【主日礼拝・メッセージ要約】                2003年5月4日                      
「御業(みわざ)を喜ぶ」
 
「主よ、あなたは御業を喜び祝わせてくださいます。
わたしは御手の業を喜び歌います。
主よ、御業はいかに大きく御計らいはいかに
深いことでしょう。」    詩編 92編5〜6節
 

メッセージ 高橋淑郎牧師

 「渋柿や丸八年の恩知らず」と言う俳句か川柳があります。しかしその渋柿も一皮むいて根元に焼酎のようなものを施して天日にさらしておきますと、すっかり甘みの利いた柿と変わります。実に神は渋柿にもまさって恩知らずのわたしたちをそのまま役立たずと捨ててしまうこともできるのに、これを神と人に喜ばれる甘柿のように有益な人生に変えるために、神ならではの救いの御業を施してくださいました。その救いの御業とは、神の独り子イエス・キリストをこの世に賜ったことです。渋柿ならぬ罪人のわたしたちに刺し通す櫛を、神はその独り子イエス・キリストに刺し通されました。神は独り子の手と足を釘で突き刺し、天日にさらすように十字架の上に晒し者(さらしもの)にされました。そうすることでわたしたちの身代わりに罪の清めを成し遂げてくださいました。わたしたちを神の御心に相応しい者と造り変えるためにです。罪を知らない主イェスが私たち罪人に代わって十字架の上に死んで甦って下さったことによって、神はもはやわたしたちの罪を思い出さないと言って下さいます。この十字架による贖いと復活の力こそ詩92編5節が教えるみ言葉の意味なのです。主イエスが十字架に死んで葬られたのは、過越祭(すぎこしさい)の直前の金曜日でした。彼は死にましたが、3日目に復活されました。神の御子イエス・キリストが復活されたことによってわたしたちは罪と死と滅びの定めから解放され、神の命、永遠の生命を賜(たまわ)ったのです。この大いなる神の御業を信じる者は誰でも救われます。主イエス・キリストの復活こそ神の天地創造が完成された本当の安息日です。ですから主イエス・キリストを信じるキリストの教会は、日曜日をわたしに与えられたわたしのために遣う(つかう)日曜日ではなく、聖なる神がお示しになった真の安息日、「主の日」として神の大いなる御業を喜び、祝うために教会に集められ、感謝と讃美の礼拝を献げるのです。

あなたの人生を振り返ったとき、それは意味のあるものであったと言えるでしょうか。神から離れた人生のままで良いのでしょうか。祝福された人生の鍵は、あなたのために十字架に死んで甦ってくださった救い主イエス・キリストを信じることにあります。

 
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【主日礼拝・メッセージ】                  2003年5月4日                     

「御業(みわざ)を喜ぶ」
 
「主よ、あなたは御業を喜び祝わせてくださいます。
わたしは御手の業を喜び歌います。
主よ、御業はいかに大きく御計らいはいかに
深いことでしょう。」    詩編 92編5〜6節
 

メッセージ 高橋淑郎牧師

 この詩編は1節にあるように、安息日礼拝で神の御業を讃美するようにと作られた詩です。この詩を読む人は誰でも安息日を喜びと感謝をもって過ごす日であることを知り、何を差し置いても主の御前(みまえ)に出たいという思いに導かれるのです。5節に「御業」という言葉が2度繰り返されています。これは6節に逆の順序で説明されているように、最初の「御業」は神の摂理(せつり)、「御計らい(おんはからい)」という意味の単語が用いられ、2度目の「御業」は、創造の御業を意味しています。即ち神の「創造の御業」と「救いの御業」を讃美しているのです。わたしたちが安息日にこうして教会に集まる意味は、「創造主」であり、「救い主」である神を喜び讃美することにあります。そしてこれを「礼拝」と言います。

 

 10年ほど前、姉のお供で岡山県上房郡賀陽町と言うところに行きました。たんぼの真ん中に父方の先祖の墓地があり、係累の古びた墓がぽつんぽつんと建っていました。墓を掃除したり、先祖にクリスチャンがいたかどうか知りませんが、姉の求めるままにキリスト教式の祈りを献げました。それから少し岡山よりに戻ったところにある高梁市でバスを降り、資料館で僅かですが手掛かりを得て帰途に就きました。それ以来わたしも自分のルーツというものに興味を覚えるようになりました。かなり以前に伯父から系図のようなものが送られてきました。何が書いてあるのか良く読みとれないのですが、都合の良い手柄話と功績を挙げた人の名前が何代にも亘って書き連ねられています。不思議なことに、ある時代から父方の系図の初代を為す人の名前が始まっているのですが、その前は誰だったのかを知る手掛かりはありません。それこそ都合の良いところから書き始めたものと思われます。それ以前のことを知る手掛かりはないのでしょうか。ありました。聖書を見ればそもそもの先祖が誰であるかははっきりしています。ノアであり、セトであり、アダムとエバです。そのアダムと連れ合いのエバはどのようにしてこの世に存在するようになったかと言いますと、天地創造の神が最後の作品として造ったと書かれています。聖書によると神は6日間で宇宙とその中にある一切をお造りになった後、7日目を安息日と定めて休まれました。このことから人は神への感謝をもって安息日に礼拝を献げるようになりました。あなたはこの世界が神の創造の御業であることを信じることができますか。

 アメリカ合衆国の初代大統領ジョージ・ワシントンの父は敬虔なクリスチャンでした。父は自分の息子に世界は神によって造られたものであることを是非とも信じさせたくて、畑の一部を深く掘り、そこへ植物の種を息子の名前の通りに播きました。間もなく、「ジョージ・ワシントン」という大文字の名前の通りに芽生えてきました。息子はそれを見て驚き、父親のもとへ走って行き、「お父さん、裏の畑に僕の名前の通りに草が生えています。偶然に生えてきたとはとても思えません。きっとお父さんの仕業でしょう。何か意味があるのですか。」と尋ねました。そこで父親は答えて言いました。「お前の名前の通りに草が生えてきたのを見てさえ、これはきっと誰かの作品だと考えた。それならこの美しい世界、無駄のない釣り合いのとれた世界はどうして偶然にできたと言えるだろうか。これこそ真の神さまがその行き届いた知恵と力でお造りになったと言えないだろうか。」と。この父親の言葉にすっかり感心した息子のジョージは、それ以来熱心に聖書の神を信じるようになったと言うことです。わたしたちの神は天地創造の主であります。わたしたちは安息日毎にこの事実を心に留めて天地創造の神に感謝と讃美の礼拝を献げましょう。

 神の不思議な御業はそれだけではありません。神が折角この世界を美しく創造してくださったのに、人間だけが神の摂理を理解することができないで、己の欲望の奴隷となって神の戒めに反抗するという恐ろしい罪を犯しました。その為に人は神と共におることが赦されず、エデンの園を追放されてしまいました。罪は更に新たな罪を生み、その子カインが弟アベルを妬みのために殺してしまいました。神への畏れを失い、神から離れてしまった人間の落ち行く先は惨めです。今日の世界を見れば人間の罪は否定しようもありません。そこで人は少しでも罪を犯さないようにと戒めを求めます。数多くの罰則を伴った法律や規則が世界中に満ちています。

 今日多くの国で死刑制度について考え直す動きがあります。死刑はこの世でもっとも厳しい罰則です。それにも関わらず残忍な犯罪を抑止することができているとは言えません。また身近なこととしてお酒の問題があります。わたしはかつてアルコール依存症の人と、随分長くかかわったことがあります。周りの人はもとより、本人にとっても相当苦しい戦いなのです。わたしはその頃この世にお酒がなければどれほど良いのにと、お酒のお店やお酒の広告を見るたびに恨めしく思ったものです。極端な例としてはアメリカ合衆国に禁酒法という法律がありましたが、確たる効果を上げたわけでないことは周知の通りです。また今日愛煙家にとって住み辛い世の中になりつつありますが、今から300年以上前の元和(げんな)2年、江戸幕府は厳しい罰則を伴った「タバコ禁止令」を発布したことがあります(タバコが日本に渡来したのは慶長〔けいちょう〕10年のことと言われています)。そのように法律が山と積まれても人を正しく導く力とならないことは今日見る通りです。聖書には有名なモーセの十戒があります。この戒めの一つでも破る者は神の厳しい審きを受けなければなりません。永遠の滅び、火炎地獄の世界が待っているのです。ユダヤ人はこの世界で最も優れた戒めを誇りにしながら、現実には誰ひとりそれを守ることができていなかったのです。結局ユダヤ人のみならず世界中の人々は聖なる神の審きの前に誰も彼も滅びるしかないのです。

 「渋柿や丸八年の恩知らず」と言う俳句か川柳があります。しかしその渋柿も一皮むいて根元に焼酎のようなものを施して天日にさらしておきますと、すっかり甘みの利いた柿と変わります。実に神は渋柿のような恩知らずのわたしたちをそのまま役立たずと捨ててしまうこともできるのに、これを甘柿に変えるために、神ならではの救いの御業を施してくださいました。その救いの御業とは何でしょうか。神の独り子イエス・キリストをこの世に賜ったことです。渋柿ならぬ罪人のわたしたちに刺し通す櫛を、何と言うことでしょうか、神はその独り子イエス・キリストに刺し通されました。神は御独り子の手と足を釘で突き刺し、天日にさらすように十字架の上に晒し者にされました。そうすることでわたしたちの身代わりに罪の清めを成し遂げてくださいました。わたしたちを神の御心に相応しい者と造り変えるためにです。罪を知らない主イェスが私たち罪人に代わって十字架の上に死んで甦って下さったことによって、神はもはやわたしたちの罪を思い出さないと言って下さいました。この十字架による贖いと復活の力こそ詩92編5節が教えるみ言葉の意味なのです。主イエスが十字架に死んで葬られたのは、過越祭(すぎこしさい)の直前の金曜日でした。彼は死にましたが、3日目に復活されました。神の御子イエス・キリストが復活されたことによってわたしたちは罪と死と滅びの定めから解放され、神の命、永遠の生命を賜ったのです。この大いなる神の御業を信じる者は誰でも救われます。主イエス・キリストの復活こそ神の天地創造が完成された本当の安息日です。ですから主イエス・キリストを信じるキリストの教会は、日曜日をわたしに与えられたわたしのために遣う(つかう)日曜日ではなく、聖なる神がお示しになった真の安息日、「主の日」として神の大いなる御業を喜び、祝うために教会に集められ、感謝と讃美の礼拝を献げるのです。

 

 神は今年度、私たち仙川キリスト教会のために、「主の御業を信じて」という主題と詩編92:5〜6のみ言葉を与えて下さいました。そして、今朝主の御業とは何かを学びました。わたしたちは今年もさまざまな宣教計画を立て、また会堂建築というビジョンに燃えています。私たちを罪と死の支配から救い、復活の命を賜った主が、この計画、このビジョンをご自身のために実現させてくださらないはずがありません。わたしたちは主の大いなる御業の実現を信じましょう。いや、詩編の作者が言うように、わたしたちは教会に賜った主のご計画とビジョンが必ず実現するという信仰の先取りをして大いに喜ぼうではありませんか。主が定めてくださった真の安息日、主の日を尊び、何を差し置いても集められて主に礼拝を献げようではありませんか。   祈りましょう。

 

天のお父さま、あなたの御名を崇めます。

あなたは世界の始まりを知っておられます。この宇宙はあなたがお造りになったのですから。あなたがお造りになった世界の始まりはどんなにか美しいものだったことでしょう。全てはあなたの御心のままに動いていました。しかし、あなたが心込めて造って下さった人間だけが罪を知ってしまったことによって、美しい世界を醜いものとしてしまいました。あなたの寛容と愛の御心によって救い主がこの世に来て下さらなかったら、この世界とそこに住む生きとし活ける全てのものは唯滅びるほか無かったことでしょう。詩編92:5〜6の作者が喜び一杯にあなたをほめ讃えているのは、実にあなたの深い愛と救いの御業によるものでした。私たちも今同じ喜びと感謝をもってあなたを讃め歌います。

主よ、与えて下さった今年度の主題と聖句のままに信じ従う仙川キリスト教会としてください。この教会に示されたあなたの宣教計画と会堂建築のビジョンを祝福してください。この教会を用いて、あなたのくすしい御業を讃美する者、人々に語り伝える者としてください。

私たちの主イエス・キリストのお名前によってお願い致します。

アーメン。


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