主イエスは弟子たちを全世界に派遣してキリストの教会を形づくる仕事に就かせました。それと共に、御自分の権威のもとに、一つの大いなる約束を与えて下さいます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と。「世の終わり」とは何のことでしょうか。それは「神の時の完成」です。完成されるから終わるのです。ひところ世情を騒がせたオーム真理教の関係者が裁判にかけられて久しいですが、そろそろ大詰めです。彼らの教理に基づく最終戦争は人命を損(そこ)なうことを躊躇(ちゅうちょ)しません。彼らの言う世の終わりは、一部の宗教的エリート集団だけが生き残ることを意味します。しかしそれは聖書の言う最終戦争としての「ハルマゲドンの戦い」とは異なります。聖書の言うハルマゲドンの戦いとは、「霊的な戦い」、更に言うなら神とサタンの最終戦争です。神はこの戦いによって、偽キリスト、偽預言者、人の人生を無責任に左右する宗教家や占い師等を裁くのです。しかし恐れることはありません。主イエスはご自身の権威をもって、彼を信じる全ての者を救って下さいます。神のご本質は愛です。神がその独り子イエス・キリストをこの世に賜(たまわ)ったのはこの世界を裁き、滅ぼすためではありません。そうではなく、神はその独り子によって、この世界に住む全ての人を救わんとしておられるのです。一部の宗教的エリートだけを救うのではありません。否、むしろ、宗教家ほど偽善に陥りやすい者はないと言って過言ではありません。何かというと聖書を持ち出し、それを自分に都合良く解釈しては武力で他国を支配しようとする国があります。最も危険なことです。
作家大江健三郎氏がご子息光さんのことを書いているエッセーの中で、シモーヌ・ヴェイユ(仏哲学者)の言葉を引用しています。どんな言葉かというと、「人間にとって最も崇高な生き方は神に向かって祈ることだ」という一文です。確かに世界は終わりに向かって突き進みつつあります。しかし、その終りに向かって人類が為すべきことは、弱者を退けて淘汰(とうた;不必要、不適当と思われるものを取り除くこと。今日の誤った解釈に基づくリストラ)することではありません。奪い合うことでもありません。終りに向かって人類が為すべきことは、「神に向かって祈ること」です。
【主日礼拝・メッセージ】 2003年4月27日
池に石を投げ込むと、それによってできる波紋が次々と広がって行くように、今日のみ言葉はイースターの喜びの輪が静かに、そして遠くへと伝わって行く様子を描いています。しかし、サタンはこの喜びに水を差して、神の驚くべき御業を何とか人々の心から閉め出そうと空しい努力を謀る(はかる)のです。上からの権威に対してこの世の権威が真っ向から挑戦しようというのです。それが28:11〜15です。ユダヤ教の最高権力者たちはイエスの墓を見張っていた兵士たちからイエス・キリストの甦りの出来事を聞きました。その報告を受けた時、きっと彼らの心に衝撃が走ったことと思います。それはまさに彼らに与えられた悔い改めのチャンスでした。彼らは悔い改めたでしょうか。残念ながら彼らは神の前に謙ろうとしません。それどころかどこまでも自分たちの権威、自分たちの立場を守ろうと、一層心を頑なにして報告に来た兵士たちに、多額の口止め料を渡しました。その上、「イエスの弟子たちがイエスの死体を盗み出したと言いなさい」と虚偽(きょぎ)の証言をさせるのでした。彼らは宗教家として常々、「隣人に対して偽証(ぎしょう)してはならない」(出エジプト記20:16)という十誡(じっかい)の1節を民衆に教えていたはずです。その宗教家自ら、こともあろうに賄賂(わいろ)を掴(つか)ませた上に、偽証を促しています。恐ろしい罪です。しかし彼らは自分たちの権威を守るためには手段を選ばないのです。
さて、その先16節以下を読みましょう。11人の弟子たちは主イエスの指示通りにガリラヤの山に登って行きました。弟子たちはここで初めて復活の主イエスにお目にかかることができました。殆どの弟子たちは主イエスの前に素直に平伏し、礼拝を献げましたが、少数の弟子はまだ信じられないでいます。ヨハネによる福音書20:19〜29によると、その一人はトマスでした。彼は、「あの方の手に釘の跡(くぎのあと)を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手を脇腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と復活そのものを疑っていたのです。主イエスは、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と彼の要求通りに御自分の手に残った釘跡と脇腹の傷跡をお示しになりました。「わたしの主、わたしの神よ」と平伏すトマスに対して、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」と諭されました。
今は復活節です。聖務日課(せいむにっか)と言って、教会暦に従って聖書を読むことを実行している教会では復活節をしめくくるにあたって、「弟子派遣」というタイトルのもとに、この聖書の箇所が読まれます。主イエスはご自分の権威をもって、弟子たちを全世界へと派遣して、キリストの教会を形づくる仕事に就かせました。それと共に、御自分の権威のもとに、一つの大いなる約束を与えて下さいました。「わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と。「世の終わり」とは何のことでしょうか。イエス・キリストの言われる「世の終わり」とは、「神の時の完成」です。完成されるから終わるのです。ひところ世情を騒がせたオーム真理教の関係者が裁判にかけられて久しいですが、そろそろ大詰めです。彼らの教理に基づく人為的な最終戦争は人命を損(そこ)なうことを躊躇(ちゅうちょ)しません。彼らの言う世の終わりは、圧倒的多数の人民を犠牲にして一部の宗教的エリート集団だけが生き残ることを意味するのです。しかし、それは聖書の言う最終戦争としての「ハルマゲドンの戦い」とは全く異なります。聖書の言うハルマゲドンの戦いとは、核装備をしたミサイルが飛び交う戦争ではありません。或いはサリンなど大量殺戮を目指す化学兵器をまき散らす戦争ではありません。人が人の命を奪う戦争を奨励するものではないのです。それは「霊的な戦い」、更に言うなら神とサタンの最終戦争です。神はこの戦いによって、偽キリスト、偽預言者、人の人生を無責任に左右する宗教家や占い師等をお裁きになられるのです。しかし恐れることはありません。主イエス・キリストを信じる者のためにはその日、その時まで主が共にいて下さるのです。主イエスが持つ権威は、彼を信じる全ての者を救う力を意味します。聖書を注意深く読んで下さると分かりますが、神のご本質は愛です。神がその独り子イエス・キリストをこの世に賜(たまわ)ったのは、この世界を裁き、滅ぼすためではありません。そうではなく、神は神の独り子イエス・キリストによって、この世界に住む全ての人を救わんとしておられるのです。一部の宗教的エリートだけを救うのではありません。否、むしろ、宗教家ほど偽善に陥りやすい者はないと言って過言ではありません。何かというと聖書を持ち出し、それを自分に都合良く解釈しては武力で他国を支配しようとする国があります。最も危険なことです。
作家の大江健三郎氏がご子息の光さんのことを書いているエッセーの中で、フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユの言葉を引用しています。どんな言葉かというと、「人間にとって最も崇高な生き方は神に向かって祈ることだ」という一文です。確かに世界は終わりに向かって突き進みつつあります。しかし、その終りに向かって人類が為すべきことは、弱者を退けて淘汰(淘汰;不必要、不適当と思われるものを取り除くこと。今日の誤った解釈に基づくリストラ)することではありません。奪い合うことでもありません。終りに向かって人類が為すべきことは、「神に向かって祈ること」です。19〜20節を原文のままに直訳的に読み直してみたいと思います。
「それ故にあなたは行って、全ての人民を弟子としながら、父と子と聖霊の名によって彼らにバプテスマを施しながら、あなたがたに命じておいた一切のことを守るように教えなさい。見よ、わたしは世の終わりまで、常にあなたがたと共にいるのである。」と主イエスは一気に語っておられます。
世の終わりは近いのです。しかし、あなたがたはそれを恐れることはないのです。今、あなたが為すべき事はいつでもどんな状況の中でも主イエスは共いてくださるのですから、この主イエス・キリストの父なる神に向かって祈ることです。そして主イエスが命じておられることに心を集中させることです。共におられる主イエスと共に、人々にイエス・キリストは確かに復活なさったことを証しましょう。教会にお招きして彼らにバプテスマを施し、礼拝とみ言葉の交わりと祈りの大切さを教えてあげましょう。あなたが教会の礼拝で主は甦られたというメッセ−ジを受け、実際み言葉を通して復活の主に出会ったので、他の人々の所にこの喜びを伝えようと勇んで出て行っても、あなたがその人のもとに行き着かない内にサタンは先回りして、その人の心を固く閉ざしてしまうのです。しかし、恐れることはありません。復活の主は必ずあなたと共にいて、固く閉ざされた彼らの心を主にある愛をもって溶かして下さるからです。
祈りましょう。
天のお父さま、主イエス・キリストの甦りを感謝し、御名を崇めます。
今朝もあなたのみ言葉を感謝します。確かにこの世は終りに向かって突き進みつつあることに気付きかけています。しかし、多くの人々はその終りの日を何か不気味な日、恐ろしいことが待ち受けているような日と思い違いしています。それはあなたもあなたのみ言葉も信じていないからに他なりません。あなたが定めておられる終りの日は破壊ではなく、新しい永遠の御国が完成する日、神の愛が成就する日に他なりません。どうか、先に救われた私たちが行ってあなたの福音を正しくお伝えすることのできるものとして下さい。
私たちの主イエス・キリストのお名前によってお願い致します。
アーメン。