【主日礼拝・メッセージ要約】                  2003年6月15日                      
「町中の人が集まる」

マルコによる福音書1章29-39節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 主イエスは朝早く、「人里離れた所」での祈りを通してご自身の使命を確認しておられました。弟子たちはまだ寝入っていました。色々な出来事に出会って、疲れていたのかも知れません。しかしわたしたちの主イエスはこの地上にあって肉のからだを持つ者ではありますが、眠ることもまどろむこともなく、わたしたちのためにご自身のなすべき御業を思い、父なる神と深い交わりの中におられました。

 最近わたしたちの教会では伝道執事のご提案で、毎朝8時頃にその日示されたことを祈ることになりました。皆さんも既に実行なさっていることと思いますが、祈る時間が何時であれ、またどこであれ、わたしたちは周囲の雑音に惑わされず、霊的に人里離れた所にあって、祈りを集中させていなければなりません。そうすれば、一日の初めに献げるその祈りが主に受け入れられて、あなたがその日為すべき勤めのために、必ずや適切な指示が得られることでしょう。

 弟子たちが目覚めると、主イエスのお姿がありません。彼らはびっくりして、あちこち捜し回ってようやく見つけました。主イエスを見て安心したのか、「みんなが捜しています」と、人々の心を代表するように言いました。シモンの家には町中から集まってきました。更に多くの人々が主イエスを求めて群がっています。しかし主イエスは弟子たちのこの言葉を御心に受けとめながらも、新しい伝道の使命をお語りになりました。「ほかの所へ」と。主イエスはカファルナウムの町に飽(あ)きたのでしょうか。そうではありません。主の使命はもっと広い範囲の人々の所にも出て行って、もっと大勢の人々に神の御国の福音を宣べ伝えることにあるのです。この主イエスの熱心な宣教姿勢に弟子たちは大いに学ぶところがありました。主イエスが天に挙げられて後、弟子たちは聖霊に力づけられて、エルサレムから始まって、今や地の果てへと福音は宣べ伝えられています。主イエスの弟子は、主に倣って家族や友人など、身近な人の為に祈り、み言葉を伝えるだけでなく、まだイエスさまを知らない人、福音を聴いたことのない人の所に出かけて行くことも大切です。

 主イエスは言われます。「近くの他の町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」と。

 
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【主日礼拝・メッセージ】                   2003年6月15日                      

「町中の人が集まる」

マルコによる福音書1章29-39節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 先週、わたしたちは主イエス・キリストが墓から甦り、天に挙げられてから50日目、即ちペンテコステのお祭りに起こった驚くべき出来事を学びました。あの時、主イエスの弟子12名の上に聖霊が炎のように降り、主の弟子一人びとりの上に舌のような姿で臨(のぞ)まれました。すると、弟子たちは御霊によって力を受けてエルサレムの宮に居合わせた多くの国の言葉で主の福音を宣べ伝えました。しかし、この不思議な聖霊の働きを目の当たりにしながら、まだ信じられず、訝っている人々に、12使徒を代表してシモン・ペトロが更に詳しく主イエス・キリストの物語を語り聞かせました。聴いた人々は、「罪を知らないイエスさまを犯罪人の一人のようにして十字架に処刑したことは大きな間違いであった、神への恐ろしい罪であった」と気付かされ、その罪に恐れ戦いているのを見て、ペトロは悔い改めを勧告し、イエスを救主と信じてバプテスマを受けるようにと奨励しました。それによってバプテスマを受けた人々の数は実に3,000人を数えたということです(使徒言行録2:1〜42)。こうしてキリストの教会が誕生しました。

 初代の教会は周囲の激しい迫害をものともしないで、使徒たちを中心に監督、長老、伝道者、牧師と言った献身者を初め、信徒全員で町から町へと主イエス・キリストの福音を宣べ伝えましたから、僅かな期間に、地中海世界全域に教会が増し加わりました。使徒たちはまた忙しい伝道の傍ら、キリストの福音を書き物にしてくれたおかげで、今日わたしたちは旧約聖書だけでなく、新約聖書を通して神の愛と主イエス・キリストの恵み、聖霊の交わりの大きさ・高さ・深さ・広さ・長さ・豊かさを味わうことができるのであります。今朝、わたしたちはこの尊い主イエス・キリストの福音の一こまを学びます。

 今朝の聖書箇所は、3つに区分して学ぶことができます。先ず、28節の続きとして、主イエス・キリストは安息日礼拝の後、会堂を出てシモンとアンデレの家に行かれました。シモンとは後に主イエスからペトロという名前を貰った弟子のことです。彼は「わたしについてきなさい」と招かれて、仕事も家も捨てて主イエスの弟子になった第1号の人です。家には妻がいました。病弱な姑もいます。この家に主イエスは足を踏み入れてくださいました。主イエスが「わたしについてきなさい」と言われるとき、わたしたちがどのような心と姿勢でその御声を聴き取るかということが問われます。主イエスに従うとは、主イエスの前を行くことではないのです。主イエスの後からついて行けばよいのです。それにもかかわらず、「わたしについてきなさい」と言われた時、わたしたちは主イエスの前に立ちはだかるようにして、「主よ、それは無理です。わたしには妻も病弱な妻の母もいます。弟までも連れて行かないでください」とこの世的な基準で先々のことを思い煩ってしまうのです。しかしシモンはそのようなことをちっとも心配しないで、素直に「はい、お言葉どおりに従って参ります」とついて行きました。すると、主イエスの方から彼の心に引っかかっている家庭の事情を全て解決して下さったのです。それが、29〜31節のメッセ−ジです。

 先程まで高熱に苦しんでいたシモンの姑ですが、主イエスのみ手が置かれたことによって、たちまち癒されました。主の癒しは完璧です。床から起きあがると、彼女は彼女自身の手で感謝の食卓を整えたのであります。色々な問題を抱えながらも、色々なことを全てご存知のお方に一切をお委ねして従って行く者だけが経験することのできる大いなる「恵み」であり、その応答としての「感謝」であります。この出来事のもう一人の目撃者はシモンの妻です。彼女については詳しいことは何一つ分かりません。しかし气Rリント9:5によると、彼女はその後主の弟子となり、夫シモンと行動を共にしています。シモンが先ず主イエスに従ったことによって、この家に救われる者が後を絶たなかったということをわたしたちは読みとることができるのです。

 次の出来事はその日の夕方、日没後のことであります。会堂で見た主の驚くべき御業(21〜28節)は、たちまちガリラヤ州全域に知れ渡り、噂を聞きつけた町中の人が集まってきて、「病人や悪霊に取りつかれた人々」を主イエスのもとに連れてきました。ユダヤ人の一日は日没から始まります。病の人でも、安息日には医者のもとに連れて行けないのです。十誡を極端に解釈した律法学者がそのように定めてしまったからです。ですから、人々は安息日の終わる日没を待って病人を主イエスのもとに連れてきたわけです。それが、32〜34節のメッセ−ジであります。

ちいろば牧師で有名な榎本保郎(えのもと やすろう)先生は、ある本の中で、自分の牧会している教会堂の隣家にぼや騒ぎがあったときのことを書いておられます。その火事騒ぎに関係者は勿論、大勢の野次馬が群れをなして駆け集まって来たそうです。その時榎本牧師は思いました。「そうか、自分は今まで人々をかき集めるような伝道ばかりしていた。火事は困るが、主イエスにあって大きな出来事が起これば、人々は今日の火事騒ぎのように、駆け集まってくるはずだ」と。人々をかき集める伝道ではなく、人々が駆け集まってくるような伝道こそ、多くの人が救われると言うのです。そう言えば、あのペンテコステの時も、そして今主イエスの権威ある御業によっても、人々は町中から駆け集まって来ました。今日キリスト教会の成長の鍵もここにあるのではないでしょうか。

 この出来事は、「わたしはあなたをいやす主である」という旧約聖書のみ言葉(出エジプト記15:26)をわたしたちに思い起こさせてくれます。口語訳聖書では、「わたしは主であって、あなたをいやすものである」とあります。神はご自身を頼る者には慈しみの目を注ぎ、その必要に答えて下さいます。しかし、悪霊には物言うことをお赦しになりません。シモンもその仲間の弟子たちも、彼らはどこまで主のご本質を知っていたか分かりませんが、悪霊どもには分かっていました。だから、彼らに発言の自由を与えませんでした。どうしてでしょうか? ここに主イエスの深いご計画があるのです。そしてこれこそマルコによる福音書全体の主題と深く関わる事柄ですが、主イエスはただ人々の病を癒し、有り難いお説教を垂れるだけの方ではありません。主イエスは神の御独り子であって、全世界の罪人に罪の赦(ゆる)しと永遠の生命を賜る贖(あがな)いの業を完成させるために、十字架への道を歩み出されたのです。悪しき霊、汚れた霊によって御自分を証される必要はありません。主イエスを証しする者はシモンを初め、主の弟子とされる全てのキリスト教会に委ねられるはずだからです。悪霊は追放しなければなりません。いつまでも人の心を支配してのさばらせていてはならないのです。悪霊の内住に苦しむ人を解放して、ご自身がその人の内なる主となってあげることこそ、主イエスの為すべき事でありました。

 

 最後に、主イエスは翌朝早く、「人里離れた所」で祈りを通してご自身の使命を確認しておられたようです(35〜38節)。弟子たちはまだ寝入っていました。前の日、主イエスに従いながら色々な出来事に出会って、疲れていたのかも知れません。しかしわたしたちの主はこの地上にあって肉のからだを持つ者ではありますが、眠ることもまどろむこともなく、わたしたちのためにご自身のなすべき御業を思い、父なる神と深い交わりの中におられました。「人里離れた所」について、口語訳聖書では「寂しい所」とあります。これを元の聖書で読むと、1:12の「荒れ野」と同じギリシャ語で表されていることが分かりました。朝早く、しかも荒れ野に出て行き、父なる神と静かなひととき、深い交わりの時を過ごされたのです。

 最近わたしたちの教会では伝道執事のご提案で、毎朝8時頃にその日示されたことを祈ることになりました。皆さんも既に実行なさっていることと思いますが、祈る時間が何時であれ、またどこであれ、周囲の雑音に惑わされず、霊的に人里離れた所にあって、祈りを集中させましょう。そうすれば、一日の初めに献げるその祈りが主に受け入れられて、その日為すべき勤めのために、必ずや適切な指示が得られることでありましょう。

 さて、弟子たちが目覚めると、主イエスのお姿がありません。彼らはびっくりして、あちこち捜し回ってようやく見つけました。安心した弟子たちは、しかしより多くの人々の心を代表するかのように、「みんなが捜しています」と言いました。何と多くの人々が主イエスを求めていることでしょうか。しかし、主イエスは弟子たちのこの言葉を御心に受けとめながらも、新しい伝道の使命をお語りになりました。「ほかの所へ」と。主イエスはカファルナウムの町に飽きてしまったのでしょうか。そうではありません。主の使命はもっと広い範囲の人々の所にも出て行って、もっと大勢の人々に神の御国の福音を宣べ伝えることにあるのです。この主イエスの熱心な宣教姿勢に弟子たちは大いに学ぶところがありました。主イエスが天に挙げられて後、弟子たちは聖霊に力づけられて、エルサレムから、ユダヤとサマリヤの全土、更に地の果てへと福音を宣べ伝える者とされました。

 今日の教会もまたこの主イエスの姿勢から学ぶ者でなければなりません。家族や友人など、いつも出会う人、慣れ親しんだ人々の為に祈り、み言葉を伝えるだけでなく、まだイエスさまを知らない人、福音を聴いたことのない人の所に出かけて行くことも大切です。

 主イエスは言われます。「近くの他の町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」と。

祈りましょう。

 

天のお父さま、あなたの御名を崇めます。

シモンの姑の病を癒されました。あなたは主イエスの招きに答えて従う者のためには、これほどきめ細かいご配慮を示してくださいます。主イエスを求める人が殺到したときにもあなたは一人ひとりの必要にお答えくださいます。しかし、主の御目はその向こうにも届いています。「他の町々、村々」へ福音を届けてくださるお方でした。ガリラヤの町の垣根を越えて、ユダヤ民族の枠を越えて、あなたは救いの御業を成し遂げてくださいました。

主よ、今もあなたのみ救いを必要としている人が大勢います。わたしたちをお遣わしください。

わたしたちの主イエス・キリストのお名前によってこの祈りをお捧げ致しします。アーメン。


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