【主日礼拝メッセ−ジ要約】 2005年7月10日
わたしたちは、ペトロを通して語られたこのメッセージから、とても大切なポイントに気付かされます。すなわち、イエス・キリストは神の子でありながら、この世の法律に逆らった強盗バラバにもまさる重大な犯罪者のように、また宗教的重罪人として十字架というこの上ない残酷な死刑に処せられたという点です。
しかし、聖書の神は大いなる逆転劇を見させて下さいました。イエスが十字架に死なねばならなかったのは、バラバよりも悪い人間だからではありません。ユダヤ人が言うように律法(聖書)に照らして宗教的に罪を犯したからでもありません。実際はその反対です。バラバは言うに及ばず、聖職者たちの中に醜い嫉妬、強欲、高慢という隠された罪が、十字架の光によって照らし出されたのです。しかし、神は彼らの罪を訴えて、地獄に突き落とす為ではなく、むしろ御子イエスを十字架に釘付けることによって、彼らの罪を全て引き受けて赦す為でした。そして御子イエスを死人の中から復活させることによって、その弟子たちを通して、全てのユダヤ人に救いの手を差し伸べて下さいました。40年間一度も歩けなかった壮年のように、この世で見捨てられたような状態の人のために、また、どこから見ても犯罪者であることを否定できない人殺しバラバのような人の為に、そして、一見義人を装う偽善者のためにもです。
あなたはどうでしょうか。法に触れるような過去がありますか。隠された罪を、今も未解決のままにしてはいませんか。偽善者の生き方をして来なかったでしょうか。もし、そういう人がここにいるなら、今、命への導き手であるイエスのみ前にその罪を悔い改めて下さい。あなたの心を神に明け渡してください。あなたが罪を認めて悔い改め、その罪の一切を告白するなら、神は直ちにあなたの罪を赦し、救って下さいます。それだけではありません。栄光の神の御国への門を大きく開いて下さいます。救い主イエス・キリストを受け入れる決心をしましょう。
数十年もの間、あの門のそばに置かれていた人が、今ペトロとヨハネと一緒に歩いています。3人が「美しい門」から外庭に出ると、「ソロモンの回廊」付近に来ると、民衆は非常に驚き、一斉に集まって来ました。この回廊は、その昔ソロモンが神殿を建てたことに因んでそう呼ばれています。そこで、ペトロは再び語り始めました。一人の人の身に起こったことがきっかけとなり、思いがけずイエス・キリストの福音を伝える機会となりました。ペトロは12〜26節の間に三つのポイントで人々に悔い改めを勧めています。今日は、第一のポイントに耳を傾けることにしましょう。
ペトロはこの奇蹟を見て驚いている人々に向かって、「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのか」と問いかけます。「イスラエルの人たち」とは、簡単に言うと、「神に選ばれた人たち」という意味です。ユダヤ人は神の選民であり、契約の民であり、預言者を通して神の言葉である聖書を与えられた民族なのです。世界の誰よりも神がどのような方であるかを知らされているのに、なぜ驚くのか不思議だと言い、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神」は、もっと大いなる御業をお示しになったと言葉を続けます。大いなる御業とはなんでしょうか。イエス・キリストの死と復活の出来事です。
ユダヤ人は主イエスを捕えて、ローマの総督ピラトの手に引き渡しました。ピラトはいくら取り調べても、イエスの中に罪を認めることが来ません。それで釈放しようとしましたが、ユダヤ人は何が何でもイエスを死罪にしたいと聞きません。こうして人殺しのバラバに替えて、命の導き手であるイエスを十字架に殺してしまいました。しかし、神はこのイエスを死者の中から復活させて下さいました。「わたしたちは、このことの証人です。」と言い、更に、「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエス・キリストによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。」と締めくくりました。
わたしたちは、ペトロを通して語られたこのメッセージから、とても大切なことに気付かされます。
すなわち、イエス・キリストは神の子でありながら、この世の法律に逆らった強盗バラバにもまさる重罪人のように、またイエス・キリストはユダヤ教に反する、宗教的重罪人のように、十字架というこの上ない残酷な死刑に処せられたという点です。
しかし、聖書の神は大いなる逆転劇を見させてくださいました。イエス・キリストが十字架に死なねばならなかったのは、バラバよりも悪い人間だからではありません。ユダヤ人が言うように律法、すなわち聖書に照らして宗教的に罪を犯したからでもありません。実際はその反対です。バラバは言うに及ばず、聖職者たちの中に隠されている、醜い嫉妬という罪、強欲という罪、高慢という罪が、十字架の光によってすべてが照らし出されたのです。しかし、神は彼らの罪を訴えて、地獄に突き落とす為ではなく、むしろ御子イエスを十字架に釘付けることによって、彼らの罪を全て引き受けて赦すためでした。そして御子イエスを死人の中から復活させることによって、その弟子たちを通して、全てのユダヤ人に救いの手を差し伸べて下さいました。40年間一度も歩けなかった壮年のように、この世で見捨てられたような状態の人のために、また、どこから見ても犯罪者であることを否定できない人殺しバラバのような人の為に、そして、一見義人を装う偽善者のためにもです。
あなたはどうでしょうか。法に触れるような過去がありますか。隠された罪を、今も未解決のままにしてはいませんか。偽善者の生き方をして来なかったでしょうか。もし、そういう人がここにいるなら、今、命への導き手であるイエスのみ前にその罪を悔い改めて下さい。あなたの心を神に明け渡してください。あなたが罪を認めて悔い改め、その罪の一切を告白するなら、神は直ちにあなたの罪を赦し、救って下さいます。それだけではありません。栄光の神の御国への門を大きく開いて下さいます。救い主イエス・キリストを信じ、受け入れる決心をしましょう。
今日の聖書からもう一つ気付かされることがあります。それは教会の指導者と呼ばれる人々に対して与えられたメッセージです。その対象とはこの教会で言えば、牧師のわたしです。協力牧師の篠原健治先生です。執事たちです。CSのリーダーです。更に聖歌隊のメンバーです。
歩けるようになった人を巡って驚きのまなざしで集まってきた人々に対して語ったペトロの言葉に注目しましょう。12,16節をご覧下さい。彼は言いました。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。・・・あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるのです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。」
一人の人が悔い改めてイエス・キリストを信じる決心をしたとき、バプテスマを受けたとき、それはご当人にとってはもちろん、教会にとってもこの上ない喜びです。しかし、この純粋に喜ばしい瞬間にも、牧師の心にささやくサタンの誘惑があります。「この人を救いに導き、この人にバプテスマを施したのは牧師のわたしだ。わたしのお陰だ」と高慢が湧き出るのです。言葉に出す出さないを問わず、これは牧師として致命的な思い上がりです。また、教会の中でめきめきと信仰の成長を遂げる人を見たとき、先輩の信徒はそれを喜びながら、やはり心のどこかで、「あの人をあれまで育てたのはこのわたしだ。わたしの奉仕と導きのお陰だ。」とささやく声があります。その声に一人歩きさせてはなりません。礼拝出席者が増えることを喜びながら、ここにもサタンの囁きがふと聞こえてくるのです。「わたしが何人導いたから、教会に来る人の数が増えた」と。それもまた危険な考えです。ペトロはそんなことを言いましたか?いいえ、彼はこう言っています。「わたしがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか」と。栄光はどこまでも神に帰すべきだとペトロは言っているのです。一人の人が救われたのは、牧師の功績でも、協力牧師の力でもありません。彼が救われたのは、実に彼に対する命の導き手であるイエス・キリストと父なる神の恩寵によるものであり、その恵みに素直な心で応答したその人の信仰によるほかありません。
イエスは言われました、「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです。』と言いなさい。」(ルカ17:10)と。
また使徒パウロも言います。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」(气Rリント3:6)と。
福音を伝え、またそれに関係するさまざまな奉仕をするのは、わたしたちの親切心からではありません。それはある意味では神から賜った聖なる義務というべきものかもしれません。しかし、教会における奉仕という義務意識は、「仕方なく実行する」ということにはなりません。むしろ、先に救われたことに対する感謝と喜びに溢れて、「しないではおれない」のです。使徒パウロは、「キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。」(コリント5:14)と言っていますが、真にその通りです。イエス・キリストが十字架の上に流してくださった血潮、裂かれてくださった御体を思うとき、こんなものをも救ってくださった神への感謝が溢れてきます。そして、まだ救いを知らない人にぜひともこの神の愛を知らせたいと、キリストの愛に駆り立てられるのです。これが教会の言う奉仕の意味です。神はわたしの小さな奉仕を喜び、貧しい唇を用いて人を救いに導き、その信仰を日々成長させて下さるのです。まさに成長させてくださるのは神だからです。牧師も協力牧師も、執事も、教会学校のリーダーも、聖歌隊も、福音の種を蒔き、或いは福音の苗を植え、水を注ぐ御国の農夫に過ぎないことをいつも心に留めておきましょう。
祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を心から崇めます。
今日、わたしたちは神の恵みの御業を通してあなたがどれほどわたしたち一人一人を愛してくださっていることか、深く悟らせてくださいましたことを感謝します。あなたはわたしたちが犯すどんな小さな罪をも喜ばれません。しかし、あなたのみ前に包み隠さず、罪を言い表すもののためには、その罪がどれほど深刻なものであってもあなたは喜んで下さいます。そして十字架と復活の主イエス・キリストによって救いに入れてくださいます。今、わたしたちはあなたこそわたしの個人的な救い主と信じ、救いを受け入れます。
また、先に救われたわたしたちは、あなたの僕に過ぎない者であることを礼拝ごとに、教会に導かれるたびに深く思わせてください。
救い主イエス・キリストの尊い御名によって祈ります。アーメン。