メッセージ 高橋淑郎牧師
「皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」という書き出しでクリスマスの物語が始まります。ガリラヤのナザレに住むマリアと許婚のヨセフもまた登録をするためにユダヤのベツレヘムに赴き、その旅先で幼子を生みました。
当時ベツレヘムに住む人の数は千人にも満たなかったそうです。 わたしたちの救い主は皇帝の住むローマでも、 領主ヘロデの住むユダヤの首都エルサレムでもなく、 また何かのことで有名な町でも、 経済活動が盛んな町でもなく、 ベツレヘムにお生まれになりました。 ベツレヘムはそこに住む人のほか忘れられたような町でした。 そんな小さな、 小さな町に救い主はお生まれになりました。 しかしその日以来この町の名は世界中の人に覚えられ、 親しまれるようになりました。これは大いなる福音、全ての人を幸せに導くよい知らせです。
わたしたちの救い主は、 人々から棄てられ、 忘れられたと思われている人の中にこそ、またその人自身もわたしなど生きていてはいけない人間だと卑下している人の中にこそ、宿って下さるのです。神がその独り子イエス・キリストをこの世に与えるためにベツレヘムを選ばれたのは、 そのような理由からではなかったでしょうか。あなたが今、 イエス・キリストを尋ね求めるなら、神もまた喜んで今、あなたの心に救い主を宿して下さいます。 いいえ、 本当は「今夜あなたのところに泊めてほしい」と、あなたは心の戸をノックして下さっているのです。あなたが今、その声に耳を傾けて、 イエス・キリストをその心の内に迎え入れるなら、あなたはもはや孤独な人生ではなくなるのです。
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メッセージ 高橋淑郎牧師
クリスマスおめでとうございます
今朝は、クリスマスがもたらした3つの喜びを皆さんと共に分かち合いたいと思います。
1.神さまは御子イエスさま誕生の地としてベツレヘムを選ばれました
「皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、 登録をせよとの勅令が出た」という書き出しでクリスマスの物語が始まります。 アウグストゥスとは、「尊敬に値する者」という意味で、彼の死後元老院から送られた称号です。 本名は1世紀にわたる内乱を平定した、 初代のローマ皇帝、 「オクタビアヌス」のことです。 権力者が住民登録を命ずる目的は、勿論帝国の財政を支える税収を確実なものにする為であります。 しかしその本音は皇帝としての力を世界に示すことにあったというべきかもしれません。 民衆はいつもこうした権力者の気まぐれに振り回されて生活を乱されるのです。 ガリラヤのナザレに住むマリアと許婚のヨセフも登録をするためにユダヤのベツレヘムに赴き、その旅先で幼子を生みました。 先ほど招詞で読んだミカ書5章の預言がこのとき成就しました。 預言者ミカの時代、 ユダヤの国は異国に圧迫されて苦難を強いられていました。 あれから約700年、この国は相変らず苦難の中にありましたが、 ついに預言は成就して、救い主イエス・キリストは降誕されました。救い主はこの世の王のようにではなく、家畜小屋にお生まれになりました。「武力によらず、権力によらず、ただわが霊による」(ゼカリヤ書4:6)と言われた神のみ言葉通り、 素晴らしい出来事が起こりました。 当時ベツレヘム(「パンの家」という意味)に住む人の数は千人にも満たなかったそうです。 大昔、イスラエルの名君ダビデはこの町の出身で、ヨセフはその末裔ですが、今ではこの町はさびれ、ダビデの子孫も落ちぶれて、 すっかり忘れ去られていました。 救い主は皇帝の住むローマでも、 領主ヘロデの住むユダヤの首都エルサレムでもなく、 また何かのことで有名な町でも、 経済活動が盛んな町でもなく、ベツレヘムにお生まれになりました。 ベツレヘムはそこに住む人の外忘れられたような町でした。そんな小さな、小さな町に救い主は降誕されました。しかし、その日以来、この町の名は世界中の人に覚えられ、親しまれるようになりました。 これは大いなる福音、全ての人を幸せに導くよい知らせです。
実のところわたしたちこそ、 そのベツレヘムなのです。 わたしたちの救い主は、人々から棄てられ、忘れられたと思われている人の中に、 またその人自身、「わたしなど生きる価値もない人間だ」と卑下している者の中にこそ、宿って下さるのです。神がその独り子イエス・キリストをこの世に与えるためにベツレヘムを選ばれたのは、そのような理由からではなかったでしょうか。 あなたが今、イエス・キリストを尋ね求めるなら、神は喜んであなたの心に救い主を宿してくださいます。 いいえ、本当は「今夜あなたの所に泊めてほしいと、あなたの心の戸をノックして下さっているのです。 あなたが今、その声に耳を傾けてイエス ・ キリストを心の内に迎え入れるなら、あなたはもはや孤独な人生ではなくなるのです。
2.神さまは忘れられ、無視されている人をクリスマスに招かれました
次に、ベツレヘムに導かれたのは羊飼いです。彼らは町外れの草原に野宿しながら羊の群れの番をしていました。 彼らは雇われ羊飼いでした。そうでなければ野宿などする必要はないのです。 雇い主から預かった羊を一定期間世話して、 ようやく僅かな賃金を受ける貧しい生活です。 生き物を世話するということは、 傍目に見るほど楽ではありません。 ユダヤ人は昔から神を畏れる敬虔な民族です。 羊飼い達も本当は礼拝に行き、神さまのみ言葉を聴きたかったのです。 しかし、安息日だからといって羊をおっぽり出して礼拝に行くわけにも行きません。すると当時のユダヤ人社会も、その指導者も、「何とふしだらな者よ」と非難して、社会的にも宗教的にも、彼らをユダヤ共同体から閉め出してしまいました。 このように世間から爪弾きされていた羊飼いですが、 神だけは彼らを見捨てず、 心にかけておられました。 神を慕い求め、 み言葉に渇いている彼らの 心を見ていて下さいました。神は天使たちを通して、この世にない光で彼らを包み、天の軍勢による美しい讃美の合唱と共に、「今日ダビデの町で、この方こそ主メシアである」と、救い主のお生まれを告げ知らせて下さいました。その光は、彼らの心の深みにまで届き、その大合唱は、彼らの魂の奥底にまで響いたことでしょう。 「ベツレヘムに行け」というご命令に、彼らは直ちに従ってベツレヘムの町に入り、幼子を探し当てました。すると、今度は彼ら自身の口で、「神をあがめ、讃美しながら帰って行き」ました。 これがクリスマス キャロリングの起源です。 それは彼らにとって生涯忘れられない聖いクリスマス、美しいクリスマスとなりました。
3.クリスマスは平和を実現させる神さまの愛のメシアです
天の軍勢は歌いました。 「いと高きところには栄光。 神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と。 神が、その独り子を世に遣わされたのは、この地上に平和が実現することです。 しかし、この世界は少しも平和ではありません。 国と国、人と人、また家庭の中にも争いが絶えません。誰もが自己中心になり、救い主をお迎えしようとしないからです。誰も彼もが自分の楽しみの為にクリスマスを祝いますが、その救い主を 、十字架へと追いやっています。しかし、 神に感謝しましょう。 神は十字架を天の御国に至る唯一の道として下さいました。 十字架はわたしたちの罪の証であり、 和解の印です。 神は十字架のイエス・キリストによって罪を贖いとり、 わたしたちに対する和解の道を開いて下さいました。天の軍勢は、「地には平和、御心にかなう人にあれ」と歌いました。 神のお心にかなう人とは誰でしょう。 自分の罪をすなおに認めて神に赦しを乞う人です。 クリスマス キャロリング、それは神さまの愛と赦しが現れたしるしの日です。今、神の方から差し伸べて下さっている赦しという「和解の御手」にすがり、 救い主を受け入れる時、わたしたちの心は平和で満たされるのです。 それだけではありません。暗く、 そして争いに満ちたこの世界の中にあって、 私たちが平和の担い手として神の和解の福音を宣べ伝える者となるのです。祈りましょう。
天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。
今朝、 わたしたちをクリスマスに招いてくださったことを、 心から感謝致します。 フルートの美しい演奏を聴き、 わたしたちの心はあなたがわたしたちをどれほど愛して下さっているかをしみじみ感じることができました。
また、聖書を通して、 イエスさまはベツレヘムのように忘れられた小さな存在であるわたしたちの心にも宿って下さることを知りました。天使のみ告げによって、 わたしたちがたとえ世間から落ちこぼれのように見なされても、 あなたはそのわたしたちを、 ベツレヘムヘムに降誕された救い主イエスさまの許へと導いて下さるお方であることを知りました。
天の軍勢の合唱によって、 たとえわたしたちが人と争い、 あなたに反抗して、主イエスを十字架にかけてしまう自己中心の罪びとであっても、あなたはわたしたちに語って言われます。 「十字架は、あなたのその罪を清め、救う為にあるのだ」ということを。感謝します。
ベツレヘムに降誕してくださった主よ、どうかわたしたちの、孤独で寂しい心、 冷え切った罪深い心のベツレヘムにこそ宿って下さい。 そして、 あなたが差し出して下さる和解の手にすがる者、 そして争いに満ちた世界に平和の福書を宣べ伝える者として下さい。
私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン。