【主日礼拝・メッセージ要約】−子ども祝福−          2003年11月16日                      
「あなたを造られた方」

ザヤ書44章24節

「あなたの贖い主/あなたを母の胎内に形づくられた方/主はこう言われる。
わたしは主、万物の造り主。自ら天を延べ、独り地を踏み広げた。」
メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 今朝は「子どもを祝福する主日礼拝」です。わたしたちの教会にこのような機会が与えられていることを神さまに感謝したいと思います。同じことを今年もまた申し上げますが、教会が幼子の頭に手を按(お)いて神さまの祝福を祈り求めるのは、この世の七五三の儀式に対抗してのことではありません。これは優れて聖書的な祝い事であります。福音書の記事によりますと、主イエスは、「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(マルコ10:14〜15)と言い、幼子の頭に手を按いて祝福されました。主イエスが幼子の頭に手を按いて祝福されたのはただ子どもが可愛いからというのではありません。幼子のあるがままの姿こそ、まことに神の国にふさわしいとして祝福されたのであります。全ての人はかくあるべしという見本として幼子を選び、抱き上げられたのであります。主イエスはここで子どもに対して大人に学べとは言われません。むしろ、大人に対して子どもに学べと言っておられるのです。

 そこで今日与えられたイザヤ書44:24のみ言葉に戻りましょう。このみ言葉には実に豊かな味わいがあります。聖書の神はどういう神か、それはわたしたちを丸ごと引き受けてその罪を贖(あがな)いとってくださる、そういう神だというのです。わたしたちは吾が子に躾(しつ)けを与える前に、先ずこの事実を受け入れてこの神の愛に感謝することです。その時わたしたちは初めて子どもに学んで神の国を受け入れる必要を感じるのです。神の国とは神の支配する世界と言い直すことができます。すなわち子どもたちは、わが子であろうとなかろうとわたしたちの所有物ではなく、全ては神のものだということです。わたしたち主イエス・キリストの教会に属する者は親であろうがなかろうが、目の前にいる子どもたち一人ひとりの心を神の愛の懐(ふところ)にお返しする責任があります。そこで子どもたちを躾けるとは一にも二にも神を畏(おそ)れる思いを抱かせるということです。それにはわたしたちが先ず神を畏れる思いを忘れないことです。罪赦(ゆる)された者としての確信と謙りと感謝なしに子どもたちの前に出ることはできないのです。贖われた者という自覚なしに子の罪咎(とが)を正すことはできません。先ず、子どもたちの中に神のみ国を見ないなら、わたしたちは言葉だけの親、言葉だけの教師、言葉だけの矛盾した大人になってしまうのです。

 
福音メッセージ一覧へ戻る


【主日礼拝・メッセージ】 −子ども祝福−          2003年11月16日                      

「あなたを造られた方」

ザヤ書44章24節

「あなたの贖い主/あなたを母の胎内に形づくられた方/主はこう言われる。
わたしは主、万物の造り主。自ら天を延べ、独り地を踏み広げた。」
メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 今朝は「子どもを祝福する主日礼拝」です。わたしたちの教会にこのような機会が与えられていることを神さまに感謝したいと思います。同じことを今年もまた申し上げますが、教会が幼子の頭に手を按(お)いて神さまの祝福を祈り求めるのは、この世の七五三の儀式に対抗してのことではありません。これは優れて聖書的な祝い事です。福音書によると、主イエスは、「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(マルコ10:14〜15)と言い、幼子の頭に手を按いて祝福されました。主イエスがそのようにして祝福されたのは、ただ子どもが可愛いからという理由ではありません。幼子のあるがままの姿こそ、まことに神の国にふさわしいとして祝福されました。全ての人はかくあるべしという見本として幼子を選び、抱き上げられたのであります。

 人は言うでしょう。「天使のような吾が子も時に悪魔の化身かと思えることがある。わがままで、無作法で、所かまわず大きな声で走りまわるかと思えば、泣き叫び、礼儀をわきまえないし、行儀も悪い。本当にわが子は神の国にふさわしいといえるのか」と。確かに子どもにはそのような一面があります。しかし、親御さんに申し上げたい。世の大人たちに申し上げたい。誰が子どもをそうしてしまったのでしょうか。親御さん自身ではないでしょうか。わたしたち大人ではないでしょうか。ある人が言いました。「子どもというものは親や大人が与える100の立派な教えの言葉には耳を貸さないが、親や大人が路上で唾を吐き、タバコを吸っては吸殻をポイ捨てする。また酒の勢いで失態を繰り返し、世間の悪口を言い、赤信号にもかかわらず交差点を渡り、我先にと人を押しのけて乗り物に乗る、子どもたちはそういう親や大人達の背中を見逃さず、見事に教育されるものだ」と。

 主イエスはここで子どもに対して大人に学べと言わず、むしろ大人に対して子どもに学べと言っておられるのです。そこで今日与えられたイザヤ書44:24のみ言葉に戻りましょう。このみ言葉には実に豊かな味わいがあります。聖書の神はどういう神か。それはわたしたちの造り主であり、わたしたちを丸ごと受け入れてその罪を贖(あがな)いとってくださる、そういう神だというのです。わたしたちは完成した大人ではないという事実を忘れてはなりません。吾が子を躾(しつけ)ようとする前に、先ず神の愛に感謝する者でなければなりません。ご承知の通り神の国とは神の支配する世界のことです。すなわち子どもたちは親の所有物ではなく、全ては神のものだということです。わたしたち主イエス・キリストの教会に属する者は親であろうがなかろうが、目の前にいる子どもたち一人ひとりの心を神の愛の懐(ふところ)にお返しする責任があります。子どもたちを躾けるとは一にも二にも神を畏(おそ)れる思いを抱かせるということです。それにはわたしたちが先ず神を畏れる思いを忘れないことです。罪赦(ゆる)された者という確信と謙りと感謝なしに子どもたちの前に出ることはできないのです。贖われた者という自覚なしに子どもたちの罪と咎(とが)を正すことはできません。先ず、子どもたちの中に神のみ国を見ないなら、わたしたちは言葉だけの親、言葉だけの教師、言葉だけの矛盾した大人になってしまうのです。

 第二に、聖書は「全ての人は、神の赦しのもとに母の胎内で形づくられ、生まれ出た者である」と言います。これは世の親達に与えられたメッセージです。もう一度主イエスが幼子を抱き上げて祝福された出来事(マルコ10:13〜16)に思いを寄せましょう。あの時弟子たちは、主イエスに触っていただきたいと願って幼子を御許に連れてきた親達を叱りました。弟子たちが叱ったタイミングを考えますと、理解できます。何しろ子どもというものはじっとしていられません。そのあたりをチョコチョコと動き回るのではないか。そのうちにお喋りが始まるのではないか。人目はばからず泣いたり笑ったり、あるいは奇声を発するのではないか。そんなことにでもなれば、耳の遠いお年よりや、折角のメッセージを落ち着いて聴きたいと願っているに人たちに迷惑がかかる。そんなことを思うと子どもたちの存在は弟子たちには目障りだったのでしょう。それで子どもたちを追い払おうとしたのです。どこの教会にもよく見かける光景です。またどうすればよいか悩むところです。しかし神は預言者イザヤを通して語られます。「わたしは主。万物の造り主。自ら天を延べ、独り地を踏み広げた。」と。

 わたしは麺類が好きです。中でもうどんが一番好きです。そのわたしが数年間四国で過ごすことができたのは本当に恵みでした。香川県は四国一うどんのお店の多い県だと聞いています。食堂は勿論、ちょっとした和風レストランでもメイン メニューは「うどん」です。信じて貰えないかもしれませんが、喫茶店でさえうどんを注文すると食べさせて貰えるのです。何しろうどんは別腹というような人々の住むところです。しかも、90%以上の店は目の前で作ってくれます。麺を打つ職人さんの動きはまるでこのイザヤ書に書かれている天地創造の神の描写そのものです。天を延べ、地を踏み広げるように練り粉が見事に形作られてゆきます。その手の動きはまるでわが子をいとおしみながら世話しているかのようです。神はそのようにこの世を整えてわたしたちを慈しみ造り上げて下さる、このみ言葉にはそのような意味があるのです。

 しかし今日悲しいことですが、学校でも家庭でも子どもたちが荒れています。クラスメイトを集団で襲ったり、親に刃物を突きつけたり、ホームレスの人たちの生活を脅かし、命を奪ったりしています。小学生も中学生も40分、45分の授業をじっと座って受けることができません。社会はこうした状況を悲しみ、何とか手を打たなければと知恵を絞りながらも現実にはどうすることもできずにいます。子どもたちを救う道は校則を見直し、刑法や教育基本法の手直しをする小手先のことから見出すことはできません。はっきり言ってこの問題に解決を与える場は教会をおいて他にないのです。神を畏れる心を養うことと君は神に造られた者だよと知らせること以外に子どもたちを救う道はありません。しかし教会の門をくぐる子どもたちの数はあまりにも少ないです。教会では閑古鳥が鳴いていますが、熟や習い事、またクラブ活動やゲームセンターは盛況です。それが悪いというのではありません。しかし、サタンが見事に子どもたちを教会から外の世界に誘い込んでいることは事実です。子どもたちをサタンの手から神の御許(みもと)に取り戻すことを先延ばしにしてはいられません。会堂建築がなった暁には幼子を先ず教会に導くことを教会に与えられた大きなテーマにして、教会ぐるみで取り組まなければならないのではないでしょうか。主のみ声が今朝もわたしたちの耳に響きます。

 「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」   祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 わたしたちは今朝、幼子の上にあなたの祝福が豊かに注がれますようにと祈りました。この祈りはただ教会の門をくぐる少数の者のための祈りではありません。 あなたに造られた全ての幼子、その心の奥深くでSOSを発している子どもたちの救いのための祈りでもありました。サタンはこの世の神として君臨しています。 ありとあらゆる手段を用いてあなたの愛と救いの道から彼らを引き離そうと知恵を惜しみません。しかし、わたしたちには全知全能の主、あなたがおれらます。 わたしたちはあなたの作品だからです。主よ、どうか子どもたちの魂をお救いください。そのために教会は何をすべきでしょうか。どうか上からの知恵、聖霊による清い愛と熱心をわたしたちにお与えください。

私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン。

 


福音メッセージ一覧

集会案内

質問・メール

キリスト教イロハ

聖書を読む