【主日礼拝・メッセージ要約】                      2003年5月25日                      
「悔い改めて福音を信ぜよ」

マルコによる福音書1章9-15節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 荒れ野で悔い改めを促す神からのメッセ−ジを叫ぶバプテスマのヨハネの声にこの世の悪しき力は耐えられず、ついに捕らえてその口を塞ごうとしました。この世はいつもそうです。善を行う心がないわけではありません。歓迎さえします。政治改革、経済改革、教育改革、福祉の改善、医療の改善など、いずれも総論に反対する人はいないのです。しかし、各論に及ぶと誰もが自分の権益を守ろうとします。立場を崩したくありません。気が付くといつの間にか初めの理想は骨抜きにされて、小手先の改良でお茶を濁すような結論で落ち着くのです。それでも正義を貫こうと引き下がらない人の口はより大きな力で塞がれてしまいます。わたしたちはこうした苦い経験を何度味わってきたことでしょうか。

 しかしその悪しき力に対してエルサレムから遠く離れた地方の村ガリラヤから聞こえてくる声があります。私たちの主イエスの御声です。主は言われます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と。先程主イエスがバプテスマを受けた後天が引き裂かれた出来事について学びましたが、実はこの瞬間をはるか数百年も昔に待ちこがれていた預言者がいます。

 「あなたの統治を受けられなくなってから あなたの御名で呼ばれない者となってから わたしたちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降ってください」と(イザヤ63:19)。

 第三イザヤと呼ばれるこの預言者は、不信仰のために滅ぼされたイスラエルの現状を憂い、異教徒に囲まれて袖に涙のかかる日々を重ねながら、メシヤ(キリスト)よ、どうか天を裂いて降ってきてください」と叫ぶが如くに祈っていたのです。

 この祈りが今聞き届けられました。時は満ちたのです。今こそ天を裂いて降ってこられた天の父、聖霊、主イエス・キリストの三位一体なる神が親しく語りかけて下さいます。これからは主イエスが統治してくださいます。神の国がきたからです。これからわたしたちはこの方の御名で呼ばれるのです。わたしたちのなすべきことはただ悔い改めてこの福音を信じることだけです。愛する兄弟姉妹、悔い改めましょう。そして今こそこの方を救い主と告白しましょう。

 

 
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【主日礼拝・メッセージ】                    

                                    2003年5月25日                      

「悔い改めて福音を信ぜよ」

マルコによる福音書1章9-15節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 

 バプテスマのヨハネは、「わたしは水であなたたちにバプテスマを授けたが、その方は聖霊でバプテスマをお授けになる。」と言っていたのに、また自分こそ主イエスからバプテスマを受けるべき者と思ったでしょうが、実際は反対です。マタイによる福音書やルカによる福音書では何故主イエスがバプテスマを受けたいと申し出られたか、その理由が説明されていますが、マルコによる福音書は説明抜きに、事実だけを伝えています。

 そこでわたしたちはバプテスマの意味を思い起こすことから主イエスが何故バプテスマをお受けになったのか、考えることにしたいと思います。バプテスマとは直訳的には「浸(しず)める」という意味ですが、それは死と葬りと復活を象徴する儀式です。十字架のキリストにおいて、古い罪のわたしに死んで葬られ、新しい命、復活のキリストにある永遠の生命に甦らされる、そう言う意味がバプテスマには込められているのです。教会の守り行うべき聖なる儀式、バプテスマは十字架抜きに語れないのです。即ち主イエスはこのバプテスマにおいて、全人類の罪をその身に負うべき十字架への道を一歩踏み出してくださったことを意味しているのです。加藤常昭牧師の言葉を借りて言うなら、主イエスは自らバプテスマを受けることによって、わたしたちの仲間となってくださったのです。それは主イエスがバプテスマをお受けになった直後の出来事と無関係ではないからです。主イエスが全身を水に浸めて上がってこられると、それを待っていたかのように天が引き裂かれました。

 余談になりますが、マルコによる福音書は他の福音書と比べてかなり短い書物です。その上まるで何をそんなに急いでいるのかと言いたくなるほど、「すぐに」という副詞をつなぎながら話を展開させているのが特徴です。

 話を元に戻しましょう。主イエスが水から上がってこられると、今や遅しとでもいうように、「すぐに」天が引き裂かれました。マタイ3:16やルカ3:21の「天が開かれ」という穏やかな表現とは異なって、乱暴なまでに天が引き裂かれました。それほど神さまがせっかちなのか、著者マルコの性格がそう書かしめたのか、天が引き裂かれるとは実際にどう言う状況なのか想像もつきませんが、この瞬間神の栄光が輝きわたったことでしょう。わたしがもしそこに居合わせたなら、引き裂かれた天上には何が見えるのかと、思わずのぞき込んだのではないかと思います。その時天上から聖霊が鳩のようにお降りになり、父なる神のみ声が響き渡りました。この御声はある訳では、人間に語られたようですが(マタイ3:17)、ここでは主イエスご自身に語られた言(ことば)として記録されています(ルカ3:22)。この天上からのみ言葉は、主イエスに対する信任の表明であり、同時に私たち人間に対して、主イエスがどのようなお方であるかを知らしめる宣言ということができます。上野公園を歩く人々は鳩の糞害に憤慨していますが、それでも一般に鳩は平和の象徴です。ここに父なる神の愛と聖霊による平和の交わりが一つにとけあって御子キリストの上に注がれました。天が引き裂かれたこの出来事は私たちに神は三位一体の神であることを確信させるに十分な出来事であり、同時にわたしたちもまた引き裂かれた天上に、この主イエスにあって、受け入れていただけるという約束の徴としての出来事なのです。従って主イエスのバプテスマは神が私たちを主イエスの仲間と認めてくださるという福音そのものなのです。

 

 さて、主イエス・キリストはバプテスマをお受けになって間もなく、聖霊によって荒れ野に送り出されました。サタンの誘惑を受けるためであります。天上から「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」と祝福を一身に集めながら、しかし彼が地上で経験した最初の仕事はサタンの誘惑と戦うことでした。昔から偉大な宗教家の通る道を彼もまた通ったのでしょうか。厳しい修行を積んで更なる悟りの世界を切りひらくためだったのでしょうか。いいえ、主イエスの荒野における40日間はそう言う目的のためではありません。この40日間何があったのか、マルコは他の福音書(マタイ4:1〜11、ルカ4:1〜13)のようには一切明らかにしていません。著者の関心事はもっぱら主イエスが荒野で40日間を過ごされたというこの一点にあります。

 日本人は荒野を知りません。妻の郷里は今でこそ賑わいを見せていますが、昔は山深い山村でした。義父の祖母まではもっと険しい山間(やまあい)に住んでいたと聞いています。水を汲みに行くのも大変な作業で、危険を伴うものでした。それでもそこに行けば水はあります。何某(なにがし)か口に入れるものも手に入れることができました。しかし荒野と言うところは何にもありません。そこは常に死と隣り合わせです。どこに行けば水が飲めるのか、口に入れるものを手に入れることができるのか、よほど旅慣れた者ならいざ知らず、普通の人間が迷い込んだら二度と抜け出すことができない、それが荒れ野です。事実主イエスもまたそこで40日間何も口に入れるものがなくて。飢えきっておられたとマタイによる福音書は伝えています。著者マルコはこの40日間に亘る主イエスのお姿を通して、読者であるわたしたちに十字架上の主イエスのお姿を彷彿(ほうふつ)とさせるのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言う叫びが聞こえてきます。わたしたちの信仰生活もまた同じです。主イエスを救い主と信じ、罪を告白してバプテスマを受けます。父と子と聖霊の三位一体の神による新生の恵みに与り、この上ない平和を味わい、あたかも天が自分の前に開かれたような恵みに満たされた思いです。しかし、聖霊は間もなくわたしたちを情け容赦なく人生の荒れ野の中に追い立てます。ここでまた少し余談になりますが、わたしたちの聖書には「"霊"はイエスを荒れ野に送り出した」と訳していますが、原文では「"霊"はイエスを荒れ野に追いやった」と書かれているのです。バプテスマを受けたばかりなので、もう少しこの幸せな気分のままでいさせてください。余韻に浸(ひた)らせて下さいと祈っても、神は私たちを強いて、そのロマンチックな世界から何もない世界に、いや、死と隣り合わせの荒れ野へ、サタンが待ち受けている厳しい社会へと追い立てるのです。そこではイエス・キリストを信じているのはわたし一人です。見るところ誰もわたしのことを分かってくれる人はいません。サタンに惑わされた世の人々の厳しい追及が明けても暮れてもわたしを責め立てます。イエス・キリストを信じさえしなければこんなに苦しむことも孤独になることもなかったのにと後悔し始めます。するとその時主イエスの御声が聞こえてきます。「わたしもかつてあなたと同じ荒れ野の中で死線をさまよったのだよ。わたしはこの無知で無理解な世の人のために十字架につけられたのだよ」と。わたしがバプテスマを受けることができたのは、主イエスがわたしの仲間であることを知ったからです。現在人生の荒れ野の中でもがき苦しむわたしですが、しかしそこにも共に荒れ野にあってわたしに寄り添って下さる方がいます。他ならない主イエス・キリストご自身です。

 

 荒れ野で悔い改めを促す神からのメッセ−ジを叫ぶバプテスマのヨハネの声にこの世の悪しき力は耐えられず、ついに捕らえてその口を塞(ふさ)ごうとしました。この世はいつもそうです。善を行う心がないわけではありません。歓迎さえします。政治改革、経済改革、教育改革、福祉の改善、医療の改善など、いずれも総論に反対する人はいないのです。しかし、各論に及ぶと誰もが自分の権益を守ろうとします。立場を崩したくありません。気が付くといつの間にか初めの理想は骨抜きにされて、小手先の改良でお茶を濁すような結論で落ち着くのです。それでも正義を貫こうと引き下がらない人の口はより大きな力で塞がれてしまいます。わたしたちはこうした苦い経験を何度味わってきたことでしょうか。

 しかしその悪しき力に対して大都市エルサレムから遠く離れた地方の村ガリラヤから聞こえてくる声があります。私たちの主イエスの御声です。主は言われます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と。先程主イエスがバプテスマを受けた後天が引き裂かれた出来事について学びましたが、実はこの瞬間をはるか数百年も昔に待ちこがれていた預言者がいます。

 「あなたの統治を受けられなくなってから あなたの御名で呼ばれない者となってから わたしたちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降ってください」と(イザヤ63:19)。

第 三イザヤと呼ばれるこの預言者は、不信仰のために滅ぼされたイスラエルの現状を憂い、異教徒に囲まれて袖(そで)に涙のかかる日々を重ねながら、「メシヤ(キリスト)よ、どうか天を裂いて降ってきてください」と叫ぶが如くに祈っていたのです。この祈りが今聞き届けられました。時は満ちたのです。今こそ天を裂いて降ってこられた天の父、聖霊、主イエスの三位一体の神が親しく語りかけて下さいます。これからは主イエスが統治してくださいます。神の国がきたからです。これからわたしたちはこの方の御名で呼ばれるのです。わたしたちのなすべきことはただ悔い改めてこの福音を信じることだけです。愛する兄弟姉妹、悔い改めましょう。そして今こそこの方を救い主と告白しましょう。  

 

祈りましょう。

天のお父さま、あなたの御名を崇めます。

わたしたちはイエスさまを信じて救われたという確信を持ちながら、しかし、現実の生活はまさに荒野のような試練の連続です。どうしてもっと静かに信仰生活を送ることが許されないのかと思う日々でした。しかし、今朝、あなたから示されたみ言葉によってこれで良かったのだと再び平安を得ました。御子イエス・キリストさえバプテスマを受け、天の父から祝福を受け、聖霊による平和を得た後に荒れ野の試練に駆り出されました。それは、わたしたちがバプテスマを受けた後に通るさまざまな苦難の道の先駆けとなって下さるためだったのです。これによってわたしたちはどれほど厳しい日々の生活の中にあっても、最早ひとりではないこと、あなたがいつも共にいて下さる確信を得ました。

主イエス・キリストのお名前によって心から感謝します。アーメン。

 


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