかありません。復活の主は今あなたにその備えをさせたいのです。
ジョン・ダン(1571〜1631年)は永年英国国教会の復監督として教会に仕えていました。後世の人は彼を評して第2のアウグスティヌスと呼んでいます。それほど敬虔な神の人で祈りの人です。「天国の幻」という詩を紹介して終わります。
- ああ、主よ、私たちが最後の眠りから目覚めるとき、
- 私たちを天国の門に、そして天の家に伴ってください。
- そこには、暗黒も、ぎらつく光もなく、どこにも均一な明るさがあふれているでしょう。
- そこには、沈黙も、喧噪(けんそう)もなく、一つの音楽がみなぎっているでしょう。
- そこには、恐れも、願望もなく、誰もがすべてをひとしく所有しているでしょう。
- そこには、終りも、初めもなく、
- どこにも永遠が存在しているでしょう。
- あなたの御稜威(みいつ;神の威光)と御栄えの輝く、とこしえの住まいには。
私たちもダンの祈りに学ぶ心で天の神に祈りましょう。
天のお父さま、主イエス・キリストの甦りを感謝し、御名を崇めます。
2人のマリヤが天使のメッセ−ジに従って出ていったとき、復活の主ご自身彼女たちに出会ってくださいました。主は常に素直に信じる人を喜ばれます。謙る者に復活の主と共にある喜びを与えて下さいます。ジョン・ダンが祈ったように、主よ、私たちもこの地上の旅路を終えるとき、地上における最後の眠りに就くとき、わたしたちのために天の門、天の御国に伴ってください。。
私たちの主イエス・キリストのお名前によってお願い致します。
アーメン。