【主日礼拝・メッセージ要約】                  2003年6月22日                      
「よろしい、清くなれ」

マルコによる福音書1章40-45節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 これは重い病の為に謂(い)われない差別に苦しむ人の物語です。神はこの人を顧(かえり)みて下さいました。彼は主イエスに、「御心(みこころ)ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願い出ました。「癒(いや)して下さい」とは言わず、「清めて下さい」と言うところにこれまでの苦しみがどれほどのものであったか、読む者の心を締め付けます。風邪をひいたとか、けがをしたというようなものではないのです。この病によって家も財産も市民権も何もかも失いました。「汚れた者」というレッテルを貼られてしまったからです。主は彼を一目見るなり、「深く憐(あわ)れんで手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい、清くなれ』」と言われました。「深く憐れんで」とは、直訳すると「内臓が痛んで」という意味です。ユダヤ人は昔から人間の感情の座は内臓にあると信じていました。主イエスはこの人を見て、内臓が痛むほどに深い同情を寄せられたのです。私たちも人の不幸に出会ったとき、多少の同情心が湧きます。しかし赤の他人の為に自分の内臓がどうかなるほどに、人の痛みをわが痛みとできるのは主イエスだけです。神の御前には全てがいとしい我が子だからです。当時、律法(りっぽう)によると、このような人に触れることは禁忌(きんき)のことでした。しかし主イエスはそのタブーを破って手を差し伸べ、この人に触れて、「わたしの心だ。あなたは清められた」(直訳)と言われます。主もまた「癒されよ」とは言わず、「清くなれ」と言われたのです。するとたちまち病は癒され、清くなりました。但し、聖書の言う「清め」とは「聖別される」という意味です。聖別されるとは、単に見かけが綺麗(きれい)になるとか、道徳的に正されるとか言う以上に、それは「神のものとして受け入れられる」という意味を持っています。彼はこの瞬間、聖別(主のものと)されました。

 私たちもそうです。謙って主の御許(みもと)に出て行ったとき、主もまた「わたしの心だ。あなたは清められた」とお声をかけ、受け入れて下さいます。しかし、もし私たちが主イエスの御前に汚れた者、神に遠い生き方をしていたことを認めないなら、人の目に見るところどんなに知恵があり、麗(うるわ)しく、魅力を振りまくほどの者であっても、聖別されることはないのです。主にあって汚れたままの人なのです。

 
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【主日礼拝・メッセージ】                  2003年6月22日                      

「よろしい、清くなれ」

マルコによる福音書1章40-45節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 ここに「らい病を患っている人」の主イエスによる癒しの物語があります。1996年、いわゆる「らい予防法」が廃止になり、病名も改められてハンセン病と呼ばれるようになり、最早不治の病ではないことが明らかになりました。因みにこの新共同訳聖書が世に出たのは1988年です。既に当時から差別的・閉鎖的な政策に拘る日本政府に対する国際的非難が高まっていました。神の御心を伝える日本聖書協会としては読者を啓発する意味で、率先して「ハンセン病」と訳して欲しかったと思います。しかも毎年この聖書は発行され続けているのですが、一向に改められる様子がないのは残念なことです。今日のように近代医学が発達している時代でさえこのような悲しい状況です。ましてやおおよそ3,000年も昔の古代社会ではどれが本当にハンセン病で、どれが重い皮膚病であるかの見極めができなかったと思います。皮膚に疥癬のような症状をきたすと、十把一絡げに「らい」と診断されました(レビ記13章)。誰が診断したのでしょうか。祭司たちです。一旦らい病という宣告を受けた人は実際の所どうであれ、「汚れた者」と見なされて即座に共同体から締め出されてしまうのです。それから1,000年ほど経過した主イエスの時代にもこのレビ記の律法は生きていました。ここに登場する人は病に苦しみ、謂われなき差別に苦しむ毎日だったのです。しかし、神はこの人を顧みて下さいました。彼は主イエスの御前にひざまずいて「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願い出ました。「癒して下さい」とは言わず、「清めてください」と言うところにこれまでの苦しみがどれほどのものであったか読む者の心を締め付けます。風邪をひいたとか、けがをしたというようなものではないのです。この病によって、恐らく彼は家族も友人も財産も戸籍も、いや名前までも奪われ、忘れ去られました。それもこれも「汚れた者」というレッテルを貼られてしまったからです。主は彼を一目見るなり、「深く憐れんで手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい、清くなれ』」と言われました。「深く憐れんで」とは、直訳すると「内臓が痛んで」という意味です。ユダヤ人は昔から人間の感情の座は内臓にあると信じていました。確かに日本人である私たちも強いショックを受けると「胃の腑が痛む」とか、「肝を冷やした」とか、「心臓が口から飛び出すかと思った」などと言います。主イエスはこの人を見て、内臓が痛むほどに深い同情を寄せられました。私たちも人の不幸に出会ったとき、些かの同情心が湧きます。しかし、肉親ならともかく赤の他人の為に自分の内臓がどうかなるほどに、人の痛みをわが痛みとできるものでしょうか。主イエスだけができることです。何故なら、神の御前には全てが愛(いと)しい我が子だからです。

 当時、律法の書レビ記によると、このような人に触れることは禁忌のことでした。しかし主イエスはそのタブーを破って手を差し伸べてこの人に触れました。そして、「よろしい、清くなれ」と言われたのです。主イエスもまた、「この病から癒されよ」とは言わず、「清くなれ」と言われました。するとたちまち病は癒され、清くなりました。聖書の言う「清め」とは、「聖別される」という意味です。聖別されるとは、ただ見かけが綺麗になるとか、道徳的に正されるとか言う以上に、それは「神のものとして受け入れられる」という意味を持っています。彼はこの病のために全てを失い、人間以下の扱いを受けていました。しかし、主の御心は違います。聖書に「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(サムエル記上16:7)とあります。また、「わたしの目にあなたは価高く、貴い」(イザヤ書43:4)と言われています。この人は世の人から捨てられましたが、主の目に受け入れられました。主イエスの御前に真心から謙って、「御心なら清めていただけます」と願い出たからです。それで、主イエスもまた、「よろしい、清くなれ」と語りかけて下さいました。これを直訳すると、「わたしの心だ。あなたは清められた」と言われたのです。彼はこの瞬間聖別されました。主のものとされました。

 私たちもそうです。謙って主の御下に出て行ったとき、主もまた「わたしの心だ。あなたは清められた」とお声をかけ、受け入れていただけるのです。もし、私たちが主イエスの御前に汚れた者、神に遠い生き方をしていたことを認めないなら、人の目に見るところどんなに知恵があり、麗しく、魅力を振りまくような者であっても、聖別されることはないのです。主にあって汚れたままの人なのです。

 

 主はこの恵みと憐れみに満ちた御業に続いて、なおも恵み深いみ言葉をおかけになりました。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい」と。彼がこれから為すべきことはただ一つです。先ず祭司の所に行って癒された体を見せること、そしてモーセの定めた献げ物をもって清めの儀式に与るのです。主イエスは神の子キリストです。真の神が彼を清めたのに、どうして祭司とは言え、人間の手で清めの儀式に与る必要があるのでしょうか。実はそこに主の深い御心が見えます。確かに主イエスが彼を聖別してくださったことによって彼と神との和解が成立しました。しかし、もう一つ回復しなければならない関係があります。それは彼を取り巻くこの世との関係です。レビ記14章に定められた献げ物をすることによって、彼の病が癒されたことを人々に証明することです。こうした儀式を通して初めて社会復帰への道が開かれます。だから主イエスは彼に祭司の所に行けと命じられたのです。

 最後に著者は面白いエピソードを紹介しています。主イエスは彼に祭司のもとへ行くこと以外は黙っているようにと固く口止めしました。しかし、この人は喜びの余り、「大いにこの出来事を人々に告げ、言い広めた」ということです。「大いに」とは、主イエスの恵みの業を大袈裟に、或いは尾ひれを付けて報告したようです。それがこの「大いに」という元の言葉の意味です。そのため聞く人は主イエスを正しく理解することができません。もしかして魔術師のように思うかも知れません。これでは贔屓(ひいき)の引き倒しです。ですから、それ以来主イエスは公然と町にはいることができなくなり、人のいない所におられたと言うことです。

 私たちも同じです。私たちが主イエスの御前に罪が赦され、汚れを清められ、神のものとされたらそれで万事解決ではありません。この世の人々との関係も清められなければなりません。私たちが救われた者、主のものとされたことを証明しなければ、この世は私たちが救われたことに気付かないでしょう。しかし、その前に先ずしなければならないことがあります。祭司の所に行って、自分の体を見せることです。聖書はキリスト者を神の祭司と呼んでいます(气yトロ2:5,9)。祭司の許に行き、定められた献げ物をするとは、先ず教会生活を確立することです。主の教会を素通りして、人々に主イエスの恵みの御業とみ言葉を正しく語り伝えることができないからです。「祭司のもとに行け」と主は言われます。礼拝を、教会生活を大切にしましょう。

今朝は神学校週間第一日です。この教会から主の恵みの御業を語り伝える献身者が起こされることを願ってやみません。 祈りましょう。

 

天のお父さま、あなたの御名を崇めます。

私たちは今朝、長い間病と孤独に苛まれていた一人の人が主の憐れみのみ言葉と御業によって救われたという記事を学びました。あなたは謙る者を決して軽んじるお方ではありません。しかし、わたしは清い、と高慢に振る舞う者、目に見るところで人を差別する者を決してお赦しになりません。私たちはあなたの憐れみによって今あることが許されています。そして、この世にあって人々にあなたを証しする道として、主の教会を軽んじてならないことも学びました。願わくはこの教会から献身者を起こしてあなたを宣べ伝え者としてください。

わたしたちの主イエス・キリストのお名前によってこの祈りをお捧げ致しします。アーメン。

 


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