メッセージ 高橋淑郎牧師
主イエスの力強いみ言葉に一番驚いたのは「汚れた霊」です。会堂の中には心謙ってみ言葉に聴き入る信徒や、真剣に救いの道を求める求道者ばかりとは限りません。むしろ、礼拝を献げている人々の中にあって、神のみ言葉に耳を塞(ふさ)ぎ、自己中心の生活をいつまでも続けさせようとする汚れた霊が住み着いているのです。一人の男を虜(とりこ)にしている汚れた霊が叫びました。「我々」と言います。大勢の汚れた霊が彼を支配していたのです。その霊どもが主イエスに言いました。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と。会堂の中に何人の人がいたのか分かりませんが、主イエスの正体を知っているのは汚れた霊だけです。彼らが最も恐怖を感じるのは、主イエス・キリストの支配です。主イエスは、「黙れ。この人から出て行け」と宣言なさいました。主がこの人の魂に解放を告げられた時、汚れた霊は彼の内から出て行かなければなりませんでした。今、確かにひとりの人が救われました。汚れた霊に代わって彼の魂を主イエスご自身が、たった今支配を始められたからです。この出来事を目撃した人々はペトロを初め、またまた驚きました。しかしこの驚きはもう最初の素朴な驚きを越えて、神をおそれ畏(かしこ)む驚きに代わったのです。
ペンテコステ(聖霊降臨)の日、人々は聖霊に満たされた弟子たちの語る神のみ言葉をそれぞれ出身国の国語で聞かされて驚きました。しかし、ペトロの説教を聴いている内に、彼らの驚きは神への畏(おそ)れ、犯した罪の重荷に気付いて悔い改めへと変えられ、イエスを救い主、キリストと信じました。
もしなお躊躇(ちゅうちょ)するものがあるなら、あなたを本当に解放して下さる主イエス・キリストの御前にそのままを率直に告白してください。そして今日まで犯した一切の罪を悔い改めて言い表し、イエスをあなたの救い主と信じてバプテスマを受けてください。あなたのためにこの世に降り、十字架の上であなたのこれまで犯した一切の罪を消し去って下さる神さまの深い愛に、今こそ立ち帰ってください。
【ペンテコステ主日礼拝・メッセージ】 2003年6月8日
メッセージ 高橋淑郎牧師
使徒言行録2:5によると、エルサレムで行われた五旬祭(ごじゅんさい)のために天下のあらゆる国から帰ってきた信心深いユダヤ人が集まっていました。ちょうどその時、聖霊が弟子たちに降り、弟子たちは力を受けて御霊が語らせるまま、他の国の言葉で話し出したのですが、そこに居合わせた人々は、それぞれ自分の住んでいる国の言葉で神さまの素晴らしい愛の御業を聴いて、「いったい、これはどういうことかと驚き、戸惑っていました。しかし、「あれは新しい酒に酔っているだけだ」と嘲って言う人もいましたが、ペトロが立ち上がって、「皆さん、今は朝の9時ですから、この人たちは酒に酔っているのではありません」と答えました。エルサレムに住むユダヤ人なら誰でも知っていることですが、朝の9時と言えば、祈りの時間なのです。そのようなときに酒に酔っているユダヤ人などいないのです。今日のキリスト教会にもこれほどの熱心さが見られるかと大いに反省させられます。彼らは祈りの時間を忠実に守りました。エルサレムに住むユダヤ人達はこの時間、何があっても会堂に集まって祈りを捧げたのです。もっともらしい理由をつけて祈りの時間を他のことのために遣うなどということは考えられませんでした。
いみじくもペトロのこの言葉はそこに集まった他国出身のユダヤ人達に祈りの大切さを思い起こさせる切っ掛けになりました。しかし、ペトロの使命はそれで終わりません。彼はこの時を用いて、先程仲間が語った神さまの素晴らしい御業(みわざ)について、更に詳しく語り聞かせたのです。その結果、集まった人々の内3千人が、罪を悔い改めてイエスを救い主、キリストと信じてバプテスマを受けたと、使徒言行録2:41には報告されています。これがキリスト教会誕生の瞬間です。
では今から、ペトロが語り伝えた神さまの素晴らしい御業の一部を皆さんにもお聞かせしたいと思います。
今朝の御言葉、マルコによる福音書1章21〜28節をお読みになった皆さんは直ぐにお気付きになったことと思いますが、「驚いた」という言葉が2度にわたって記録されています。同じ驚きの感情が2度も沸き上がると言うことはよほどのことです。更によく読むと、最初の驚きと2度目の驚きは用いられているギリシャ語が異なっていることにこれを読むわたしたちが今度は驚きます。最初の驚きは、そのものズバリの驚き、「びっくり仰天した」(エクプレッソー)という驚きです。しかし2度目の驚きは、「恐れ入る」という意味です。もう少し聖書的な言い方に直すと、「畏敬の念に満たされた」(サンベオー)という意味での驚きなのです。この2度に亘る驚きが、最初の弟子たちの記憶に鮮明に残ったので、その後長く人々の口から耳へと語り伝えられていき、やがて福音書に書き残されるようになったのです。何故そんなことが言えるかというと、21節の「一行は」という書き出しに裏付けられているのです。主イエスを代表する集団、それは、先週わたしたちが学びました。ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人なのです。彼ら4人は、この会堂に集まった人々と一緒に主イエスの大いなる御業を見て心底驚きました。示された主の御業は彼らに強烈な印象となりました。それはいつまでたっても忘れることのできない出来事だったからです。
では、先ず何が彼らの驚きとなったのでしょうか。主イエスの教えに対してであります。教え方に驚いたのでしょうか。教えの内容に驚いたのでしょうか。もちろん内容です。もし教え方の違いであれば、それは技術的な問題です。その程度の違いから来る驚きであれば、一時的な新鮮さを与えたとしても、長く人々の口に上ることもなかったのではないでしょうか。繰り返します。彼らは主イエスの教えに驚きました。その内容とは、今まで同じ会堂で聖書を教えてくれる律法学者たちと全く違って、「権威ある者としてお教えになった」ので驚きました。律法学者の教えは、たいてい、「…と昔の人は言っている」(マルコ7:5)というものでした。即ち律法学者にとって権威の拠り所は「伝承」以外の何ものでもありません。しかし主イエスは違います。主イエスは権威をもって、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)と言われます。御自分がこの世に来たことによってこの地上に神の支配が確立したという意味です。主イエスは今すべての人に、一切の罪を言い表して神に立ち帰り、神の支配に服せよと宣言なさったのです。
この主イエスのみ言葉に一番驚いたのは「汚れた霊」です。会堂の中にいるのは心謙ってみ言葉に聴き入る信徒や救いの道を求める求道者ばかりとは限りません。むしろ、礼拝を献げている人々の中にあって、神のみ言葉に耳を塞がせ、自己中心の生活をいつまでも続けさせようとする汚れた霊が住み着いているのです。皆さんは汚れた霊の存在を信じることができますか。聖書ははっきりと汚れた霊の存在を証言しています。会堂の中にいる一人の男が叫びました。いや、実際には彼を虜(とりこ)にしている汚れた霊が叫びました。「我々」と言います。大勢の汚れた霊が彼を支配していたのです。断っておきますが、この人は精神を病んでいる病気ではありません。汚れた霊に支配されているのです。その霊どもが主イエスに言いました。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と。会堂の中に何人の人がいたのか分かりませんが、主イエスの正体を知っているのは汚れた霊だけです。彼らが最も恐怖を感じるのは、主イエス・キリストの支配です。主イエスは、「黙れ。この人から出て行け」と宣言なさいました。主がこの人の魂に解放を告げられた時、汚れた霊は彼の内から出て行かなければなりませんでした。今、確かにひとりの人が救われました。汚れた霊に代わって彼の魂を主イエスご自身がたった今支配を始められたからです。この出来事を目撃した人々はペトロを初め、またまた驚きました。しかしこの驚きはもう最初の素朴な驚きを越えて、神をおそれ畏(かしこ)む驚きに代わったのです。
最初のペンテコステ劇の話に戻りましょう。人々は聖霊に満たされた人々の語る神のみ言葉をそれぞれの出身国の国語で聞かされて驚きました。しかし、ペトロの説教を聴いている内に、彼らの驚きは神への畏れ、犯した罪の重荷に気付いて悔い改めました。イエスを救い主、キリストと信じました。
愛する兄弟姉妹、今朝、あなたは主イエスの大いなる御業を聖書から、そしてこの貧しい牧師の口を通して聴きました。主イエスはあなたの心の内に支配を始めようとしておられます。もしなお躊躇するものがあるなら、あなたを本当に解放して下さる主イエス・キリストに委ねてください。今日まで犯した一切の罪を悔い改めて主イエス・キリストの御前に言い表してください。あなたのためにこの世に降り、十字架によってその罪を消し去った神さまの深い愛に立ち帰ってください。
祈りましょう。
天のお父さま、あなたの御名を崇めます。
今日はペンテコステを祝うべき嬉しい日です。この日、あなたは汚れた霊を人々の魂から追放し、解放と自由、救いと永遠の生命を与えて下さいました。
今朝、この会堂にあってあなたに礼拝を献げている信徒であっても悪しき汚れた霊に再び捕らわれそうになっている者があれば、またあなたのみ言葉に聴くことを妨げる霊に捕らわれている求道者がいるようでしたら、主よ、今彼らを支配している汚れた霊どもに語ってください。「汚れた霊よ、この人から出て行け!」と。
わたしたちの主イエス・キリストのお名前によってこの祈りをお捧げ致しします。アーメン。