【主日礼拝メッセ−ジ要約】                         2005年1月23日

 「 目を注ぎます  
詩123編1―4節
 メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 この詩人は、彼個人のためでなく、会衆のために、イスラエル民族を代表して祈っています。僕(しもべ)とは男女の奴隷のことで、彼らはひたすら男主人や女主人の手に目を注いでその指示を待ちます。一つ間違えると恐ろしい鞭が飛んでくるからです。奴隷は恐怖の念から主人の一挙手一投足に注目しますが、詩人は憐れみを待ち望む心から天にいます神、主に目を注ぎ、一心不乱に祈っています。詩人が祈る神は、聞いているのか聞いてないのか、わけの分からない偶像の神ではなく、真実な叫びに必ず耳を傾けて下さる真実な神です。憐れみ豊に顧みを与えてくださる方なのです。そういう絶対的な確信があるから、真剣に祈るのです。

 3度も憐れみを求める言葉(2,3節)が繰り返されていることから、彼らの置かれていた現状が如何に悲惨なもの、危機的な状況にあるか察せられます。この詩の3節を詩42編とつなぎ合わせて読むと、異国の地で囚われの身となっていた頃、異邦人たちから明けても暮れても「お前の神はどこにいる」と嘲られていた日々の中で祈ったものかもしれません。或いはこの詩の4節を詩73編とつなぎ合わせて読むと、偽りの平和の中で、力こそ神と豪語しながら、この世的に恵まれた環境の中で、幸福に暮らしている不信の輩に囲まれて苦しんでいる敬虔な神の僕の祈りということができるかもしれません。

 しかし、今風に言うなら、この世的には負け組みのように思われている詩人とその仲間ですが、ここには彼らを苦しめている人々に対する恨みがましい言葉は一切見られません。初めから終わりまでただひたすら天にいます方に向かって、憐れみを待つ信仰と希望の祈りで満ち満ちているのです。驚きです。

  
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【主日礼拝メッセ−ジ】                        2005年1月23日

 「 目を注ぎます  
詩123編1―4節
 メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 今朝、わたしたちは「都に上る歌」の4つ目を読んでいます。詩人は今、2節以下で「わたしたち」と繰り返しているように、彼個人のためでなく、会衆のために、イスラエル民族を代表して祈っています。僕(しもべ)とは男女の奴隷のことで、彼らはひたすら男主人や女主人の手に目を注いでその指示を待ちます。一つ間違えると恐ろしい鞭が飛んでくるからです。奴隷は恐怖の念から主人の一挙手一投足に注目しますが、詩人は憐れみを待ち望む心から天にいます神、主に目を注ぎ、一心不乱に熱祷しているのです。詩人が祈る神は、聞いているのか聞いてないのか、わけの分からない偶像の神ではなく、真実な叫びに必ず耳を傾けて下さる真実な神です。憐れみ豊に顧みを与えて下さる方なのです。そういう絶対的な確信があるから、真剣に祈るのです。

 この詩がいつごろ詠まれたものか分かりませんが、2−3節に3度も憐れみを求める言葉が繰り返されていることから、彼らの置かれていた現状が如何に悲惨なものであるか、危機的な状況にあるか察せられます。この詩の3節を詩42編とつなぎ合わせて読むと、異国の地で囚われの身となっていた頃、異邦人たちから明けても暮れても「お前の神はどこにいる」と嘲られていた日々の中で祈ったものかもしれません。

 或いはこの詩の4節を詩73編とつなぎ合わせて読むと、偽りの平和の中で、力こそ神と豪語しながら、この世的に恵まれた環境の中で、幸福に暮らしている不信の輩に囲まれて苦しんでいる敬虔な神の僕の祈りということができるかもしれません。

 しかし、今風に言うなら、この世的には負け組みのように思われている詩人とその仲間ですが、ここには彼らを苦しめている人々に対する恨みがましい言葉は一切見られません。初めから終わりまでただひたすら天にいます方に向かって、憐れみを待つ信仰と希望の祈りで満ち満ちているのです。驚きです。

 

 先週の17日(月)は阪神淡路大震災から数えて丸10年です。今、NHKの連続ドラマ、「わかば」が好評です。あそこに登場する人みなが何らかの形で震災の被災者です。それだけにあのドラマは作られたものというより、ほんの少ししか経験していないようなわたしにも、まるであの日の一人一人を見るような思いです。数多くの被災者の顔と重なります。加えて昨年は新潟県中越地方で大きな地震があり、暮にはスマトラ沖で、さらに強い地震とその余波で津波がインド洋沿岸を呑み込みました。何ということでしょう。ここに、昨年2月1日発行のキリスト新聞切り抜きがあります。見出しは「震災から9年 息子をなくした牧師は」です。全文読む時間はないので、必要と思われる所々を拾い読みしてお伝えしたいと思います。

 −6千433人の犠牲者を出した阪神大震災から9年を迎えた。地震の被害が特に大きかった兵庫県芦屋市津和町では56人が亡くなり、98%の家屋が全半壊した。同町内にある日本イエス・キリスト教団芦屋川教会の牧師小島十二さん(74)も地震で当時36歳だった息子をなくした。新しい家々が建ち並び、地震の傷跡をうかがわせるものはだんだんと消えていっている。目に見える復興は終わったようにも見える。この地震が残したものとは何だったのか、本当の復興とは何であるのか、小島さんに語ってもらった。−

 1月17日、午前5時46分。「まるでミキサーの中に入れられた感じでしたね。グワーと揺れました」。……息子家族が住んでいた教会の向かいのアパートは既に倒壊していた。息子、嫁、7歳、3歳になる孫が建物に埋もれていた。

 「絶望とか、狼狽は先に来なかったですね。悲しみは後でじんわりと来ました」。息子の死が分かったときの心境を小島さんはこう語る。信徒の独居老人のことが一番の心配だった。しかし助けに行こうとしても倒壊した阪神高速が壁になりたどり着けない。火災も始まり、食い止めなければならない。他にも多くの人たちが埋もれている。この地震で小島さんは息子と信徒4人を亡くした。

「地震は神の大きな力が現れた時でした。  神の力に目が開かれた。共にいて下さるイエス・キリストが『汝ら互いに愛すべし』と声をかけて下さったのです」

 阪神大震災は日本のボランティア元年という言葉を生んだ。現実に人々の間にあった壁は取り除かれ、互いに助け合い愛し合った。またこの経験を通してある者はバプテスマを受け、ある者は献身した。……

 新約聖書に地震の記事は14回登場する。特にヨハネ黙示録11章13節には「大地震が起こって、都の十分の一が倒れた。この地震のため七千人が死に、生き残った人々は、恐怖に満たされ、天の神をあがめた」とある。地震をどうとらえるべきか、聖書を読むたびに、この記事が小島さんに矢のように突き刺さった。

 「恐れ、驚きが満ちる中で天の神に栄光を帰するという道で、真の復興がなされるということが認識できました。地震こそが神の栄光にふれていくチャンスにしなければならないという信仰がわかったんです」

 様々な教会や集会に呼ばれては「災害は祝福となる」と証して歩いた。……「十字架と復活と地震は神の業です。キリストの十字架と復活の時に地震は起きています。こうして経験した者がキリストを語らなくてはならないと教えられたんです」

 息子の死を後で振り返った小島さんは「悲しいんです。お父様」と率直に尋ねたという。そうすると神は「わたしも息子を亡くしたよ(イエスという息子を)」と語られたという。その時、悲しみがすぅーっと遠くに引いていった。

 ……「この経験を賜ったのですから、息子を神様にお献げしたのですから、それだけ神様が十字架と復活の力を証しせよといわれているのです。信ずるとともに苦しむことも賜った。これからも神の栄光を帰するように証人となっていきたい。わたしたちはメッセンジャーですから」

 

 今一度心静かに詩123編を読みましょう。息子を亡くした神の僕が「悲しいんです。お父様」と祈った時、「わたしも息子を亡くしたよ」というみ声が帰ってきました。その時、悲しみがすぅーっと遠くに引いていった、とあります。主に目を注ぐ詩人の祈り、その祈りに耳を傾け、憐れみ深い応答をして下さる神の愛が見えてこないでしょうか。祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を心から崇めます。

この世には、人間の知恵では理解しがたい多くの悲しい出来事に遭遇します。そうした中でわたしたちは何もできない自分の小ささを思い知り、ただ立ち尽くし、また狼狽するのみです。愚かにも祈ることさえ忘れてしまうのです。

そのようなわたしたちに、今朝、詩編123編を与えて下さいました。深い悲しみ、重すぎる人生の課題を前にしながら、それでも思い煩うことなく、ただあなたへの信仰と希望をもって「憐れみたまえ」と祈り続けた詩人の姿と、阪神大震災で息子さんを亡くしながら、神の栄光を帰する証人、メッセンジャーであり続けようとする神の僕の祈りにわたしたちは勇気付けられました。

どうか主よ、どんな悲しみや苦しみの中でも、いつもわたしたちの目をあなたに向かって仰ぎ見る者とならせてください。そして、あなたの豊かな憐れみと大いなる恵みを人々に語り伝える者へとしてください。

イエス・キリストの尊い御名によって。アーメン。

          


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