【主日礼拝メッセ−ジ要約】                            2005年6月19日

                「教会は成長する

使徒行伝2章43-47節
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 43節と47節を見てください。ここに教会を取り巻く人々の姿を垣間見ることができます。この人々はまだイエス・キリストを信じるに至らない人々、いわゆる未信者でしょう。しかし、教会に出入りする人たちの後姿を見て、二つの感想を持ちました。一つは神への畏れ、もう一つはキリストの弟子たちに対する好意です。

 今日キリスト教会でもいろいろな伝道方策を考えます。会堂敷地を利用して有料駐車場にしてはどうか、塾の教室として会堂の一室を開放してはどうか、文化的なものを取り入れて人々が教会に来やすいようにした上で、何か魅力ある伝道プログラムを考えては、などと工夫を凝らします。それもまた一考に値するものといえばそうかもしれません。しかし、初代の教会の人々はそのような方法論から教会造りを考えていません。繰り返しますが、彼らは日々喜びと真心をもって礼拝と礼典、祈りと分かち合い、愛餐という主にある愛の交わり、み言葉の証に専心していました。周囲の人々は、こうした教会の一途な姿を見て、神への畏れの念を抱き、またキリスト者一人びとりに対して好意を抱くようになったのです。

 今日、周囲の人々は仙川キリスト教会に対してどんな感想を抱いているでしょうか。「伝道」という名のもとに、ただ人集めに策を弄するのではなく、人々をして「神への畏れ」、「好意を抱かせるような」教会、人々の方から自然と駆け集まって来るような教会造りの基本に帰ることこそ大切ではないでしょうか。最後に聖書から次の勧めに心を留めましょう。

 「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」(ローマ12:10〜12)

 

   
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【主日礼拝メッセ−ジ】                             2005年6月19日

                「教会は成長する

使徒行伝2章43-47節
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 先週、一般に理解されている「教会」と、キリストの教会との違いをお話しましたが、覚えておられるでしょうか。それはただ単に、「教える会」という意味ではありません。加えて言うなら、キリスト教会という場合でも、それは建物のことを言うのでもありません。キリスト教会とは、主イエス・キリストの名によって集められる群れ、礼拝がささげられ、バプテスマと主の晩餐という二つの礼典(礼典とは、教会が主イエス・キリストから守り行うようにと命じられた儀式のこと)を挙行する群れのことであります。2:41〜42に見た通りです。

 命あるものは皆、成長を遂げます。キリスト教会という命溢れる群れも成長して行きます。成長する教会に見られる著しい特徴は、「一つにされる」という点です。44、46節に「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし」とか、「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、・・・喜びと真心をもって一緒に食事をし」と書いてあるとおりです。更にもう一つ見落としてならないのは、「家ごとに集まってパンを裂き」という行為です。このように初代の教会は、一つ心になって、礼拝と礼典と愛餐を欠かさなかったのです。そして日常的には分かち合いと宮における祈りの生活です。その結果、「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」(47節)とあるように、多くの人々が救われて、キリストを中心に、聖霊による共同体の輪が広がって行くのでした。

 人が増し加わるから教会が成長していることにはなりません。教会員一人一人が礼拝と礼典と愛餐、そして祈りと分かち合いによって霊的にしっかりと結ばれてこそ成長している教会と言えるのです。成長し、成熟した教会には、自然と人が呼び集められてくるのです。神は、使徒パウロを通して、教会がたくましく成長していくために必要なこととして強調しておられるのは、聖書を熟知することや、教会事務に長けること以上に、霊的一致が必要であると、次のよう教えておられます。

 「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、バプテスマは一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」(エフェソ4:1〜6)

 また、聖書は、教会に一致が与えられ、喜びのうちにイエス・キリストの救いを証している教会に導かれた未信者はこのように言うと教えています。

 「皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、みなから罪を指摘され、心のうちに隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう。」と。

 

 以前にもご紹介したことですが、牧師として、また大衆伝道者としても幅広く活躍された榎本保郎という方が、ご自身体験されたことをヒントに教会のあるべき姿を教えておられます。当事愛媛県今治市内の教会で牧会しておられた時のことです。町内の家が火事になりました。幸い消防士によってすぐに鎮火して事なきを得ましたが、多くのいわゆる野次馬が消防車よりも速く、どうなることかと駆け集まってきていました。わたしなどがそういう場面に遭遇したら、ただ火事のことと消防士の活躍ぶりが印象に残っただけでしょうが、さすがに榎本先生は違います。野次馬の様子にも目を留め、そこからきちんと教会というものがどうあるべきかを学んでおられるのです。教会の伝道の仕方はともすると、やれチラシを何枚つくって配るとか、看板をどこに立てるとか、電話や訪問を誰がどうするとか、人をかき集めるこことばかりに心奪われている。それも大切だが、向こうの方から人々が駆け集まってくるような魅力ある教会造りが、果たして現在の今治教会にはできているのか、と祈らされたと言い、あのペンテコステの出来事(使徒言行録2章)によって、大勢の人々が駆け集まっている様子を実例としておられるのです。

 43節と47節を見てください。ここに教会を取り巻く人々の姿を垣間見ることができます。この人々はまだイエス・キリストを信じるに至らない人々、いわゆる未信者でしょう。しかし、教会に出入りする人たちの後姿を見て、二つの感想を持ちました。一つは神への畏れ、もう一つはキリストの弟子たちに対する好意です。

 今日キリスト教会でもいろいろな伝道方策を考えます。会堂敷地を利用して有料駐車場にしてはどうか、塾の教室として会堂の一室を開放してはどうか、文化的なものを取り入れて人々が教会に来やすいようにした上で、何か魅力ある伝道プログラムを考えては、などと工夫を凝らします。それもまた一考に値するものといえばそうかもしれません。しかし、初代の教会の人々はそのような方法論から教会造りを考えていません。繰り返しますが、彼らは日々喜びと真心をもって礼拝と礼典、祈りと分かち合い、愛餐という主にある愛の交わり、み言葉の証に専心していました。周囲の人々は、こうした教会の一途な姿を見て、神への畏れの念を抱き、またキリスト者一人びとりに対して好意を抱くようになったのです。

 今日、周囲の人々は仙川キリスト教会に対してどんな感想を抱いているでしょうか。「伝道」という名のもとに、ただ人集めに策を弄するのではなく、人々をして「神への畏れ」、「好意を抱かせるような」教会、人々の方から自然と駆け集まって来るような教会造りの基本に帰ることこそ大切ではないでしょうか。最後に聖書から次の勧めに心を留めましょう。

 「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」(ローマ12:10〜12)

祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を心から崇めます。

 今朝は、初代の教会の生き生きとした様子と、それによって周囲の人々の目を呼び覚まし、神への畏れとキリスト者に対する好意を抱かせたことを学びました。

 このことを通して、わたしたち仙川キリスト教会のために何が必要かということも学ぶ機会となりました。一つ心で、唯一の主イエス・キリストを礼拝すること、互いを自分よりも優れているという思いを忘れない教会の姿こそ、人々をあなたに向けさせる一番の道であることを教えてくださいました。感謝します。

救い主イエス・キリストの尊い御名によって祈ります。アーメン。


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