メッセージ 高橋淑郎牧師
ユダの国を取り巻く状況が、日一日と緊張の度を増すとき、砦というとりでに歩哨が立ち、いつ敵が攻め寄せてきても良いように見張りを怠りません。そうした中、ハバククもまた、「歩哨の部署につき 砦の上に立って」国家の行方を見張っています。しかし彼の目と耳は敵国の動きや、この世の権力者に対して向けられてはいません。「神がわたしに何を語り、わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。」と、耳を傾け、瞳を凝らしているのです。すると、確かに主からの幻を与えられました。しかも、主なる神は彼に、「これを走りながらも読めるように 板の上にはっきりと記せ。」と命令しました。誰が走るのでしょう。何のために走りながらこれを読まなければならないのでしょう。
今ハバククは主なる神からその伝達人として選ばれました。神の大切なご計画を走りながら聞かせる為に、まず板の上に書くようにと命じられたのです。「走りながら」というところに、事柄の重大さを見る思いがします。なぜなら走りながら神のメッセージを告げるということには二つの意味があるからです。一つはできるだけ早く知らせるという神のときの緊急性が見えます。もう一つは限られた時間にできるだけ多くの人々、広い範囲の人々に告げなければという使命感が伝わってきます。
その内容とは、「神が定められた終わりの時が迫っている。それは必ず来る。だからその日に備えて待っておれ。その日には高慢な者、心正しからぬ者は不幸だが、神に従う者は信仰によって生きる」というものでした。わたしたちは終末と聞くと、何か恐ろしいことが待っているのではと不安になりますが、ハバククは神がお定めになった終末の幻が与えられた時、不安になるどころか、むしろその日を待ち望む者とされているのです。なぜなら、神の名による終末とは、「義人はその信仰によって生きる」という約束が伴っていることを悟ったからです。ハバククが聞き取った神から来る終末論には救いの希望があります。この幻の深い意味は、多分ハバククには直接知らされなかったかもしれません。しかしこれを新約聖書の光に照らして読む時、救い主イエスのご降誕に外なりません。罪深い私たち人間に信仰を与え、神に従う者へと造り変える力は神がこの世にプレゼントとして賜った独り子からくるのです。
メッセージ 高橋淑郎牧師
新会堂の竣工も間近です。思えばこれまでどれだけ多くの歴代牧師や信徒たちもこの日を待ち望んでいたことでしょうか。こうした方々の信仰に基づく祈りとささげものを引き継いで、わたしたちは今年会堂建築着工に踏み切りました。今からは、神さまがこの会堂をどのように用いてくださるのか、主がこの教会に抱いておられる計画が何なのか、そのビジョンをしっかりと聴きながら、宣教と教会形成に邁進して行かなければなりません。今朝頂いたハバククの預言から共に聴いてまいりましょう。
ハバクク書の著者ハバククという名前は「はっか」という意味です。はっかはマタイ23:23に見られるように、ファリサイ派の人々が什一の供え物として献げた芳香植物です。このように昔からユダヤ人の間で尊ばれていました。
ハバククの両親は息子にこの名を命名しました。あるいはそこに両親の信仰を見ることができると言えるでしょうか。息子であるハバクク本人の半生についてわたしたちは何も知ることはできませんが、唯一つわかっていることは、彼は父親からもらった名前を汚すことなく、その名の通り、「香りよき供え物」として什一どころか、自分自身を丸ごと主にささげ、預言者として仕えています。
彼が活躍した時代を少し見ることにしましょう。既に北イスラエルは滅び、残る南ユダもアッシリアの脅迫に苦しんでいましたが、そのアッシリアを凌ぐバビロンが新しい脅威となっている今、国は右に左に翻弄されています。外交問題が複雑に絡み合うとき、当然民衆は自分達の運命に不安を覚えますが、権力者にとってそれは好機です。国民の目を国の外に向けさせることで、自分に対する不満をそらすことができます。愛国心を駆り立てることで、よりいっそう自分の地位を確かなものにすることができると考えるのです。明日を担う子どもたちは国のために死ぬことだけを考える人間へと教育されてゆきます。こうして次第に国内には権力者にすり寄る日和見主義が増え始めます。
かつてわたしたちの国がそうでした。昭和初期の2.26事件を機に軍部が政治の実権を握ると、国はこぞって戦争へと傾斜を深め、国策に反対する者を国賊、お上に仇なすスパイと決め付けて粛清し、思想弾圧、言論統制、集会の禁止を至上命令としました。 国民は何も知らされることなく、ただ天皇の為に死ぬことだけを半ば強制され、1945年8月15日の敗戦を迎えるに至りました。
ユダの国を取り巻く状況が、日一日と緊張の度を増すとき、砦というとりでに歩哨が立ち、いつ敵が攻め寄せてきても良いように見張りを怠りません。そうした中、ハバククもまた、「歩哨の部署につき 砦の上に立って」国家の行方を見張っています。しかし彼の目と耳は敵国の動きに対して、また勿論この世の権力者に対しても向けられてはいません。「神がわたしに何を語り、わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。」と、耳を傾け、瞳を凝らしているのです。すると、確かに主からの幻を与えられました。しかも、主なる神は彼に、「これを走りながらも読めるように 板の上にはっきりと記せ。」と命令しました。誰が走るのでしょう。何のために走りながらこれを読まなければならないのでしょう。日本にも昔、お上の意向を庶民に告げる手段として町々、村々の角ごとに高札というものを立てたました。ほとんどの人は字が読めませんから、何と書いてあるかわかりません。しかし、町の長屋にはある程度教育を受けた大家さん、また村の小作人のためにも庄屋さんがいて、高札に書いてあることを読み聞かせてくれます。あるいは幕府ご用達の瓦版屋に手刷りしたものを配り歩かせたと江戸風土記などには記録されています。イスラエルにも宮廷から一般庶民に伝達する手段として町々村々を走りながら大声で触れ回る下級役人がいました。今ハバククは主なる神からその伝達人として選ばれました。神の大切なご計画を走りながら聞かせることができるために、まず板の上に書くようにと命じられたのです。「走りながら」というところに、事柄の重大さを見る思いがします。なぜなら走りながら神のメッセージを告げるということには二つの意味があるからです。一つはできるだけ早く知らせるという神のときの緊急性が見えます。もう一つは限られた時間にできるだけ多くの人々、広い範囲の人々に告げなければという使命感が伝わってきます。
その内容とは、「神が定められた終わりの時が迫っている。それは必ず来る。だからその日に備えて待っておれ。その日には高慢な者、心正しからぬ者は不幸だが、神に従う者は信仰によって生きる」というものでした。わたしたちは終末と聞くと、何か恐ろしいことが待っているのではと不安になりますが、ハバククにとって神がお定めになった終末の幻が与えられたとき、不安になるどころか、むしろその日を待ち望む者とされているのです。なぜなら、神の名による終末とは、「義人はその信仰によって生きる」という約束が伴っていることを悟ったからです。自分の立場や名誉を守るために国と国が相争うことのおろかさ、高慢の罪を指摘した神のメッセージを板の上に書き記し、王に、貴族に、役人に、兵士に、そして全ての人々にハバククは走りながらこれを読み聞かせたのです。それだけではありません。彼は神にある希望を伝えることも忘れませんでした。ハバククが聞き取った神から来る終末論には救いの希望があるのです。この幻の深い意味は、多分ハバククには直接知らされなかったかもしれません。しかしこれを、新約聖書の光に照らして読むとき、ハバククが命をかけて告げたこの幻、この福音こそ救い主イエスのご降誕にほかなりません。罪深いわたしたち人間に信仰を与え、神に従う者へと造り変える力は神がこの世にプレゼントとして賜った独り子からくるのです。
現代社会もハバククの時代と大差ありません。平和憲法を頂くわたしたちの国も次第に戦争好きの国と変わりない姿に、またわたしたち日本国自身がかつて歩いた道に立ち戻ろうとしています。このような時代だからこそ、わたしたちは今朝示された主からの幻を心の板に書きとめて、少しでも早く、そして一人でも多くの人々に伝えるために、走るような思いで主のご降誕の意味を触れ回るものでなければならないのではないでしょうか。21日のクリスマス主日礼拝の席に、そしてコンサートの席に、人々をお招きして、神に従う者が一人でも多く起こされるように祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を心から崇め、讃美します。
今朝、わたしたちは溢れる感謝をもって、あなたに礼拝をささげています。そしてあなたがこの教会に抱いてくださっているご計画が何であるかを窺う機会を得ました。ハバククの献身に倣い、はっかのように香り良きささげものとして、先ずわたしたち一人びとりを、あなたにお献げします。混沌とした時代ですが、ハバククの眼差しに倣って、わたしたちの目はいつも、あなたにこそ注がれていることを告白します。またハバククの奉仕に倣って、クリスマスの喜びを、あなたがこの世を愛して賜った独り子イエス・キリストによって開かれた救いの門と、それに続く道をわたしたちの心の板に書き記して急ぎ、そしてより多くの人にこの喜びを伝えたいと願っています。この教会を、わたしたちをお用い下さい。
私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン。