メッセージ 高橋淑郎牧師
主イエスは、「神の御心を行う人こそ、わたしたちの兄弟、姉妹、また母なのだ」と言われました。では、神の御心を行うとはどう言う意味でしょうか。人に親切にしたり、優しく接することでしょうか。慈善団体に金品をたくさん寄付することでしょうか。福祉活動に参加することでしょうか。戦争のない世の中にするために積極的な取り組みをすることでしょうか。どれもこれも大切なことです。それらの業の一つひとつは確かに神の喜びとなります。でも、その前にしなければならない大切なことがあります。それは先週から学んでいることですが、聖霊を冒涜しないことです。主イエス・キリストが成し遂げて下さった愛の御業を心に留めて、今度はわたしたちが全ての善い業に先立ってイエスを個人的な救主として受け入れ、信じ従うことであります。
「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と。神の御心を行う人はわたしにとって血肉以上に濃い結びつきが出来る家族だと主は言われたのです。先週、わたしたちは自分の心に頼る空しさを学びました。今日は肉親であっても信頼するにはリスクが伴うことを学びました。ましてや世間の人々の心は推して知るべしです。聖書に、「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。心を探り、そのはらわたを究めるのは主なるわたしである」(エレミヤ書17:9〜10)とある通りです。確かにこの世の中に真実頼れるものは何一つありません。主イエス・キリストだけが信頼に値するただ一人のお方なのです。この世に信頼できるものは何一つありませんが、だからといって世捨て人になれと主は言っておられません。自分も人も頼りになりませんが、それでも主にあって自分を信じ、隣人を信じて行くことはできます。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と主イエスは言われます(マタイによる福音書18:20)。イエス・キリストを救い主と信じる者たちが主の名によって一同に会するところ、そこに神の家族が生まれ、そして形づくられるのです。キリストの教会とは各自の肉親を第一にするところから始まりません。肉親を含めて全ての者が、先ず主の許に呼び集められる関係、これこそ真に主にあってわたしの兄弟、姉妹、また母なのです。
【主日礼拝・メッセージ】 2003年8月24日
メッセージ 高橋淑郎牧師
わたしたちは先週、身内の者たちが主イエスを取り押さえに来たことを切っ掛けに聖霊を冒涜する罪の恐ろしさを学ぴました。今日は身内の者だけでなく主の母マリヤと兄弟姉妹までが主イエスを求めてやってきたことを通して今度は家族の意味を学ぶことができます。
母マリヤと兄弟たちがイエスを呼ぴにきました。頼まれて取り次いだ人々は、「御覧なさい。母上と兄弟姉妹が外であなたを捜しておられます」と言いました。ここで「捜す」という漢字をあてはめて訳されていることに注意してください。これは、自分たちの手から失われたものをもう一度取り戻したいと願って捜していた、そういう意味であります。
確かに世間では主イエスに対して悪い噂を立てる人が多くいます。しかしこの家に集まっている人々を初め、少数ながらイエスを主と信じ受け入れ、従っていた人々もいるのです。人は耳にした噂によってではなく、本人から直接聞くこと、またしていることを直に見て判断することが本当は求められるのですが、どうしても噂を信じてしまう弱さがあります。母マリヤもその一人です。今折角主イエスを捜しあてました。この機会にどんなことをしているのか、どういう教えをしているのかを直按見聞きする良い機会を得たのです。しかしそうはしませんでした。
自分の息子、自分の兄弟であるイエスがいつの間にか自分たちの手を離れて、仕事もしないでふらふら歩き回っているのです。それだけでも家族としては世間に対して肩身が狭いのに、聞くところによれば律法に定められた安息目を守らず、また決まった日に断食もしないで、罪人と呼ばれる人たちと一緒に食事をしたり、当時タブーとされていたハンセン病の人に触って、外の病人共々に癒しの業をしたり、悪霊を追い出したりしているというのです。それで母も兄弟たちもイエスを取り押さえにやってきました。
神学佼を出たばかりの青年が自分を育ててくれた教会に招かれて牧師として就任しました。彼は講壇に立ち、力の限りメツセージを取り次ぎました。礼拝が終わると彼を囲んで食事をすることになりました。その時何人もの自分より遙かに年上の人々に囲まれて懐旧談が始まりました。「ついこの間までおむつをしていたSちゃんが牧師だなんて信じられないね。」という人があるかと思うと、「Sちゃん、大きくなったね。今いくつ?」とまるで子ども扱いです。でもS牧師は少しも悪ぴれることなく、「はい、皆さんのおかげです。はい、28になりました。」と一人ひとりに丁寧に答えたということです。
世間でさえこれです。まして肉親となれば尚更です。自分たちは世間の誰よりもイエスのことを知っているという自負心が霊の目を曇らせてしまうのです。この家に集まっている人にとってイエスは主なるキリストであっても、肉親には相変わらずSちゃんならぬ、イエスちゃんなのです。そこで主イエスは肉親に対して思いがけないことを口にされました。「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と。それだけではありません。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言われました。この言葉は肉親の耳を疑わせたことでしょう。いや、頭から冷水を浴ぴせられた思いであったかも知れません。そのとき母マリヤは、「だれがあなたをここまで育てたか忘れたの?貧しい家計を切り盛りして家族第一に守ってきたわたしは一体何だったのかしら」と思い、その目から涙があふれたかも知れません。
しかし嘆くのはまだ早いのです。これは肉親の母や兄弟姉妹に対する絶縁状ではないのです。人の言葉は最後まで聞かなければとんでもない誤解を生みます。主は続けてこう言われました。「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と。神の御心を行う人はわたしにとって血肉以上に濃い結ぴつきが出来る家族だと主は言われたのです。では、神の御心を行うとはどう言う意味でしょうか。何をすることが神の御心を行うことなのでしょうか。人に親切にしたり、優しく接することでしょうか。慈善団体に金品をたくさん寄付することでしょうか。福祉活動に参加することでしょうか。戦争のない世の中にするために積極的な取り組みをすることでしょうか。どれもこれも大切なことです。それらの業の一つひとつは確かに神の喜ぴとなります。でも、その前にしなければならない一番大切なことがあります。これこそが主イエスの言われるところの、先ず行うべき「神の御心」なのです。それは先週から学んでいることですが、聖霊を冒涜しないことです。もう一度28節をご覧下さい。「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」というみ言葉です。わたしのような罪を犯す者をも赦すために、主は十字架の上で身を挺して父なる神に取りなしてFさいました。これこそ主イエスが私たちのために先ず成し遂げて下さった愛の御業、神の御心です。今度はわたしたちが全ての善い業に先立って為すべき神の御心として、この主イエス・キリストを個人的な救主として受け入れ、信じ従うことであります。
繰り返します。「神の御心を行う」とは、先ず、罪赦されている事実を認めること、わたしたちの罪が赦されるために十宇架に死んで甦って下さったイエス・キリストを信じることです。信じて喜ぴと感謝の内にこの方に従う決心を言い表すことです。先週、わたしたちは白分の心に頼る空しさを学びました。今日は肉親であっても信頼するにはリスクが伴うことを学ぴました。ましてや世聞の人々の心は推して知るべしです。聖書に、「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。心を探り、そのはらわたを究めるのは主なるわたしである」(エレミヤ書17:9〜10)とある通りです。確かにこの世の中に真実頼れる者は何一つありません。人は生まれながらに罪人であると証言する聖書の真理を受け入れなければなりません。主イエス・キリストだけが信頼に値するただ一人のお方なのです。
この世に信頼できるものは何一つありませんが、だからといって世捨て人になれと主は言っておられません。また猜疑心をもって人と接しなさいと言われているわけでもありません。自分も人も頼りになりませんが、それでも主にあって自分を信じ、隣人を信じて行くことはできます。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と主イエスは言われます(マタイによる福音書18:20)。神の御心を行う、即ちイエス・キリストを救い主と信じる告白をした者たちが主の名によって一同に会するところ、そこに神の家族が生まれ、そして形づくられるのです。キリストの教会とは各自の肉親を第一にするところから始まりません。肉親を含めて全ての者が、先ず主の許に呼ぴ集められる関係、これこそ真に主にあってわたしの兄弟、姉妹また母なのです。祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。
わたしたちの心は移ろいやすくまた偽ります。しかし、あなたはこのような罪深く、それゆえに孤独なわたしたちのために御子イエスを十字架につけ、その流された血によってわたしたちの心を清め、キリストの家族という交わりの世界へと引き上げて下さいました。
主よ、この週もあなたの御前にある一人ひとりを祝福して上げて下さい。世のさまざまな誘惑から彼らをお守り下さい。今日の御言葉をその心に根づかせてください。
私たちの主イエス・キリストのお名前によってこの祈りをお献げします。 アーメン。