【主日礼拝メッセ−ジ要約】                      2004年7月25日

「 御国に近い人」

マルコによる福音書12章28〜34節

高橋淑郎牧師

 

 皆さんはきっと、自分は自由人で奴隷などではないと考えていらっしゃるかもしれません。でも、本当にあなたは自由な人間だと思いますか。そう言い切ることができますか。お酒の奴隷になっていませんか。タバコの奴隷になっていませんか。賭け事や悪い遊びの奴隷になっていませんか。聖書ではこれを「罪の奴隷」と呼んでいます。あなたはまず、そのような奴隷の身分から救われる必要があります。でも、わたしたちは弱い者です。いくら自分で、もうこんなことをやめようと心に決めても誘惑の手が忍びよると、やはり負けてしまいます。だから自分で頑張ることをしないで、神さまに助けていただく必要があるのです。「わたしは主、あなたの神、あなたを奴隷の家から導き出した神である」と神は言われます。わたしたちにはできないことも神ならおできになります。神があのイスラエルの人々を救って下さったように、今もわたしたちを罪の奴隷から救ってくださいます。

 考えてみてください、わたしたち人間は立派な人、正しい人、心の清い人を愛することはできても、悪に染まりきっている人、罪の奴隷になっている人を愛することができるでしょうか。しかし、神は誘惑に負けやすく、罪に汚れたわたしたちを愛してくださいました。罪の奴隷から救い、自由に正しいことができる者として造り変えるために、その独り子イエス・キリストをこの世にお遣わしになりました。神は罪深いわたしたちを罰することができるのに、わたしたちに代わってイエス・キリストを十字架につけて、わたしたちのために罪の代償としてくださったのです。ここに愛があります。この律法学者もそれが分かったからイエスの許に来て、聖書の中で一番大切な戒めを学んだときに言いました。「目に見えるところでどんなに立派な犠牲を払うよりも、真心をもって神を愛することと隣人を愛することこそ大切なのですね」と。この答えを聞いたイエスはこの人をほめて、「あなたは神の国から遠くない」と、救いの門を開いてくださいました。神の愛を知って、人は初めて神を愛することを知るのです。

 
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【主日礼拝メッセ−ジ】                       2004年7月25日

「 御国に近い人」

マルコによる福音書12章28〜34節

高橋淑郎牧師

 

 だれでも初めて聖書を手にした人は、「この分厚い聖書には、いったい何が書かれているのかしら」と期待することでしょう。そして読み始めたものの、読んでも、読んでも、さっぱり内容が掴めないということがあります。内容が分からないと読むスピードも格段に落ちてゆきます。やがて自分で読むより、聖書に詳しそうな人を見つけて、その人に聞くほうが早道と考えるのです。

 一人の律法学者が主イエスの許に来て。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」と尋ねました。あらゆる掟というのは、この場合、聖書の中でという意味です。この人もわたしと似たような動機からイエスの御許に来たのでしょうか。この人は律法学者です。旧約聖書全巻を数限りなく読み返し、一字一句を専門的に学び、安息日と呼ばれる土曜日には、会堂に集まってくる礼拝者にそれを解き明かすことのできる人です。聖書について知らないことはないと自他共に認める学者なのです。それほどの人でも分からないことがありました。それは、この分厚い聖書をひとことで言い表すことの難しさです。聖書全巻を通して一番大切な戒めとは何かということです。よくぞ尋ねてくれました。もしイエスと律法学者のこの対話がなかったら、そして福音書の著者がこの対話を記録してくれていなかったら、わたしたちは39巻の旧約聖書を読み返し、読み返ししながら、自分で考えなければならないところでした。

 イエスはこの質問に答えて旧約聖書の中にある二つの箇所から引用して教えて下さいました。一つは、「聞け、イスラエルよ、我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:4〜5、p.291)であり、もう一つは、「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように、隣人を愛しなさい。」(レビ記19:18。 p.192)です。イエスのお答えによると、聖書の中で一番大切な戒めとは、神と隣人を愛することなのです。一般に「黄金律」と言われるものがこれです。イエスは申命記6:4〜5を第一の戒め、レビ記19:18を第二の戒めと言われました。しかし、この第一と第二は優先順位としての数字ではありません。この二つの戒めはどちらが欠けても成り立たないのです。二つ合わさって初めて第一の戒めとなるのです。例えば十誡(出エジプト記20:3〜17、p.126)をご覧下さい。折角ですからご一緒に読んで見ましょう。ご覧のとおり、最初の4つ(3〜8節)は、「神を愛しなさい」という戒めです。そして後半の6つ(9〜17節)は、「隣人を愛しなさい」という戒めです。

 今日は「三鷹ひまわり共同作業所」から数名の方々がおいでになって一緒に礼拝を捧げています。皆さんにもぜひ、この神を愛することと人を愛することの大切さを知っていただきたいと思います。では、どうすれば神を愛し、人を愛することができるのでしょうか。もう一度旧約聖書の出エジプト記20章(p.126)の、特に2節に注目してください。

 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」とあります。

 世界で最初に十誡を授けられたのはイスラエルの人々でした。この人たちは、その少し前までエジプトという大きな国で奴隷として苦しめられていました。鎖につながれ、朝から晩までムチ打たれながら、つらい仕事をさせられていました。ところが神さまは不思議な方法でこのイスラエル人を救ってくださいました。鎖は解かれ、自由にされました。これからは先祖が住んでいたカナン地方に帰ることができるのです。イスラエルの人々は自分たちをエジプトの奴隷から救ってくださった神の愛を決して忘れないために、自分たちも心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、神を愛すること、同時に自分さえ幸せであればよいという間違った考えを捨てて、お互いに愛し合うことができるようにと与えられたのがこの十の戒めです。イスラエル人はこの十誡を心に留めただけでなく、十誡が与えられたわけを決して忘れませんでした。忘れないだけでなく、ほかの国の人々にもこの神の愛を知らせるために、聖書として書き残してくれました。

 皆さんはきっと、自分は大昔のイスラエル人のように奴隷ではないと考えていらっしゃるかもしれません。でも、本当にあなたは自由な人間だと思いますか。そう言い切ることができますか。お酒の奴隷になっていませんか。タバコの奴隷になっていませんか。賭け事や悪い遊びの奴隷になっていませんか。聖書ではこれを「罪の奴隷」と呼んでいます。あなたはまず、そのような奴隷の身分から救われる必要があります。でも、わたしたちは弱い者です。いくら自分で、もうこんなことをやめようと心に決めても誘惑の手が忍びよると、やはり負けてしまいます。だから自分で頑張ることをしないで、神さまに助けていただく必要があるのです。「わたしは主、あなたの神、あなたを奴隷の家から導き出した神である」と神は言われます。わたしたちにはできないことも神ならおできになります。神はあのイスラエルの人々を救って下さったように、今もわたしたちを罪の奴隷から救ってくださいます。考えてみてください、わたしたち人間は立派な人、正しい人、心のきれいな人を愛することはできても、悪に染まりきっている人、罪の奴隷になっている人を愛することができるでしょうか。しかし、神は誘惑に負けやすく、罪に汚れたわたしたちを愛してくださいました。罪の奴隷から救い、自由な人間として、正しいことができる者として造り変えるために、その独り子イエス・キリストをこの世にお遣わしになりました。神は罪深いわたしたちを罰することができるのに、わたしたちに代わってイエス・キリストを十字架につけて、わたしたちのために罪の代償としてくださったのです。ここに愛があります。この律法学者もそれが分かったからイエスの許に来て、聖書の中で一番大切な戒めを学んだときに言いました。「目に見えるところでどんなに立派な犠牲を払うよりも、真心をもって神を愛することと隣人を愛することこそ大切なのですね」と。この答えを聞いたイエスはこの人をほめて、「あなたは神の国から遠くない」と、救いの門を開いてくださいました。神の愛を知って、人は初めて神を愛することを知るのです。御国に近い人がいます。神の愛を知っている人です。幸いな人です。しかし、もっと幸いな人がいます。神の愛を知るだけでなく、この方を唯一の神、わたしたちを本当に自由な人間として一切の罪から救い出してくださった神を信じて愛する人です。神はこのような人を御国に迎え入れてくださるのです。御国に近い幸いな人とはだれでしょう。神の愛を知る人です。しかしもっと幸いな人がいます。神を愛する人です。

 

 イエスは自分を愛するように、隣人を愛しなさいとも教えて下さいました。「わたしは自分が好きになれない」という人がいます。本当にそうでしょうか。それはきっと本心ではないと思います。自分で自分のことが好きになれない人は、きっと誰からも愛されていないと思い込んでいるからではないでしょうか。

 昔、講演会で警視庁の少年係を長く勤めていたクリスチャン女性のお話を聞いたことがありました。初めから終わりまで感動の連続でしたが、最後に、「わたしは子どもたちの前に立ってお話をするとき、神を愛することと、隣人を愛することを教えるみ言葉を心に思いながら、いつもして貰うことがあります。一人に一枚ずつ画用紙を配って、この世で一番好きな人の顔、好きな人がいない人はこんな人に会いたいなと思う人を想像してその顔を描きなさいと言います。一時どんなに非行に走っていても、子どもたちは素直です。しばらく目を閉じて考え、やがて描き出します。絵の上手下手は別にして、どれもこれも素敵な顔が描き上がりました。わたしは子どもたちに言います。『皆さん、あなたがたが描いた顔をしっかり見てください。その顔こそあなた自身なのですよ。今、あなたはとっても良い顔をしています。素敵です。それが本来のあなたなのです。どうか、自分のことをもっともっと好きになって下さい。自分のことを好きになり、自分が大切な人間だと気付いたら、ほかの人も好きになれます。大切な人と思えるようになります。』」と言って、講演を閉じられました。

 新約聖書を一箇所お読みします。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(ヨハネの手紙一4:7〜12)   祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 今朝、わたしたちはあなたを愛することと隣人を愛することを学びました。わたしたちは罪の奴隷です。染み付いてしまった悪い習慣から自由になれません。しかし、かつてエジプトの奴隷からイスラエルの人々を解放してくださった神は、今、罪の奴隷となっているわたしたちをも救うために、あなたの独り子イエス・キリストをこの世にお遣わしになり、十字架の上に一切の罪も汚れも清めてわたしたちを救ってくださいました。あなたがこんなにもわたしたちのことを愛してくださっていることを、今日初めて知りました。心から感謝します。あなたは今朝、わたしたちを神の国の入り口に招いてくださいました。あなたは、あの律法学者に対して「あなたは、神の国から遠くない」と言われましたが、今、あなたを救い主と信じるなら、わたしたちはただ天国の入り口に立ち止まるだけでなく、中に入ることが許されるのです。わたしたちは、信じます。あなたこそわたしたちを愛してくださる神、唯一の救い主であることを。これからはあなたの愛の中に生きる者として下さい。そして、あなたの愛で隣人を愛することができるように導いてください。

主イエス・キリストのお名前によってお願いします。アーメン


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