【主日礼拝・メッセージ要約】                  2003年8月3日                      
「イエスに触れようとして」

マルコによる福音書3章7-12節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 ガリラヤを初め各地方から群がり集まってきた人々の誰一人、イエスを主と告白する者はありません。ただ汚れた霊どもだけが、「あなたは神の子だ」と叫んでいます。汚れた霊が聖なる神の子を言い当てるとは少し滑稽(こっけい)な気もしますが、汚れている者だからこそ主の聖さを誰よりも認識することができたのかも知れません。この汚れた霊とは、13節以後の説明によるとサタンとその手下である悪霊どものことです。サタンとはもともと「敵対する者」という意味ですから、その配下の者もまた神に敵する者なのです。その彼らがイエスに向かって「あなたは神の子」と叫んだからといって主の喜びとはなりません。むしろ黙っているようにと厳しくお命じになりました。これはどう言うことでしょうか。汚れた霊は人々を神から引き離す霊であります。その霊が主のご本質を正しく言い当てたとしても、それは主に服する者となったと言えないのです。ヤコブの手紙2:19に、「あなたは『神は唯一だ』と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じておののいています」と記されています。イエスが神の子キリストであると告白することは貴いことです。しかし、今主イエスを求めて群がってくる人々の中にあって、汚れた霊どもは群衆の心を主の御心とは反対の方向へ引き入れようとしているのです。群衆はイエスをただ病気を治してくれる偉い人というイメージで見ています。汚れた霊どもはそこにつけこんでイエスを、困ったときの神頼み、奇跡を起こす御利益宗教の教祖に仕立て上げようとしています。だから汚れた霊どもの口を塞(ふさ)ぐ必要があったのです。

 「あなたは神の子」という告白は、ただ主イエスの御体(みからだ)に触れることと結びつきません。もっと深い霊的なところで主イエスに触れさせて頂くことによって沸き上がってくるのです。霊的に深いところとはどこでしょう。ゴルゴタの丘です。十字架と復活を通して初めて「あなたこそ神の子です」という告白を正しい意味で言い表せるのです。

 あなたの都合に合わせて奇跡を起こしてくれるイエスを教祖として頼るのか、それともあなたのために死んで甦ったイエスを主と頼み、このお方に服従と献身を言い表すのか。今決断を迫られています。

 

 
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【主日礼拝・メッセージ】                     2003年8月3日                      

「イエスに触れようとして」

マルコによる福音書3章7-12節

メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 「おびただしい群衆がイエスに従った」と7節にあります。考えてみるとおかしな言い回しです。そもそも群衆とはおびただしい数の人を指しています。群衆か、おびただしい数の人かどちらかの表現で十分と思うのですが、これはその現場を目撃したペトロの証を著者マルコが聴いたまま書き記したものと考えると頷けます。何故そこまで言いきれるかと申しますと、使徒言行録やパウロ書簡などを読みますと、マルコはペトロの助手として働いていたことが分かるからです。ペトロはこの瞬間をそれほど感動をもって眺めていたのでしょう。ともあれ、実に多くの人々がガリラヤから主イエスに従ってきました。それに加えて南部のユダヤ地方、特にエルサレム、更に南のイドマヤ、東からはヨルダン川東岸、恐らくペレア、デカポリスと言った地方から、西からは地中海岸沿いの町ティルスやシドンといった町々、即ちガリラヤを取り巻く周囲全ての地方から人々が続々と集まってきました。イドマヤ、ペレア、デカポリス、ティルス、シドンなどはみな異邦人の町です。バプテスマのヨハネのもとに集まった人々のことを思い出してください。神の権威で語り、行動するヨハネの威厳の前に、ユダヤ全地方から人々が続々と集まってきました(マルコ1:5)。

 主イエスの場合はどうでしょう。今ユダヤ人だけでなく、周囲の国の人々までが主イエスの噂を聞きつけて群がり集まって来たのです。そうです。主イエスの下にはユダヤ人のみならず、異邦人までもが頼ってきました。ここで見落としてならないこと、それは主イエスの目線の向こうには異邦人をも巻き込む救いの御業が既に始められていたと言うことです。但し、異邦人の側にこの理解が必ずしも十分ではなかったということです。このおびただしい群衆はどのような噂を聞き、何をしに来たのでしょうか。「イエスのしておられることを残らず聞いた」(8節)からです。彼らは主イエスの噂を信じてやって来たのです。しかし、主イエスがどのようなお方であるかについてはまだ良く分かっていません。何とか主イエスに触れたい。そして癒されたいと願う人々のために押しつぶされそうになりながら、しかし主イエスは彼らを退けようとはしないで、弟子たちに頼んで小舟を用意させました。そして彼らの願いに百%答えて下さったのです。

 わたしは先程このできごとの記事はペトロの証によるものではないかと申し上げました。わたしの推測がまちがっているとしても、このできごとを何かの機会に伝え聞いたマルコ自身大いに感動し、是非とも福音書の中に書き込んでおきたいと考えた結果と見ることは差し支えないでしょう。では、ペトロにしろ、マルコにしろこの出来事の何に感動したのでしょうか。どうにかして主イエスに触れたい、そうすれば癒されるという一途な人々の姿に感動したのでしょうか。いいえ、むしろそうした人々を退けることをしないで受け入れて下さる主イエスの恵み深さに感動したのではないでしょうか。

 わたしたちの教会は41年間慣れ親しんだ現在の会堂に別れを告げて新たに会堂建築しようとしています。新会堂の図面を見てなおいろいろなところに課題を見る人もいます。少しでも良い会堂を建てたいとの思いからのことです。いずれは工事をスタートして11月末には竣工する予定です。確かにある程度会堂そのものも伝道をしてくれます。しかしわたしたちは会堂だけに任せて良いとは思いません。では新たな会堂でわたしたちは何をしようとしているのでしょうか。いろいろな人が教会の門をくぐることでしょう。しかしそうした人々が必ずしも主イエスがどのようなお方であるかを知っているわけではありません。多くの場合ひたすら自分の要求を満たして欲しいと、ただそれだけの動機でイエスに触れたいと願ってやってくることでしょう。その時、私たち教会はただ呆然(ぼうぜん)と主の下に押し寄せてくる人々を眺めていてはいけません。主イエスがご自身の下に押し寄せる人々のために為される御業に仕える者とならなければなりません。

 あの時弟子たちは主の御業のために小舟を用意して漕ぎ出しました。わたしたちもわたしたちのできる福音の種まきに出かける者となりましょう。主イエスがただ御利益信仰の教祖ではなく、御自分を罪の贖いとして十字架に死んで甦って下さった救主であることを証する者となりましょう。これが主の御業のために小舟を出すという奉仕の意味です。

 11〜12節にもう一つ興味深いみ言葉があります。ガリラヤを初め各地方から群がり集まってきた人々の誰一人、イエスを主と告白できる者はありませんでした。ただ汚れた霊どもだけが、「あなたは神の子だ」と叫んでいます。汚れた霊が聖なる神の子を言い当てるとは少し滑稽な気もしますが、汚れている者だからこそ主の聖さを誰よりも認識することができたのかも知れません。この汚れた霊とは、13節以後の説明によるとサタンとその手下である悪霊どものことです。サタンとはもともと「敵対する者」という意味ですから、その配下の者もまた神に敵する者なのです。その彼らがイエスに向かって「あなたは神の子」と叫んだからといって主の喜びとはなりません。むしろ黙っているようにと厳しくお命じになりました。これはどう言うことでしょうか。ご自身を正しく言い当てた霊をどうして退けるようなことをなさったのでしょうか。

 実はここに今日のメッセ−ジの重要なポイントがあります。主を正しく言い当てた者が誰であるかということを考えてみてください。汚れた霊は人々を神から引き離す霊であります。その霊が主のご本質を正しく言い当てたとしても、それは主に服する者となったと言えないのです。ヤコブの手紙2:19に、「あなたは『神は唯一だ』と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じておののいています」と記されています。イエスが神の子キリストであると告白することは貴いことです。しかし、ヤコブは言います。「信仰が行いを伴わない限り、それは祝福の道とはならない」と。ヤコブの言う行いとは主にある愛の業のことであります。今主イエスを求めて群がってくる人々の中にあって、汚れた霊どもは群衆の心を主の御心とは反対の方向へと引き入れようとしているのです。群衆はいまとても危険な曲がり角に立っています。彼らはイエスをただ病気を治してくれる偉い人というイメージで見ています。汚れた霊どもはそこにつけこんでイエスを、困ったときの神頼みの対象、奇跡を起こす御利益宗教の教祖に仕立て上げようとしているのです。だから汚れた霊どもの口を塞ぐ必要があったのです。

 「あなたは神の子」という告白は、ただ主イエスの御体に触れることと結びつきません。もっと深い霊的なところで主イエスに触れさせていただくことによって沸き上がってくるのです。霊的に深いところとはどこでしょう。ゴルゴタの丘です。十字架と復活を通して初めて「あなたこそ神の子です」という告白を正しい意味で言い表せるのです。くどいようですが十字架と復活抜きにこの告白をしても、それは主イエスを御利益宗教の教祖に祭り上げるだけなのです。十字架と復活という主の愛の御業に触れてこそ言い表すべき信仰の告白なのです。わたしにとって都合良く奇跡を起こしてくれるイエスをただの教祖として頼るのか、それともわたしのために死んで甦って下さった主イエス・キリストに頼り、このお方に対して服従と献身を言い表すのか。わたしたちは今決断を迫られています。    祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を心からあがめます。

 今朝、わたしたちはこの教会の歴史上初めて仮会堂での礼拝をささげています。そしてあなたはこの教会が新たに踏み出そうとする上で必要なビジョン、あなたが年度始めに与えて下さったビジョンに今もう一度向き合わせてくださいます。

 それは、主の御業を信じて立ち、そして歩み出すと言うことでした。主イエスが私たちにお示し下さる御業とは、日常のわたしにとって都合の良い奇跡の数々ではありません。あなたの御業はすでにゴルゴタの上で完成しました。復活においてそれが確かなものと証しされました。あなたの十字架と復活という恵みの御業は今なお全ての人に注がれています。「神の御心は全ての人が救われることです」とあなたは聖書を通して語っておられます。わたしたちがあなたの促しによって建設しようとしている会堂・牧師館があなたの御心に適ったものとなりますように。 あなたの御救いを求めて集められる人々が十字架と復活の主イエス・キリストにこそ触れる者とされますように。わたしたちに与えられた福音の種まきの使命に忠実な者としてください。

私達の主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 


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