【主日礼拝メッセ−ジ要約】                     2004年9月19日

「人間をとる漁師」

 ルカによる福音書5章1〜11節

篠原健治兄

 

「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」

主イエスの、シモン・ペテロへの言葉です。

5:11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

 このように職業を捨て、家族を捨て、一切を捨てて、主イエスに従ったのです。それは、余りにも重大な内容です。聖書の御言葉は、その経緯をいとも簡単に記すのです。

ペテロという弟子は、不思議に魅力のある人物です。主イエスの一番弟子でありながら、繰り返し惨めな失敗を重ねるような弟子です。最後には自分の生命が惜しくなって逃亡したのです。「私はその人を知らない」と3度まで主を拒み、白を切ったのです。人間なら愛想を尽かすほどの失敗を繰り返すのが、福音書が語るペテロです。

この主イエスの語りかけの中で、一体何が起こったのでしょうか。主イエスは、ペテロに悔い改めをするように求めているわけでもないし、主イエスは、彼に信仰のあるなしを見て、弟子にするか否かを決めておられるのでもない。

 「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」

この主の招きの言葉は、新しい人間を創造する言葉でもあるのです。この時ペテロは、それまでに考えたこともなかった全く新しい使命を告げられるのです。ペテロが弟子の任に堪えられない根拠なら、いくつも数え上げることができたと思います。

 しかし、主は一切の資格を問わなかった。信仰すら問わなかった。主は何と言われたか。

 「私は、お前を必要としている。お前は今から人間をとる漁師になるのだ。お前は、私のために伝道者になるのだ。」ペテロは、主の促しに心を動かさざるを得なかったのです。

仙川教会では、地域の方々に、教会で語られた説教の内容をこのようなチラシという形で毎週配布しています。このチラシを受け取っても「自分は教会に行く資格などない」と考える人がいらっしゃるとしたら、このペテロを見て下さい。主イエスは、私達が何か優れているから弟子として招いたのではないのです。教会に来るのに資格はいりません。

 重要なのは、あなたが「教会に行ってみよう」という小さな気持ちが第一歩なのです。

  
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【主日礼拝メッセ−ジ】                     2004年9月19日

「人間をとる漁師」

 ルカによる福音書5章1〜11節

篠原健治兄

 

「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」

主イエスの、シモン・ペテロへの言葉です。

11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った

 私たちは、この聖書箇所を読み、不可解に思うのです。

 なぜなら、余りにも重大なことがいとも簡単なことのように書かれているからです。

 ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、彼らはガリラヤの漁師でした。

夜網を打ち、取れた魚を翌朝市場に持って行き売る。

 そういう平凡な生活をしていた人々です。

 特別な能力があったわけではないでしょう。

 体を張って生きていた肉体労働者です。命知らずの荒っぽい男たちなのです。

 その日の朝も、いつものように、夜明けの海辺で漁師の仕事をしていました。

 そこに主イエスが、やって来られたのです。

 そして、沖に漕ぎだし、予想もしなかった大漁が起こります。

 

8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、私から離れて下さい。私は罪深い者なのです」と言った。
9  とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。
10 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。
   すると、イエスはシモンに言われた。
   「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」
11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

 

 このように職業を捨て、家族を捨て、一切を捨てて、主イエスに従ったのです。

それは、余りにも重大な内容であります。

 しかし、聖書の御言葉は、その経緯をいとも簡単に記すのです。

 彼らが漁師で、身軽な男達だったからでしょうか。そうではないでしょう。

 漁師ではなく、取税所務めをしていた弟子の場合も全く同じなのであります。

 一人一人の背後に、様々な事情があったと思います。

  ひとたび語りだしたら、もはやせき止めることのできない複雑な背景があったかもしれません。

 弟子の一人一人がそうだったと思います。

 しかし、聖書はそのことを充分に知りつつ、あえて簡潔に記します。

 

11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

 ペテロは、なぜ、一切を捨てて主イエスに従ったのでしょうか。

 そもそも主の呼びかけの言葉によって、ペテロの中に何が引き起こされたのでしょうか。

ペテロという弟子は私達にとって不思議に魅力のある人物です。

 彼はパウロのような神学者ではなかった。

 またパウロのような大規模な外国伝道に取り組んだわけでもありません。

 主イエスの一番弟子でありながら、繰り返し惨めな失敗を重ねるような弟子であります。 そして、最後には自分の生命が惜しくなって逃亡したのです。

 それだけではありません。

 「私はその人を知らない」と3度まで主を拒み、白を切ったのです。

 人間なら愛想を尽かすほどの失敗を繰り返します。

 

 主イエスは、そのたびに、この一人のガリラヤの漁師を説得します。

 復活されたあとも主イエスは語りかけます。

 3度も主を拒んだ弟子に、今度は3度、「あなたは、私を愛するか」と主は呼びかけられるのです。

 ペテロのどこに長所があったからでしょうか。

 そうではないでしょう。

 確かなことは、主イエスが、この一人のガリラヤの漁師を捕らえ、なぜかもう離そうとなされないのです。

 なぜ、この漁師をそこまで説得し、そこまで目をかけられるのか。

 それは、ひとつの謎のようにさえ思われます。

 そして、その確かな関係は、この日、この朝、ガリラヤの海辺から始まったのです。

 

それは、普通の平凡な会話から始まったと御言葉は語ります。

 ここで主イエスは、2度語りかけられています。

 最初は、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」  とペテロにお命じになります。

 そして不思議な大漁のあと、驚きの中で悔い改めをするこの漁師に、

 「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」

と呼びかけられるのです。

この主イエスの語りかけの中で、一体何が起こったのでしょうか。

 ここで主イエスは、ペテロに悔い改めをするように求めているわけでもないし、

 また、信仰とは何かを教えられているのでもない。

 あるいは、主イエスはここで決してペテロの信仰を問題にしているわけでもない。

 彼に信仰があるかないかを判断して、弟子にするか否かを決めておられるのでもない。

 主イエスは、彼がただガリラヤの漁師であった時に、彼が信仰をもつ以前に、

ペテロそのものを捕らえてしまったのです。

 確かにそうだと思います。

 そうだとすると、ペテロが主の弟子とされた理由は、

 彼の才能や彼自身の可能性に全く由来していないのです。

 主イエスは、一介のみすぼらしい漁師、ただの肉体労働者に目を留められたのです。

 そして、彼を捕らえ彼を召し、彼を創り変えられてしまわれるのです。

「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」

この主の招きの言葉は、新しい人間を創造する言葉でもあるのです。

 この時ペテロは、それまでに考えたこともなかった全く新しい使命を告げられるのです。 今、彼に要求されるのは、この方に一切を捨てて従うことだけであります。

 考えてみますと、主イエスは、いくつかの根拠を示されて、

 「だから私に従え」と申されたのではありません。

 そもそもペテロの側に、一体どんな根拠を見つけることができたでしょうか。

 ペテロが使徒たりえない根拠、あるいは弟子の任に堪えられない根拠なら、

 いくつも数え上げることができたと思います。

 彼が十字架の主に従いきれない理由、また教会の指導者になれないという根拠なら、

彼自身すぐに語ることができたでしょう。

 しかし、主は一切の資格を問わなかった。信仰すら問わなかった。

 主は何と言われたか。

 

「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」

 

 お前は、今まで、魚を取り、市場に持って行き、人々にそれ(魚)を届けていた。

 今から後は、お前は人々を捕らえ、まことの生命を与えるために、

 主のもとにつれて行く。

 「そうだ、お前は今から人間をとる漁師になるのだ」

 「私は、お前に新しい使命を与える」

 「私は今、お前を必要としている」

 「私がお前を創り変える」

 と主は言われるのです。

 そして、「お前はそれができる」、

 と主は言われるのです。

 ペテロがその耳で聴いたことは、たくさんではありません。  

 ただひとつのことです。

 

 「私は、お前を必要としている。お前は今から人間をとる漁師になるのだ。

 お前は、私のために伝道者になるのだ。」

ペテロは、主の促しに、心を動かさざるを得なかったのです。

 

私達は、今、ここ仙川教会にいます。

 私達一人一人、出身も、年齢も、経験も、背景も異なる者が、今、ここにいます。

しかし、私達は、あの初めての主イエスとの出会いがあり、主イエスによって、

 人生の あの時 あの瞬間 変えられたという点では共通です。

そして、不思議な導きによって、今、仙川教会にいます。

 

しかし、なぜ、ここ仙川なのでしょうか。

なぜ、日本の東京の仙川なのでしょうか。

今、この仙川の地に教会が建っています。

三鷹教会の長い開拓伝道の幻と祈りによって、皆さん一人一人の祈りと働きによって教会が建っています。

 しかし、何よりも この仙川の地に 神様の救いを必要としている人がいるのです。  だからこそ、ここに仙川教会があるのです。

神様は、この仙川に住む人々を愛していらっしゃいます。

 だからこそ、私達は、この仙川に住む人々に福音を宣べ伝える使命があるのです。

 そのために、具体的に私達は毎週5枚づつ週報の3面を地域の方々に配っています。

私は、このような働きを教会全体で取り組んでいることはすばらしいと思います。

 よく特別集会の前に何千枚配布しても、何の反応もなかったということがよくあります。

なぜ、反応がないのか。

 いろいろな理由が挙げられるかと思いますが、まず教会の存在が地域において認知されていないことがあります。

 ですから、たとえ大量に1回配っても、地域の人々に教会が正しく認知されていないと、受け取る側は単に「宗教は怖い」と考え、結局はゴミ箱行きです。

 例えば、私が「スーパー篠原屋」をはじめたとします。

 派手なチラシを配布しても、「京王ストア」や「いなげや」に勝てるわけがありません。

 なぜなら、地域の方々に認知されていないからです。

 しかし、毎週にチラシを配布し続けることは、地域の方々に教会の存在を知ってもらう地味ですが、確実な方法なのです。

 

確かにチラシの効果は決して高いとはいえません。

もしかして、何の成果もないのではないかと「恐れる」ことがあります。

 失望に終わるのではないかと「恐れる」ことがあります。

 

 しかし、主は何と言われたしょうか。

 「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」

 今まさにこの時、この瞬間「救い」を求めている人がいるのです。

この救いを求めている人に、諦めずに私達は、

 「ここに教会がある」「ここに本当の救いがある」「ここに愛がある」

と、語り続ける使命があるのです。

希望は、決して失望に終わりません。

 今、主なる神は、今日も 私達に、繰り返し語りかけて下さるのです。

「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」

  祈ります。

<祈り>

「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」

天の父なる神様。あなたは、私達の理解を超えた、まさに不思議な導きでこの仙川教会に私達一人一人を召して下さいました。

ただただあなたのご計画とご意志によるという厳粛さと、その重みをかみしめております。

特に、10/3の伝道礼拝、チャペルコンサートに向けて、私達準備をしてまいります。その一切をお守り、祝された時となるように導いて下さい。

私達の心の中にある「恐れ」を取り除いて下さい。

この祈りを、主イエス・キリストの名によって祈ります。

    アーメン


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