1978年、〈広島・長崎の被爆者から世界のヒバクシャへのよびかけ〜生か忘却か!〉というアピールに心砕かれたわたしは、NYでの第1回国連軍縮特別総会に参加しました。その原稿は、平和ノーベル賞を受賞されたノエル・ベーカー卿(英国)が書かれたものだと、後に知りました。ヒロシマから生き残ったわたしには、沈黙も忘却も許されないのだと、広島のもう一つの詩が甦りました。それは中国電気通信局慰霊碑に刻まれた碑文です。
「ひろしまの追憶は世界の追憶であれ ひろしまの嘆きは世界の嘆きであれ
天地の砕けたる日のくるしみを 告ぐることなく わが友は ここに眠る」
この言葉のもつ重みを背負いながらの証言は、過去と今の日本の歴史と向き合いつつ、〈ヒロシマを問う旅〉となりました。その重荷に苦しむ時、いつも迫る御言葉がありました。「あなたは、どこにいるのか」〜「あなたはわたしのもの、あなたの名をよんだ」と。 十字架の主の足許にひれ伏す思いで「主よ、どうぞみ心のままに」と、自分を明け渡したとき、「主の山に備えあり」と歩むべき道を示し、豊かな恵みを与えて下さいました。
その恵みの一つは、「知らないことは罪、知ろうとしないことも罪、なぜなら過ちを繰り返すから」でした。そして自分が知ったこと、体験した事々を伝える時、いつも新しい出会いのなかで、勇気を、知恵を、愛と許しと慰めを与えられ、希望を見たのです。
人類が戦いを続ける限り、イエス様を十字架につけ続けているわたしたちです。権力者が「神」の名で戦争を聖戦とし、勝利のために神の祝福を祈るこの矛盾。21世紀の今は、地球を壊滅的に滅ぼす力をもつ核兵器を万能とする人間が、神になろうとしています。
詩篇46編の御言葉に、〈いのちへの悔い改め〉を迫られます。
あなたの名を呼んで、その働きを求めておられる主が、あなたに与えられる御言葉は?。
メッセージに代えて、天野文子師の体験から2005のピースボート上で制作された
紙芝居「ひかりのたね」を掲載します。