【主日礼拝メッセ−ジ要約】 2005年1月30日
1:だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、
2:生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。
3:あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。
御言葉は、「バプテスマを受けた者の日々の生活」について語っています。
1.2節で、私達が信仰を守って生きていくためには、何を食べたらよいかについて書かれています。バプテスマ(洗礼)を受けた者が、乳飲み子にたとえられ、乳飲み子の生命のためには、たった一つのものが大切であり、それが「混じりけのない霊の乳(神の言葉)」だと語っています。
2.1節で、私達が信仰を守って生きていくためには、逆に「何を捨てる」べきなのかを明確にしています。私達の信仰生活において「混じりけのない神の言葉」の吸収を邪魔するものが、現実の生活にあるからです。その具体例が、「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」です。私達は、悪意も偽善も悪口も悪しきものであることは知っています。しかし、そういうものを身にまとうことによってしか自分を守ることができないのが人間なのです。これらを全部脱ぎ捨てたら、丸裸になってしまう。全く無防備になってしまう。だから、やもなく多少の偽りを、多少の悪口を、我が身を守るために身にまとうのです。ですから、御言葉は「今生まれたばかりの乳飲み子のように、それらを脱ぎ捨ててしまいなさい。」と勧めるのです。
3.3節で、捨てるべきもの、食べるべきものが明確になったキリスト者は、「主が、キリストが、恵み深い方だということを味わい知った人間だ」と語ります。ところで、神は恵み深い方だというのは、人間的な言い方をすると、「度外れのお人好しだ」という意味にもなります。信頼を裏切られ、煮え湯を飲まされ、腹に槍を突き立てられても、私達を赦すとおっしゃる。人間は、底抜けのお人好し、度外れに恵み深い方に出会あってはじめて、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口を捨てることができるのです。私達は、恵み深い方を知った時、混じりけのないキリストの純粋な言葉を本気で聴き受け入れられるのです。
1:だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、
2:生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。
これを飲んで成長し、救われるようになるためです。
3:あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。
この御言葉は、「バプテスマを受けた者(キリスト者)の日々の生活」について明らかにしています。
1節から3節の中で、大きく3つのことについて語っています。
1.私達が、信仰を守って生きていくためには、何を食べたらよいか。(2節)
2.私達が信仰を守って生きていくためには、逆に「何を捨てる」べきなのかを
明確にしています。(1節)
3.そして、捨てるべきものが明確になり、食べるべきものが明確になったキリスト者は
「主が、キリストが、恵み深い方だということを味わい知った人間だ」と語るっているのです。(3節)
キリスト者は、味を知っている。
キリスト者はキリストの味を知っている。
私達の信仰生活とは、まさに、「キリストの恵み深さを味あうことだ」1節から3節の御言葉は語っているのです。
1.私達が、信仰を守って生きていくためには、何を食べたらよいか。−2節
2:生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。
これを飲んで成長し、救われるようになるためです。
ペテロは、食べ物を事例として話を始めています。
食べ物や飲み物の話なら誰にでも分かりやすことです。
信仰を支え養う食べ物、飲み物は何か。
確かに、その人の肉体的健康を支えるのは、日々の食生活です。
若い時には、健康や栄養にについて考えずに過ごしてきた人でも、健康問題に直面した人は、毎日の一食一食の食べ物が健康に大きく関わることを思い知らされます。
それと同じように、信仰生活も毎日何を食べて養われるのか。
肉体の食物は一食抜いても空腹感を覚えます。
二、三週間食べなければ死んでしまいます。
しかし、精神的(霊的)生活はそうではありません。
その心がやせ細っても目には見えませんし、精神が病み、死に絶えても、自覚症状すらありません。
さて、私達は何を食べておいしいと感じるでしょうか。
味覚という者は千差万別で個々人によって違うと言われています。
それだけに、何を食べておいしいと感じるかは、その人表現していることになります。 そこで、御言葉は次のように語ります。
3:あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。
キリスト者とはどういう人のことなのか。
それはある意味で「味が分かる」人間である。
つまり「主が、キリストが、恵み深い方だということを味わい知った人間だ」と言うのです。
味を知っている。キリストの味を知っている。
それは、キリストの恵み深さを味あうことだというのです。
この3節の出てくる「恵み深い方」という言葉は、原典のギリシャ語の言葉では
「クレーストス」という言葉です。
「主はクレーストスである」と書いてあるのです。
「クレーストス」というのは「おいしい」という意味です。
「柔らかな甘さ」と訳しても良いのです。(「クレープ」はここから来ている)
また、「クリストス(キリスト)はクレートスだ」というかけ言葉にもなっています。
あなた方は、キリストの「甘さ」を味わっただろう。
その柔らかな甘さを体で味わっただろう、と語りかけるのが三節です。
ここで使われている言葉は、何か理論的言葉ではありません。
むしろ感覚的な言葉が使われています。
あなた方は、体でその味をすでに味わったはずだと語るのです。
御言葉は、味覚の話をしているのです。
2節では、信仰の食べ物を「霊の食べ物」と呼んでいます。
このペテロの手紙は、もともとバプテスマを受けて間もない人々のために書かれたものです。
バプテスマを受けてキリスト者として生き始める。
その姿は、あの今生まれてばかりの赤子の姿にそっくりだ、と言うのです。
たった今、生まれたばかりの赤子の姿にそっくりだ、というのです。
たった今生まれたばかりの乳飲み子、それは何とも不思議な、言葉で語り尽くせぬ姿をしています。
それはか弱い、頼りない、まことに小さな生命です。
柔らかな和紙のように、強く握りしめたら壊れてしまいそうで、恐ろしいほどです。
しかし、親が今生まれたばかりの乳飲み子の生命力を知らされるのは、母の乳を慕い求める時です。
それを思いがけないほどの力で吸い始める時、乳飲み子の生命力を改めて思い知らされると言います。
キリスト者も同じだというのです。
2:生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。
ここでは、バプテスマを受けた者が乳飲み子にたとえられています。
乳飲み子の生命のためには、たった一つのものが大切であり、
それが「混じりけのない霊の乳」だというのです。
これさえあれば、信仰者の生命が健やかに養われる。
ですから、これは何もバプテスマを受けたばかりのキリスト者だけの御言葉ではない。
いわゆるベテランクリスチャンも「混じりけのない霊の乳」が必要なのです。
なぜなら、私達は「混じりけのない霊の乳」ないと肉体的に生きていても、魂(霊的)には死んでしまっているからなのです。
残念ながら、そのようなキリスト者も多いのも事実です。
私達には、肉体的食べ物だけでなく、魂の食べ物「混じりけのない霊の乳」が必要なのです。
それでは、混ぜ物のない霊の乳とは何でしょうか。
霊の乳の「霊の」という言葉は、「ロゴス」という言葉から来ていますので、「御言葉の乳」と言い換えても良いのです。
あるいは、理にかなった「筋の通った言葉の乳」によって養われなさいと理解してもいいでしょう。
筋の通った、混じりけのない、純粋な神の言葉を慕い求めよと言うのです。
それを体で味わえと言っているのです。
混じりけのない神の言葉。
混じりけのない「霊の乳」。−それはごまかしがないということです。
少し大げさな言い方をしますと、陰謀がないということです。
純粋であるということです。
神の約束と人間の約束とを比べるとよく分かります。
人間の約束の言葉には、いつでも何かしらの混ざり物があるのです。
不純な動機があったり、やり方がおかしかったりするのです。
ただ神の恵み、神の約束だけはそういうことでは全くないのです。
私達が、信仰を守って生きていくためには「混じりけのない神の言葉」を食べていく必要があるのです。
2:生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。
これを飲んで成長し、救われるようになるためです。
3:あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。
2.次に、御言葉は、私達が信仰を守って生きていくためには、
逆に「何を捨てる」べきなのかを明確にしています。−1節
御言葉は、何を求めたらよいかを2節で語り、1節では何を捨てればよいかを語ります。
なぜ「捨てるべきもの」が述べられているのでしょうか。
それは、私達が、信仰を守って生きていく上で「混じりけのない神の言葉」の吸収を邪魔するものが、現実の生活のいたる所にあるからです。
1節において何を捨てたらよいか明確にします。
1:だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、
「捨てる」という言葉は「衣服を脱ぎ捨てる」という意味です。
上にまとっているものを脱ぎ捨てなさい。
私達が、一番上にまとっているのは「悪意」だ御言葉は指摘します。
ちょうど、冬の衣服を着て着ぶくれ状態になっていると考えると分かり易いです。
上から次のようなものを着ていると想定してみましょう。
@マフラー
Aコート
Bセーター(背広)
Cシャツ
D下 着
御言葉は、私達が、いつの間にか
@マフラー =悪意
Aコート =偽り
Bセーター(背広)=偽善
Cシャツ =ねたみ
D下 着 =悪口
を着て生きている(着ぶくれ状態だ)と指摘しているのです。
@マフラー=悪意:相手の長所を見ようとせずに、悪い点ばかりを見て裁いてしまう。
だからあなたはいつの間にか「悪意」を着ている。
Aコート =偽り:自分の本当の醜い姿格好悪い姿を見せずに、
あるいは見ようともしていない。
だからあなたはいつの間にか「偽り」を着ている。
御言葉は、まず「悪意と偽りを捨てよ」と語るのです。
次に私達が身につけているのもの−
Bセーター(背広)=「偽善」であると指摘しています。
「偽善」−表面とは裏腹な生活、二つの心を持った者の生活と言っても良いでしょう。 偽善とは、神への裏切り行為です。
裏切りというのは、表では平然として良いことを言いながら、裏でその関係を切ってしまうと言う意味です。
聖書は人間の生活を破壊する例として偽善をあげています。
「偽善」は元の言葉では「芝居のマスクをかぶって演じる」という意味です。
その誠実そうな仕草、いかにも真実を語る口調で信仰者を演じる。
しかし、一皮はぐと、もう一人の神を裏切る人間が仮面の下にいる。
偽善は人間の生活を根本から破壊してしまうのです。
人間そのものを破壊し駄目にしてしまうのです。
ですから、御言葉は、その「偽善を捨てよ」と語るのです。
次に身につけているのもの−
Cシャツ =ねたみ
偽善と並んで人間を駄目にしてしまうのは「ねたみ」です。
「ねたみ」は、人間関係のあるところには必ずあります。
<事例>
日本には「出る杭は打たれる」という諺があるように、ありとあらゆるところで「ねたみ」があります。
私は、時々お金がなくても、「ねたみ」のない世界で生きることができたらどんなに自由で幸せだろうかと考えることがあります。
マルコによる福音書では、イエス・キリストを十字架につけたのは、人々の「ねたみ」であったと述べています。
あながたは、本当に自由になりたかったら「ねたみを捨てよ」と御言葉は語るのです。
そして、まだあります。まるで濡れ落ち葉のごとく私達の体にまとわりついているのが
D下着=悪口
ねたみの具体的形が「悪口」です。
皆さん、先週一週間、だれの悪口も聞かずに過ごすことができた人はどれだけいるでしょうか。
逆に、先週一週間、だれの悪口も言わずに過ごすことができた人はどれだけいるでしょうか。
正気言って、私も自信がありません。
悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口−いつの間にか、私達は信仰者でありながら、何と多くのくだらないものを身につけて生きているのでしょうか。
このように、1節は、脱ぎ捨てるべきもの、悪しきものが、羅列されているようでありながら、実は一つのことが示されていると言えます。
それを1節の「だから」が導き出しているのです。
1:22以下の文脈でこの手紙が語るのは、偽りのない兄弟愛です。
22:あなた方は、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったの ですから、清い心で深く愛し合いなさい。
魂を清めて信仰者の交わりに生きなさい。
そして、2章1節で、だからこの交わりを破壊するものを脱ぎ捨ててしまいなさい。
そんなものを着ていると、あなたは駄目になってしまうと言うのです。
ところで、なぜ人間は偽善の仮面をつけ、そねみの衣をまとって悪口を言うようなことをするのでしょうか。
理由は簡単です。
そうやっていつでも自分を守ろうとするからなのです。
悪意も偽善も悪口も悪しきものであることは重々知っています。
しかし、そういうものを身にまとうことによってしか自分を守ることができないのが人間なのです。
これらを全部脱ぎ捨てたら、丸裸になってしまう。
敵の偽善、悪口に対して全く無防備になってしまう。
だから、やもなく多少の偽りを、多少の悪口を、我が身を守るために身にまとう、そう考えるのです。
そういう私達に、御言葉は勧めるのです。
「今生まれたばかりの乳飲み子のように、それらを脱ぎ捨ててしまいなさい。」
聖書は、洗礼を受けた者に向かって、恐れずにそれらを脱ぎ捨ててしまいなさい、と語るのです。
御言葉は、人がその年齢を重ねることによって学ぶことは何であるかを示しています。
信仰者が信仰者らしく成長していくこと、それは身につけていく、重ねるように身にまとっていくことではない。着ぶくれして生きていくことではない。
脱ぎ捨て自分を浄化していくことなのです。
乳飲み子のようにそれらを脱ぎ捨ててしまいなさい。
神の国はこの子供達のような者の国だ。
1:だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、
2:生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。
3.捨てるべきものが明確になり、食べるべきものが明確になったキリスト者は
「キリストが、恵み深い方だということを味わい知った人間だ」と語るのが3節です。
2:生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。
これを飲んで成長し、救われるようになるためです。
3:あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。
信仰生活とは、まさに「キリストの恵み深さを味あう」ことです。
主は恵み深い方、クレートスな方だ。
ある人は、クレートスという言葉はほとんど「お人好し」、「極端に親切な人」という意味に近いと説明します。
神は恵み深い方だというのは、人間的な言い方をすると、
要するに、「度外れのお人好しだ」
信頼を裏切られ、煮え湯を飲まされ、腹に槍を突き立てられても、私達を赦すとおっしゃる。
人間は、このような底抜けのお人好し、度外れに恵み深い方に出会わないと、
いつまでたってもつまらぬもの−悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口−によって我が身を守ることからなかなか抜け出れないのです。
全ての人間に裏切られても、全ての人に愛想をつかれても、キリストは全てをご存知の上で、私を受け入れて下さる。
私達が、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口など、多くのものを身につけて生きている
ことなど百も承知で、私達を受け入れて下さる。
私達は、本当のクレートスな方、恵み深い方を知った時、混じりけのない主イエス・キリストの純粋な言葉を本気で聴くようになるのです。
不良少年が初めて心を開くように、私達はクレートスなキリストの前にありのままの自分をさらけ出せることができるのです。
ペテロは、私達に告白として語りかけているのです。
何度もイエス・キリストを失望させた私が、今キリストのクレートスに生かされている。 だからあなた方も3:この「主が恵み深い方だということを味わってみないか」と。
ペテロは、度外れに恵み深い方を指さしながら、確信を持って、次のように語るのです。
1:だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、
2:生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。
これを飲んで成長し、救われるようになるためです。
3:あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。
<祈り>
天の父なる神様、あなたはどこまでも、恵み深いお方であります。
また、あなたは、どこまでも混じりけのない方です。たとえ私達が、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口があったとしても、それでもあなたは、その混じりけのない「霊の乳」を、豊かに私達に与えて下さいますから、感謝であります。どうぞ、この、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口を取り去り、混じりけのないあなたの「霊の乳」をもっと直接頂くことができますように。この祈りを恵み深い主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン。