【主日礼拝メッセ−ジ要約】                      2004年8月29日

「イエスは主なり」

使徒言行録7章54〜60節

篠原健治兄

 

 「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」(59節)「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(60節)とあるように、ステファノは、死ぬ最後の最後まで「イエスは主なり」と告白した初代教会最初の殉教者でした。

 ステファノとはどのような人物であったのか。「さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。」(使徒言行録6章8節)

 しかし、これが、ユダヤ教の人々から反発を買います。

 「ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる「解放された奴隷の会堂」に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、 ステファノと議論した。しかし、彼が知恵と“霊”とによって語るので、歯が立たなかった。」(使徒言行録6章9節-10節)

 そして、ユダヤ教の人々によって、一方的な裁判にかけられ、石打の刑で殉教します。

 ステファノに始まり、この後の使徒言行録8章からは、初代教会の迫害が始まります。

主の「教会の歴史」は、まさに「殉教の歴史」そのものです。日本では、キリシタン迫害が有名です。第二次世界大戦中、ナチスドイツに抵抗し、殉教したドイツ告白教会のボンフェッファー牧師−。21世紀の今でも、主の教会には迫害があります。

 ステファノにしても、日本のキリシタンにしても、ボンフェッファーにしても、地上で「人」として生きられた主イエスと直接出会ったわけではありません。ステファノは、主イエスについての話を12の弟子達から聞き、聖霊の助けを得て、教会で「イエスは主なり」と告白した人物です。教会で語られる御言葉を通して、主イエスと出会い、主イエスを信じ「イエスは主なり」と告白した私達と変わらないのです。ですから、ステファノや後の殉教者達を特殊な存在として、祭り上げるのは間違いだと言えます。

 ただ、もし唯一、違った点を上げるとしたら、ステファノも、信仰の先達者たちも、幼子のように純粋にひたすら主イエスを見上げて生きたのです。ひたすら主イエスを見上げていたからこそ、死の恐怖から解放され、眠りにつくことができたのです。それは、主イエスが「道であり、真理であり、命」だからです。私達は、今、ステファノと同じ視点に立ちたいと思います。そして次のように告白するのです。「イエスは主なり」−。

  
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【主日礼拝メッセ−ジ】                      2004年8月29日

「イエスは主なり」

使徒言行録7章54〜60節

篠原健治兄

 <序>

59:人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、
 「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。
60:それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と
 大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。
59:「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」
60:「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」

  とあるように、ステファノは、死ぬ最後の最後まで「イエスは主なり」と告白した初代教会最初の殉教者でした。

 

 私達が「イエスは主なり」と確信を持って告白しながら生きていくためには、どうすればいいのか。

 私達が「イエスは主なり」と確信を持って告白しながら生きていくためには、何を見つめていけばいいのか。

 聖書の御言葉は、私達に語ってくれているのです。

 

<承>

 さて、ステファノは、なぜユダヤ教の人々から殺されたのか。

その理由は、1つ前の章−使徒言行録6章に書かれています。

まずステファノが初めて登場する箇所が、使徒言行録6:1−6にあります。

 使徒言行録6:1−6

1:そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、
ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。
 それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。
2:そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。
「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。
3:それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を
 七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。
4:わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」
5:一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、
6:使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。

 

6:1:そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、

ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。

 当時、同じキリスト者でありながら、教会には、

「ギリシア語を話すユダヤ人」と「ヘブライ語を話すユダヤ人」とがいました。

「ギリシア語を話すユダヤ人」とは、外国で育ちエルサレムに帰ってきた人達のこと。

 同じキリスト者でありながら、言葉が違うことは、十分な意志疎通ができないということでもあります。

 しかし、それ以上に文化の違い、価値観の違いが両者の間に不協和音を招きます。

 具体的には、

「日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられる」という問題が起こりました。

現代の教会でも、いろいろな問題がありますが、初代教会の時代からあった−。

この箇所を読むと、「初代教会からそうだったのか」と思わされ、ホッとするのは、私だけでしょうか。

 

 では、初代教会のキリスト者は、どのように教会に起こった問題を解決していったのか。

 6章2節以降を見ていきましょう。

2:そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。

 「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。

 12使徒達は、問題を直視し、素直に会衆に伝えていきました。

 そして、2つの重要な原則を打ち出しました。それは、

(1)霊的な奉仕はすべてに優先する。

(2)物質的な奉仕も尊い。(ここでは、食事の世話)

3:それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。

 「食事のこと」に仕える7名を選んだわけですが、その基準は「霊と知恵に満ちた評判の良い人」であったとあります。

 その7名の中に、ステファノがいました。

5:一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノ(中略)を選んだ。

 

 次に、聖書は(1)「ステファノがどのような人物であったか」

   (2)「なぜ、ステファノが迫害を受けなければならなかったのか」

を克明に記しています。

 

(1)「ステファノがどのような人物であったか」

 同じく6章8節に書かれています。

8:さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。

 ステファノは、聖霊の力を受け、すばらしい不思議な業としるしを行っていた。

 

 しかし、そのことが、ユダヤ教の人々から反発を買います。

9節以降に(2)「なぜ、ステファノが迫害を受けなければならなかったのか」の理由が書かれています。

9:ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる「解放された奴隷の会堂」 に属する人々、 またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した。

そして、

10:しかし、彼が知恵と“霊”とによって語るので、歯が立たなかった。

ユダヤ教の人々は「ステファノはすばらしい賜物を持った人物だ」と素直に認めるどころか、嫉妬心を燃やします。

ですから、

11:そこで、彼らは人々を唆して、

「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」と言わせた。とあります。「唆し」「言わせる」−ユダヤ教の人々の狡さがよく現れています。

 

さらに、

12:また、民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。

13:そして、偽証人を立てて、次のように訴えさせた。「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。

14:わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。

 『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」

 

「唆し」「言わせる」、「襲って」「捕らえ」「最高法院に引いて行く」、「偽証人を立て」「訴えさせる」

−ユダヤ教の人々は、自分達は直接手を下さないで、ステファノを追いつめていきます。

 権力を持つものの、狡賢さをここに見る思いがします。

「唆し」「言わせる」、「襲って」「捕らえ」「最高法院に引いて行く」、「偽証人を立て」「訴えさせる」

−これからステファノに対して行われる裁判が、いかに不当であるかを逆に証明しています。

 しかし、ステファノはどうであったか。

15:最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、

 その顔はさながら天使の顔のように見えた。

 

 この後、7章1節以降ステファノの弁明の説教に多くのスペースがさかれています。

詳しい内容については、今回は見ていきませんが、ユダヤ教の人々とステファノとには、福音に対する理解の相違がありました。

 つまり、ステファノは、主イエスの十字架と復活の福音は、ユダヤ教世界だけでなく、全世界に宣べ伝えられるものであること。

 全世界に「イエスは主なり」という福音は、黙っていても神の力なる「聖霊」によって全世界に宣べ伝えられる。

 ステファノは、一貫して

 イエスこそ「救い主」であり、イエスこそ私達人類の「主」であると、最高法院の人々に、そして現代に生きる私達一人一人にも語っているのです。

 

 ステファノの言葉は、私達の心に強く響きます。

 7:51をご覧下さい。

51:かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、

 あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。

52:いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。

 

 そして、嫉妬に狂ったユダヤ教の人々は、ステファノに対してどうしたか。

7:54をご覧下さい。

54:人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。

55:ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、

56:「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。

57:人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、

58:都の外に引きずり出して石を投げ始めた。

 

 律法では、石打の刑は、姦淫を犯した者に対してなされる刑です。ステファノが姦淫の罪を犯していないことは明らかです。

そして、律法を守ることを何よりも優先してきた大祭司や最高法院の人々が、逆に律法無視、律法違反を犯している。

 律法や法律などそんなのどうだっていい!とにかく「ステファノが気に入らない」から抹殺してしまえ!自分に都合が悪い奴は、さっさといなくなれ!

−人間の「罪の醜さ」がここに凝縮され現れています。

 

 石に打たれながら、ステファノはどうしたか。

 59節−。

59:人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。

60:それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。

 

 何の言葉も出ません−。

神の力である聖霊を受けたステファノは、このように殉教していったのです。

 

<転>

 聖霊の力を受けたステファノは、一貫して「イエスは救い主」「イエスは主なり」と告白し続けた人でした。

 「イエスは主なり」−。

つまり、イエスは主人であり、自分はイエスの僕−。 

イエスが自分の罪の身代わりとなって死んで下さった。そして3ヶ日目に復活され、今も自分と共に生きていられ、共に罪との戦いに臨んで下さっている。

 すべてを御存じで、すべてを支配されている主イエス−。

 だから、イエスは自分にとって主である。

この「主なるイエス」に今後の人生を委ねて歩んでいく。

 「イエスは主なり」−。そう告白した人々、またその告白の備えをしている人々が集められている所が教会です。

 

 「イエスは主なり」と告白する教会は、残念ながらその告白を歪めた歴史があります。

 先日、59回目の終戦記念日を迎えたわけですが、あの戦争のただ中、日本の教会は「イエスは主なり」という告白を歪めてしまいました。

 「天皇とキリストとどちらが偉いのか」と当局に問われ、多くのキリスト者は妥協して 「キリストを賛美しながら、国体を保持する」という曖昧な宣言を出し、神に捧げたはずの献金の一部を戦闘機製造のために差し出したのです。「天皇とキリストとどちらが偉いのか」と当局に問われたホーリネス教団の教職者は、「イエスは主なり」と告白して、弾圧を受け、獄中で殉教していきました。

 世の中には、頭のいい人がいる者で、「天皇とキリストとどちらが偉いのか」と当局に問われた赤岩栄氏は、「畏れ多いことを聞くな!」と答え、迫害を逃れました。 しかし、戦後キリスト者であることを自ら辞めてしまいした。

 

 いや、あれは戦争という異常事態でのこと−。仕方ないこと。

「心の中でイエスは主なり」と思っていれば、たとえ「天皇陛下の方が偉い」と言っても、 神様は、愛の方だから何でも赦して下さるよ。

それでは、獄中で死んでいったホーリネスの人々はバカだったのでしょうか。

ホーリネスの人々は、うまく、立ち回れなかった、要領の悪い人々と、私達は言い切れるでしょうか。

 

 あれは戦争という異常事態でのこと−。

 「私は、今度あのようなことがあっても大丈夫」と言う人もいるかもしれません。

「有事関連法案」が成立しました。

有事の際、教会・寺院などの宗教施設は、国によって接収されることもあるのです。

教会の礼拝が妨害される、そのような状況になっても、私達は「イエスは主なり」と

勇気を持って告白し続けるでしょうか。正直言って、自信がありません。

 そこまで、大袈裟でなくても、「イエスは主なり」と私達は、責任を持って、この世の人々に対して告白しているでしょうか。

 「職場」で、ハッキリと「イエスは主なり」と私達は告白しているか。

 建築関係に従事する人は、神道儀式に参加しなければならないことが多いです。その時、「異教の神は拝まない」とキチンと「ノー」は「ノー」と言い切れるか。なんとなく、自分を誤魔化してはいないか。

 「学校」では、「家庭」では。特に、「親戚つきあい」においてはどうか。あるいは、「地域社会」ではどうか。

 

 また、何の制約が無くても、「今日は、なんとなく気分が乗らないから教会に行かない」という気持ちが起きたりはしないか。何の制約が無くても、「教会であの人に会いたくないから、教会には行かない」と考えたことはないだろうか。

 実は、私もバプテスマを受けたあと、そのような時期がありました。

 でも、皆さんよく、見てください。週報に「主日礼拝」とあります。今日は「主の日」であって「私の日」ではないのです!

仕事の関係上、どうしても日曜日の礼拝に参加できないことがあります。もちろん、私達は、日曜日に働いてくださる方がいるから教会に来ることができることも、忘れてはいけません。しかし、仕事でどうしても主の日の礼拝を守れないと分かった時、私達はそれほど悩まないで、意外とすんなりと簡単に礼拝を諦めてはいないか。

 「イエスは主なり」という告白に、どれだけのこだわりを持っているだろうか。私達は「イエスは主なり」と、どれだけ責任を持って告白しているでしょうか。

 「イエスが主である」ことを告白し、信じ続けるということは、「戦い」なのです。

 

<結>

 ステファノに始まり、この後の使徒言行録8章からは、初代教会の迫害が始まります。

主の「教会の歴史」は、まさに「殉教の歴史」そのものです。

 日本では、キリシタン迫害が有名です。

 第二次世界大戦中、ナチスドイツに抵抗し、殉教したドイツ告白教会のボンフェッファー牧師−。

 また、先ほどお話ししたホーリネスの殉教者たちもそうです。

 21世紀の今でも、主の教会には迫害があります。インドネシアでは、教会が爆破される。ミャンマーでも、宗教的自由は制限されている。

 私達が属するバプテスト教会の歴史もそうです。命を懸けて「イエスは主なり」と告白し続けた先達の血の上に教会は建っているのです。その延長上に、この仙川教会も立っているのです。

 

名前も顔も知らず命を懸け「イエスは主なり」と告白した数多くの信仰の先達者たち−。

その信仰の先達者たちが、ただ一点の方向に見つめていた「お方」がいます。

 そのお方とはどなたなのか。

そのお方とは−「主イエス」であります。

 

 ステファノは、石を投げつける人々は見ていませんでした。

55:ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、
 神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、
56:「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。

 ステファノは、復活し、神の右におられる主イエスしか見えなかったのです。

 主イエスが見える時、ステファノは死の恐怖から解放されているのです。

 

 ステファノにしても、日本のキリシタンにしても、ボンフェッファーにしても、ホーリネスの殉教者たちにしても、地上で人として生きられた主イエスと直接出会ったわけではありません。

ステファノは、主イエスについての伝承を12の弟子達から聞き、聖霊の助けを得て、教会で「イエスは主なり」と告白した人物です。

 ボンフェッファーにしても、ホーリネスの殉教者たちにしても、教会で語られる御言葉を通して主イエスと出会い、変えられ、聖霊の助けを得て「イエスは主なり」と告白した。

教会で語られる御言葉を通して、主イエスと出会い、主イエスを信じ「イエスは主なり」と告白する。何らここにいる私達と変わらないのです。ですから、ステファノや後の殉教者達が、私達と違って、何か特殊な存在として、祭り上げるのは間違いだと言えます。

 

 ただ、もし唯一、違った点を上げるとしたら、

 ステファノは、最後の最後までただひたすら主イエスを見上げて生きたのです。

 信仰の先達者たちは、幼子のように純粋にひたすら主イエスを見上げて生きたのです。

だから、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と自分を死に追いやる敵ですら、赦すことができるのです。

 ひたすら主イエスを見上げていたからこそ、死の恐怖から解放され、眠りにつくことができたのです。

 

 なぜか−。

 それは、主イエスが「道であり、真理であり、命」だからです。

−ひたすら主イエスを見上げる時、 主は私達に歩むべき「道」を示して下さるのです。

−ひたすら主イエスを見上げる時、 主は私達に「真理」を示して下さるのです。

−ひたすら主イエスを見上げる時、 主は私達に死をも乗り越える「永遠の命」を与えて くれるからなのです。

 

 どうして、主イエスを見ないで、「イエスは主なり」と告白できるのでしょうか。

 どうして、主イエスを見ないで、救いの確信を得ることができるでしょうか。

 どうして、主イエスを見ないで、隣人を愛することができるでしょうか。

 

−ひたすら主イエスを見上げる時、 私達に怖いものはないのです。

−ひたすら主イエスを見上げる時、 私達は平安を得るのです。

 そして、

−ひたすら、主を見上げる時、 ひたすら主を見上続ける時、

私達は、確信を持って「イエスは主なり」と告白できるのです。

 

 私達の視線は、今、どこに向けられているでしょうか。

 私達は、今、何を見ているでしょうか。

 私達は、今、だれを見ているでしょうか。

 

私達は、今一度、ステファノと同じ視点に立ちたいと思います。

55:ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、
 神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、
56:「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。
59:人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、
 「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。
60:それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と
 大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。

 主イエスを、見上げ、主イエスを見た私達は、次のように告白するのです。

「イエスは主なり」と−。

                          祈ります。

<祈り>

 天の父なる神様、私達は間違っておりました。

 「イエスは主なり」と告白しておきながら、主イエスを見ないで、ほかのものばかり

に気を取られ、あなたの御ひとり子主イエスを見ていませんでした。

 見るべきお方を見ないで、見なくてもいいものを見て、悩み苦しんできました。

 今、私達は、悔い改め、主イエスを見上げます。

 今、私達は主イエスと視線を合わせていきます。

 今、主イエスの視線と私達の目線が合う時、私達は確信を持って「イエスは主なり」と告白できます。

 主よ、私達の視線が、あなたからそれなように、私達の顔をしっかりと掴んでいて下さい。

そして、私達が確信を持って「イエスは主なり」と告白できるように導いて下さい。

 この祈りを、私達の「主」イエスキリストの御名を通して、御前に捧げます。

アーメン。


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