【主日礼拝メッセ−ジ要約】                      2004年8月1日

「王の王」

マルコによる福音書12章35-37節

高橋淑郎牧師

 

 当時のキリストに対するイメージはダビデの子という見解で一致していました。イエスもそれを否定しません。但し、ユダヤ人がダビデの子という場合、それは少なくとも3つの意味を持っていました。@アブラハム、イサクの血を引く生粋のイスラエル人。A特に王の直系であること。B神から祝福と任命の油を注がれた者であることの3点です。その上でこの世にあって、ダビデ時代を凌ぐ強い王国の再来を期待していました。

 しかし、イエスは武力で人を屈服させるのでなく、愛と真理をもって人々の魂を支配する王としてこの世にこられたのです。ダビデの子イエスは人間としてマリアから生まれ、貧しい大工の子として育ち、世の人々に向かって神の国の福音を宣べ伝え、病の人、見えない人、聞こえない人、歩けない人を癒し、悪霊を追い出し、死人を生き返らせ、神の愛をもって救いの道、永遠の命の道を説き、10:45に言われているように徹底してこの世に仕える方でした。また、この世でどうしようもない悪人も悔い改めさえすれば救われるようにと十字架に死んで甦り、罪の贖いを成し遂げ、永遠の命への道を開いて下さいました。イエスは詩編110:1の意味を十字架の上で明らかにして下さったのですが、イエスの時代をさかのぼる1千年も昔、ダビデの目には十字架上のイエスの栄光の姿が既に見えていたのです。それゆえにダビデはこの方を「主」と呼んでいるのです。

 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピの信徒への手紙2:6〜11)

 
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【主日礼拝メッセ−ジ】                       2004年8月1日

「王の王」

マルコによる福音書12章35-37節

高橋淑郎牧師

 

 アウグストゥスが初代ローマ皇帝の座についたとき、市民は彼の誕生日を「福音の日」として盛大に祝ったそうです。イエス・キリストは皇帝アウグストゥスがまさに地中海世界を治めていた全盛期に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになりました。マルコはこの福音書をローマ人のために書いたと言われていますが、当時誰もが皇帝を神のようにあがめていた時代です。しかし、マルコはこともあろうに、帝国の首都ローマ市内に生まれたばかりのキリストの教会に対して、「神の子イエス・キリストの福音の初め」(1:1)と書き始めているのです。とても勇気のある人とは思いませんか。このことを前提に、今朝わたしたちに示された神さまからのメッセージに耳を傾けたいと思います。

 イエス・キリストは今、神殿の境内におられます。イエスを捕らえようとする敵の包囲網が徐々に狭まっている緊張した中、群集に向かって「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。」と問いかけます。メシアとはギリシャ語でキリスト、つまり王という意味です。祭司も律法学者も、サドカイ派もファリサイ派も、長老も全国民がそれぞれの思いでユダヤの国にメシア、キリストがおいでになることを信じ、待ち望んでいました。その時イエスは詩編110:1を引用して、「この預言は既に成就した。もう待つ必要はない。あなたたちの目の前にあなたたちの待ち望んでいるキリストがいる」と宣言なさったのです。このみ言葉を群衆は喜びを持って聞いた、と37節は言います。紀元前1千年、ダビデはイスラエルの歴史上最大の領土を持つ王国を建て上げました。あれから1千年、ダビデの預言はこのイエスにおいて実現する。今こそローマを駆逐する偉大な王が登場した、と群衆は喜んだのです。

 当時律法学者のキリストに対するイメージはダビデの子という見解で一致していました。イエスもそれを否定しません。但し、ユダヤ人がダビデの子キリストという場合、それは少なくとも3つの意味を持っていました。@アブラハム、イサクの血を引く生粋のイスラエル人であること。A特に王の直系であること。B神から祝福と任命の油を注がれた者であることの3点です。その上でこの世にあって、ダビデ時代を凌ぐ強い王国の再来を期待していました。

 しかし、イエスはそのような意味でご自分のことを言われたのではありません。脅迫と武力で人を屈服させる王ではなく、愛と真理をもって人々の魂を支配する神のみ国の王としてこの世にこられたのです。ダビデの子イエスは肉の体を持つ一人の人間として、乙女マリアを通して聖霊によって生まれ、貧しい大工の子として育ち、世の人と同じように仕事を覚え、30歳まで家業を継ぎ、その後世に出て神の国の福音を宣べ伝え、病の人を癒し、目の見えない人を見えるようにし、聞こえない人を聞こえるようにし、歩けない人を歩けるようにし、悪霊を追い出し、死人を生き返らせ、神の愛をもって救いの道、永遠の命の道を説き、10:45に言われているように徹底してこの世に仕える方でした。そればかりか、この世でどうしようもない悪人も悔い改めさえすれば救われるようにと十字架に死んで甦り、罪の贖いの業を成し遂げ、永遠の命への道を開いてくださったのです。そのようにイエスは詩編110:1の意味を十字架の上で明らかにしてくださったのですが、イエスの時代をさかのぼる1千年も昔、ダビデの目には十字架上のイエスの栄光の姿が既に見えていたのです。それゆえにダビデはこの方を「主」と呼んでいるのです。使徒パウロもまたフィリピの教会にあてた手紙の中で、この方が真の王であることを次のように証言しています。

 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピの信徒への手紙2:6〜11)

 1978年3月10日、ある神学校の卒業式に出席しました。男女合わせて25名の兄弟姉妹が学び舎から巣立って伝道の第一線に遣わされて行く晴れの式典でした。レセプションでは一人一人の卒業生が在学時代の感想、あるいは今後の抱負などを一言ずつ語るよう促されました。どの人も短い時間でよく整えられた挨拶の言葉でしたが、特に最後の卒業生の挨拶は満堂の感動を呼ぶものでした。彼女は韓国からの留学生でした。卒業後韓国に帰って、更に特別な学びをした後、北朝鮮に潜入して伝道する予定だということでした。彼女はこうも言いました。「韓国にいる間は皆さんに消息をお伝えすることができますが、北に入ってしまうとお伝えする手立てはありません。わたしが韓国を抜け出し、北緯37度線を越えて北へ行くということは南の政府からも北の政府からもスパイ容疑がかけられることを覚悟しなければなりません。それでもわたしはイエス・キリストを知らない同胞を思うとき、あの人たちがそのまま神さまに裁かれ、永遠の滅びに堕ちて行ってほしくはありません。イエス・キリストがわたしのために十字架に死んでくださったように、わたしも北の同胞が救われるためならこの命を神さまと愛する者のために捧げることを惜しみません。どうかわたしのために祈ってください。危険に遭わないようにではなく、生かされている間に一人でも多くの人をイエス・キリストの救いにお導きできるように祈って下さい。」と涙ながらに訴えた後、挨拶の結びに朗々とした声で教団讃美歌331番を朗読されました。

 

1.主にのみ十字架を 負わせまつり、 我知らず顔に あるべきかは。

2.十字架を負いにし 聖徒たちの み国によろこぶ 幸やいかに。

3.わが身も勇みて 十字架を負い、 死にいたるまでも 仕えまつらん。

4.この世の禍(まが)幸(さち) いかにもあれ、 さかえのかむりは 十字架にあり。

 

 曽我さんご一家がようやく日本の土を踏むことができました。本当によかったと思います。それでも夫ジェンキンスさんの今後はなお予断を許しません。よい解決が与えられることを共に祈りたいと思います。

 幸なことに今では韓国の民主主義も定着し、北の政策も以前とは少し違って硬軟両用を感じさせるものがあります。しかし先ほどの姉妹の場合は今から30年近くも昔のことです。韓国の民主化もまだまだという時代でした。彼女自身仰っていたように、当時(今もその点では変わりないようですが)37度線を越えるということが何を意味するか誹を見るより明らかです。時々伝えられていた情報も数年後にはぴたっと途絶えてしまいました。彼女はどうなったのでしょうか。北へ入る前に韓国政府公安当局の手で捕らえられたのでしょうか。無事に北へ潜入できたとして、その後の身の安全は誰も期待できません。今なお健在であったとしたら50代後半のお年頃かと思われます。神学校関係者は少ない情報をもとに今でも彼女の消息を求めて祈り続けています。

 愛する兄弟姉妹。わたしたちはこの平和な国、自由と民主主義の国に住んでいます。でも、本当に自由な国、平和な社会と言えるのでしょうか。福音を語る自由をわたしたちは本当に得ているでしょうか。この礼拝を終えて会堂から再び社会に散らされて行くあなたの前に、この世はあなたの信仰を封じ込める力を持っています。だからこそ、徹底的にご自分を謙ることのできた主、しかも福音を福音として十字架に至るまで語り続ける真の自由さを失わなかったイエス・キリストに倣い、どうか、この方をあの個人的な主、王、神として従い続けてください。祈り続けてください。一人一人の兄弟姉妹がこの闘いを戦い続けることができるように教会は祈ります。祈るべきです。

 

 まじめな心で聖書を読み、神の愛に目覚めた人は皆、自分の内にどうしようもない罪の現実とその罪を清めて下さるイエス・キリストの救いの事実を認めるでしょう。そして教会に導かれ、「イエス・キリストは主です」と告白してバプテスマへと導かれるのです。キリスト者とされるのです。だが、キリスト者になるということは、完成した人間になったということではありません。むしろ、これからの人生を救い主イエス・キリストに導いて頂かなければならない者であることを認める人です。キリストを個人的な王として受け入れ、従い、これからの人生を自分のために、十字架に死んで甦って下さった方のために献げることを喜ぶ人です。あなたも今日から、この喜びを味わう一人になりたいと思いませんか。

 祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

今朝もわたしたちに与えてくださったみ言葉のゆえにありがたく感謝いたします。

わたしたちを愛して独り子をさえ賜り、十字架の上に罪を完全に拭い去って下さったばかりか、復活のキリストによってわたしたちに永遠の命を賜り、あなたのものとしてくださいました。今から後、どうぞこの仙川キリスト教会一同の心をなおも清めて王の王、主の主であるキリストに従順なもの、悪霊にのみふさわしい栄光の冠を捧げる者、この世に奉仕する者として用いてくださいますよう、主イエス・キリストのお名前によってお願いします。アーメン


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