メッセージ 高橋淑郎牧師
預言者マラキは、「あなたたちが待望している主は突如、その聖所に来られる。見よ、わたしは使者を送る。彼はわが道を備える。」と告げます。使者とは福音書に見るバプテスマのヨハネです。ヨハネの仕事は人々を悔い改めに導き、救い主を受け入れさせることですが、それは権力者の意に沿わず、投獄されました。イエスに対する確信が揺らいだのか、人を通して、「来るべき方(救い主)はあなたですか。」と尋ねました。イエスは、「わたしに出会う者が受ける恵みと幸いを報告せよ。」と答えました。ヨハネはこの言葉で確信しましたから、最後まで権力者に対して妥協の道を選ぶことをしなかったのです。
もう一人、福音の使者として立てられた人がいます。使徒パウロです。彼もまた福音のために獄に囚われの身となりましたが、彼にはイエスに対する疑いはありません。むしろ、「どんなことでも思い煩うのをやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)と勧めています。
主イエスを想起しましょう。全ての人に罪からの解放を告げながら、その道は十字架の死に続くものでした。命にいたる救いをもたらしながら、御自分を救うことのために一分一秒も用いなかったのです。
これがクリスマスを祝うということです。バプテスマのヨハネも使徒パウロも、十字架のキリストの道を踏みしめながら、罪びとを清めて聖所とし、宿ってくださるイエス・キリストに出会いました。 あなたも、あなたの今が辛く、孤独で、理解困難な問題と直面しているとしても、主を仰ぎ見て下さい。平和の神であり、救い主イエスはあなたを聖所とし、あなたの中に宿って下さるのです。
メッセージ 高橋淑郎牧師
ある日曜日のこと、教会学校の生徒が、自分たちを教えている先生の持っている聖書を見て、互いに語り合っていました。「先生の聖書こんなに字が小さくて、読めるの?」、すると、別の生徒が言いました、「バカ!みんな覚えているんだよ。」と。日ごろ先生から叱られてばかりいた生徒たちが、いつの間にか教会大好きな子に成長していました。そればかりではありません。神を畏れる心が芽生え、聖書を教えてくれる先生を尊敬する心が芽生えていました。その子どもたちが、「今に先生みたいに教会学校の先生になる」と約束してくれたということです。果たして約束通り、その後も教会学校に通い続け、イエス・キリストを信じる者とされ、教会学校の先生となり、現在も礼拝・礼典執事として、この教会に出席し続けている生徒がいます。その人の名は金田敬子さん。そのときの先生とは、岡本綾子さんです。「ハレルヤ 仙川キリスト教会20年の歩み」の中の一文を紹介させて頂きました。真にハレルヤ!です。
今日は43周年を記念する礼拝です。あれから更に20数年の間に多くの人が入れ替わっても、この教会に導かれる人が切れ目なく続いていることを感謝します。この地で、この教会で迎えるクリスマスは数えて今年で43回目です。これが更に50回、80回、100回と主イエス・キリストの再臨の日までこの教会が存在し続けるようにと祈ります。仙川キリスト教会宣教開始43周年の今朝、蝋燭の灯が3本になりました。待降節第3主日、主を待ち望む人々の胸に灯る希望の光が一層輝きを増してきました。主は近いのです。
さて、預言者マラキの時代、乱れきった神殿礼拝の実態を鋭く指摘しながら、預言者マラキは、「あなたたちが待望している主は突如、その聖所に来られる。備えはできているか。」と言います。イスラエルの人々は、何世紀もの間、苦難の中で救い主メシアの到来を待ち望んでいました。ユダヤ人の中には、「救い主はまだ来ない。いったい、神の約束はどうなったのか。」と、半ばあきらめかけている人もいたかもしれません。しかし、主なる神は約束を忘れる方ではありません。確かに主は突如来られました。しかし、マラキが預言したような聖所ではありませんでした。福音書によると、救い主は家畜小屋の飼い葉桶の中に産み落とされたのです。どうしてそこが聖所と言えるのでしょうか。
「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが道を備える。」とマラキは預言します。使者の語る神の言のメッセージを通して救い主を受け入れる時、その人の中に救い主が宿ってくださる。その時、飼い葉桶よりも汚れた罪の心が清められて、聖所とされるというのです。ではいったい、救い主の到来を告げ、その道を備えるこの使者とは誰でしょう。福音書はその使者とはバプテスマのヨハネであると証言します。主イエス・キリストもまたその通りであると認めておられます。確かにヨハネこそ、人々の心の道を整える預言者でした。預言者ヨハネの仕事は人々を悔い改めに導き、救い主を受け入れさせることでした。
しかし、間もなく権力者が彼の活動を停止させ、投獄してしまいました。今や、彼の生死は権力者の気まぐれによって風前の灯です。ヨハネは、自分の仕事に確信をもちたいのです。無駄ではなかったという安心がほしいのです。彼は若き日、預言者として召命を受け、その務めを忠実に果たしてきました。示されるままに、彼は人々に悔い改めの道を語りましたが、それは権力者の意に沿わず、結局「出る杭は打たれる」の例えで命を縮めることになりました。さすがのヨハネも死刑執行を待つ今となって、少しその確信が揺らぎ始めたのでしょうか。面会に来た弟子を通してイエス・キリストに、「あなたこそ来るべき方(メシア)だと信じてよいのですね。」と問わせました。マタイによる福音書11:3を見てください。そして4節以下を見てください。主イエスはヨハネの問いかけに対して、肯定も否定もしておられません。その代わり、「見聞きしたことをありのままヨハネに伝えよ。」と言われました。これが答えです。
確信が揺らいだとはいえ、その答えをイエス・キリストに求めたことは正しいことでした。イエスはヨハネの使者に対して、「わたしに出会う者が受ける恵みと幸いを報告せよ。わたしにつまずかない者は幸いである。」と言われました。ヨハネにとって、イエス・キリストのこの言葉で十分でした。たといこの世で報いられない最後であっても、それは敗北ではないのだ、空しくはないのだという確信が与えられました。だから彼は最後まで権力者に対して妥協の道を選ぶことをしなかったのです。
もう一人、福音の使者として立てられた人がいます。使徒パウロです。彼もまた福音のために獄に囚われの身となりましたが、しかし、彼にはイエスに対する微塵の疑いもありません。むしろ、獄の外にあるフィリピ教会の人々に向かって、「どんなことでも思い煩うのをやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピの信徒への手紙4:6)と勧めています。
イエス・キリストご自身がそうでした。福音を伝え、全ての人に罪の縄目からの解放を告げながら、その道は十字架の死に続くものでした。解放の喜び、命にいたる救いの福音をわたしたちにもたらしながら、御自分を救うことのためには一分一秒も用いなかったのです。
これがクリスマスを祝うということです。混沌とした心の闇に、また受け入れられない状況の中に、待望の救い主は突如としておいでになります。バプテスマのヨハネも使徒パウロも、十字架のキリストの道を踏みしめながら、罪びとを清めて聖所とし、宿ってくださるイエス・キリストに出会いました。 あなたも、あなたの今が辛く、孤独で、理解不能な問題に直面しているようであっても、あなた自身のあるがままを主イエス・キリストに委ねてください。主を仰ぎ見ることをやめないで下さい。救い主イエスはあなたを神の平和の宮、聖所とするために、あなたの中に宿って下さるのです。 祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神の御名を心から崇めます。
あなたは宣教開始から43年、この地に会堂を与え、今日まで必要に応じて牧師、宣教師、信徒を用いて伝道活動と教会形成を導いてくださっていますことを、心から感謝します。
貧しい者、虐げられている者、罪の重荷に打ちひしがれている者を救うために、イエス・キリストはこの世に生まれてくださいました。このクリスマスを待ち望むアドヴェント第3主日の朝、わたしたちはわたしたちを愛してくださるあなたを仰ぎ見ながら与えられた生を全うしたいと願っています。どうか主よ、わたしたちの心の飼い葉桶を清めて聖所となして宿ってください。私たちの主イエス・キリストの御名によって。 アーメン。