【主日礼拝メッセ−ジ要約】 2005年7月17日
わたしたちは時々これまでの歩みを振り返って、あの時、あの出来事がなかったらもっとましな人生を送ることができたのに、と考えることがあります。また、これからの人生のためにも消しゴムのようなものがあったら、どんなに便利が良いかと考える人は少なくないと思います。もちろん、そんな都合の良い消しゴムはこの世のどこにもありません。
しかし、神の御前に出るために、人生の汚点を完全に消し去っていただくことはできます。イエスが十字架の上で流された血潮です。これまで犯してきた罪の数々を神に対して告白し、救い主イエス・キリストのみ前に立ち帰るなら、これまでの罪も汚れも偽善も悪い習慣も、一切の罪が消し去られ、赦されるのです。事実、イエス・キリストは、十字架の上でわたしたちの為に執り成しの祈りをささげて下さいました。そこのところの聖書を読みましょう。
「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです。』」(ルカ23:34)。
ペトロはこの祈りの言葉を覚えていましたから、「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち返りなさい。」(19節)と人々を神のみ前に招きます。悔い改めて神に立ち帰るなら、神はどんな罪でも消し去ってくださるのです。
わたしたちが自分の手でどんなに努力しても消すことのできない罪を、天の父なる神はその独り子イエスを通して、十字架の血潮によって消し去ってくださいます。ただ消し去るだけでなく、全く清めて神と共に生きる命を与えてくださいます。わたしたちがなすべきことは、「悪から離れて祝福に与る」ために、ただ、イエス・キリストがわたしの罪のために十字架に死んでくださったこと、甦ってわたしの救い主となってくださったことを認めて、この神に立ち返り、罪の悔い改めと、信仰を言い表すだけで良いのです。今、この方に立ち帰りましょう。
40年間、一歩も歩けなかった男性が癒され、自分の足で主の宮に入り、礼拝をささげることができました。礼拝を終えても興奮冷めやらずでしょうか、なおもペトロとヨハネに付きまといながら、ソロモンの回廊を出てきました。民衆は非常に驚いて3人のもとに駆け寄ってきました。ペトロはその民衆に向かって、「この人が癒されたのは、あなたがたが十字架にかけて殺してしまったが、復活なさったイエス・キリストの名による愛の御業の結果である。わたしたちはそのことの証人であると言いました。これが先週までのお話で、かなり厳しい内容のメッセージでしたが、それに続く今日の箇所では少し語調が優しくなっています。
17節からペトロのメッセージは第二のポイントに入り、「あなたがたがイエス・キリストを十字架につけたのは、指導者たちと同様に無知のためであったから、その罪は消し去られる可能性がある。」と続けます。ここでペトロは聴衆に対して重大なことを伝えています。それは、「無知は罪」ということです。知らずにそういうことをしてしまったのだからと言っても、罪は罪です。そのままで良いわけがありませんが、救われる可能性も残されています。確かに彼らはイエス・キリストについて何も知ってはいませんでした。しかしその無知は、今朝、この礼拝で生まれて初めて聖書を手にして、イエス・キリストの福音を聴く人とは、少し事情が異なります。このことについては後で詳しく学ぶことにします。
わたしたちは時々これまでの歩みを振り返って、あの時、あの出来事がなかったらもっとましな人生を送ることができたのに、と考えることがあります。また、これからの人生のためにも消しゴムのようなものがあったら、どんなに便利かと考える人は少なくないと思います。もちろんこの世のどこにも、一人一人が自己中心的に願うような、都合の良い消しゴムはありません。しかし、神の御前に出るために、人生の汚点を完全に消し去っていただくことはできます。それはイエス・キリストが十字架の上で流された血潮です。もしあなたが、この方のみ前に悔い改めて立ち帰り、犯した罪の数々を思い出せる限り告白するなら、これまでの罪も汚れも偽善も悪い習慣も、偶像崇拝と言った一切の罪は消し去られ、赦されるのです。それと共に救いの道が開かれます。事実、イエス・キリストは、十字架の上でわたしたちの為に、執り成しの祈りをささげて下さいました。そこのところの聖書を読みましょう。
「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです。』」(ルカ23:34。新共同訳聖書 p.158、口語訳聖書 p.131、新改訳聖書 p.153)。
ペトロはこの祈りの言葉を覚えていましたから、「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。」(19節)と招きます。
わたしたちが自分の手でどんなに努力しても消すことのできない罪という人生の汚点を、天の父なる神はその独り子イエスを通して、十字架の血潮によって消し去ってくださいます。ただ消し去るだけでなく、全く清めてくださいます。わたしたちがなすべきことは、「悪から離れて祝福に与る」ために、ただ、イエス・キリストがわたしの罪のために十字架に死んでくださったこと、甦ってわたしの救い主となってくださったことを認めて、この神に立ち帰り、罪の悔い改めと、信仰を言い表すだけで良いのです。今、この方に立ち帰りましょう。
「無知は罪」というペトロのメッセージで教えられる第三のポイントは十字架上でとりなしてくださったイエスの祈りの豊かさです。皆さんお気づきになったでしょうか。あの祈りはもちろん聖書も聖書の神も知らなかったわたしたち、異邦人のための祈りであることは間違いありません。有難いことです。しかし、実のところ、あの祈りの中の「彼ら」とは、ご自分を十字架につけたユダヤ人を指しているのです。ユダヤ人は幼い時から、神の言葉である聖書に馴染んできました。しかし、聖書も神の力も信じていなかったのです。だから平気で神の御子イエス・キリストを十字架に釘打ち、死なせることができたのです。
22〜23節は申命記18:15,19からの引用(旧約聖書:新共同訳p.309〜310、口語訳聖書 p.273、新改訳聖書 p.307〜308)、また25節は創世記22:18からの引用です(新共同訳聖書 p.32、口語訳聖書 p.26、新改訳聖書 p.31)。このように、申命記と創世記を引用した理由は、ユダヤ人が拠り所とする律法は、モーセに始まってイエスにおいて成就し、アブラハムに与えられた祝福はイエス・キリストを通してすべての人に与えられるものであるとペトロは説き明かします。
彼らは常々、「神は我われだけに律法の書(創世記、出エジプト、レビ記、民数記、申命記の5巻)が与えられた」。また、「自分たちこそアブラハムの直系子孫で、神から選ばれたこの世界で唯一祝福の民である」と誇っていました。
ところで、「祝福」とは何でしょうか。それは、わたしたちが自己満足的に喜ぶことではありません。自分の欲望を満たしてくれることでもありません。ある人は、祝福とは「命の充足」だと言います。これは神によってこそ得られるものなのです。主イエスは、「わたしは命の門である」(ヨハネ10章)と言われました。主イエスを信じる生涯、これにまさる充足した人生、祝福された人生はありません。
日本語訳讃美歌の中で最も古い、「主、我を愛す」という讃美歌があります。アメリカ人宣教師、ジェームズ・バラという人が試みに訳したもので、1872(明治5)年に横浜で開かれた第一回宣教師会議で初めてうたった讃美歌です。当時のままで読みますと、
「エス ワレヲ愛シマス、サウ聖書申シマス、彼ニ子ドモ中、信ズレバ属ス、ハイ エス愛ス、ハイ エス愛ス、ハイ エス愛ス、サウ聖書申ス」
主イエスがわたしたちを愛しておられることは聖書を読めば分かると、この讃美歌はうたっています。
今日キリスト者であっても、日々の忙しさに追われて、聖書を読むのが面倒だと言う人、読むには読んでも、聴く耳を持たない読みかたをする人は、それぞれの生活において、イエスを十字架につけるような罪を犯すことがあるのです。誤った道、悪しき迷路から離れて祝福に与るために、十字架の上で激しい苦痛に耐えながら、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈ってくださったイエス・キリストを思い起こしましょう。 祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を心から崇めます。
今日もまた、貴いみ言葉を感謝します。無知は罪と、とあなたは言われます。この世には聖書を知らず、神の愛に気付かない人、ここに教会があることさえ知らない方が大勢います。どうぞそうした方々にこそ福音を届けるわたしたちとしてください。また、今日初めて礼拝に来られた方、まだイエス・キリストを信じるに至っていない方の心に、今こそイエス・キリストを信じ、受け入れる決心の時として下さい。
先に救われたとは言え、わたしたちキリスト者も、地上における信仰の旅路を全うして、あなたの御許に招き入れられるまで、まだまだ未完成な求道者に過ぎない者であることを深く思い、日々み言葉に養われることができますよう、わたしたちをお導きください。
救い主イエス・キリストの尊い御名によってお願いします。アーメン。