「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」と神は言われます。このメッセージを受けるまでのヨセフがマリアに対してできる正しさの実証は、「ひそかに離縁する」ことでしたが、神が人に対する正しさは二人を引き離すのではなく、聖霊によって彼らを聖く結びつけ、祝福することでした。マリアの内に救い主を賜った聖霊は、「あなたのただ中に住まう」と重ねて預言されているように(旧約聖書 ゼカリヤ書2章14,15節)、ヨセフとマリアのただ中に宿って下さる方です。救い主がこの罪深い世界に来てくださる。この神に帰依し、この方を受け入れる者が神の民と見なされることによって、その人は聖霊を宿す神の宮とされます。そして、「すべて肉なる者よ、主のみ前に黙せ。主はその聖なる住まいから立ち上がられる」とゼカリヤは預言します。主は今立ち上がり、人の子としてこの世界に降誕なさるのです。「その子をイエスと名付けなさい。・・・その名はインマヌエル(=神は我々と共におられる)」と呼ばれる者として。
救い主の到来はマリアとヨセフにとって困惑であり、苦悩でした。信仰者だから受ける試練です。しかし神は神に従う人を清めて、ご自身のものとして聖別するために、時にこのように人間の理解を超えた訓練をお与えになるのです。「その名をインマヌエルと呼ばれる方」の支えと助けなしに、この訓練を耐え忍ぶことは不可能です。
クリスマスアドヴェント第4週に入った今日、わたしたちはどのような心で救い主を待ち望むべきでしょうか。ただインマヌエルの主のみ前に静まることです。自分を主として歩んできたわたし達が、神こそ主であり、王であることを告白することです。静まるとはそういう意味です。
わたしがこの教会に赴任して1ヶ月余り経った1997年12月14日の主日礼拝と、次の年の5月24日の主日礼拝も同じ聖書テキストからみ言葉に聴きました。覚えている方も多いと思います。今日で同じ聖書テキストから聴く3度目のメッセージです。実は二度目のメッセージは、その前の5月17日から2003年4月27日まで、おおよそ6年がかりでマタイによる福音書を読んだ中でのものでした。不思議なもので、同じテキストを何度読んだからといって、いつも同じメッセージではなく、その都度新しい光が与えられるものです。皆さんも、前2回のメッセージを思い出しながら今朝与えられた神からのメッセージに耳を傾けてください。
さて、ルカによる福音書はマリアに対する受胎告知を中心に書かれています。彼女には婚約者ヨセフがいましたが、著者ルカはなぜかヨセフについて、それ以上のことを何も記録していません。しかし、マタイによる福音書にはヨセフを中心にこの問題がどのように解決されたか詳しく書かれています。愛する婚約者のマリアから妊娠を告げられたとき、ヨセフは困惑し、苦悩しました。ヨセフにとって、それは全く身に覚えのないことであり、まさに青天の霹靂でした。どうやら彼女はヨセフに妊娠の事実を告げただけで、詳しいことは何も話さなかったようです。
「夫ヨセフは正しい人であったので」と言う著者の説明を、私たちはどのように読み取ればよいのでしょうか。ある人はヨセフの正しさとは、ヨセフの思慮と誠実さの表現でもあったと解説しています。天地の主なる神を満足させることにいつも心を寄せている人、思慮深く誠実な人であればなおのこと、律法に照らしてこの事実をうやむやにしたまま、マリアを妻として受け入れることはできないという結論に至ったのです。「表ざたにするのを望まず、ひそかに離縁する」ことがマリアにしてやれる最後の、そして精一杯のいたわりだと考えたのです。
しかし、神は「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」と言われます。ヨセフがマリアに対してできる正しさの実証は、「ひそかに離縁する」ことでしたが、神の人に対する正しさは二人を引き離すことではなく、聖霊によってこの二人を今まで以上に聖く結びつけ、祝福することでした。マリアの内に救い主を賜った聖霊は、ゼカリヤが「あなたのただ中に住まう」と重ねて預言しているように(2章14,15節)、ヨセフとマリアのただ中に宿って下さる方です。救い主がこの罪深い世界に来てくださる。この神に帰依し、この方を受け入れる者が神の民と見なされることによって、その人は聖霊を宿す神の宮とされます。そして、「すべて肉なる者よ、主のみ前に黙せ。主はその聖なる住まいから立ち上がられる」とゼカリヤは預言します。主は今立ち上がり、人の子としてこの世界に降誕なさるのです。「その子をイエスと名付けなさい。・・・その名はインマヌエル(=神は我々と共におられる)」と呼ばれる者として。
救い主の到来はマリアとヨセフにとって困惑であり、苦悩でした。信仰者だから受ける試練です。しかし神は神に従う人を清めて、ご自身のものとして聖別するために、時にこのように人間の理解を超えた訓練をお与えになるのです。「その名をインマヌエルと呼ばれる方」の支えと助けなしに、この訓練を耐え忍ぶことは不可能です。
クリスマスアドヴェント第4週に入った今日、わたしたちはどのような心で救い主を待ち望むべきでしょうか。ただインマヌエルの主のみ前に静まることです。自分を主として歩んできたわたしたちが、神こそ主であり、王であることを告白することです。静まるとはそういう意味です。
メッセージの後に応答する讃美歌167番はチャールズ・ウェスレーの詩をメンデルスゾーンが作曲したように見られますが、メンデルスゾーン自身は、この曲を世に出すにあたって、出版社にあてた手紙の中で、「・・・この曲は必ずや歌う人にも聞く人にも喜ばれると思うのですが、宗教的な言葉をそれに当てはめるということは至難かもしれません。適当な歌詞があるとすれば、それは明るく且つ一般受けするものでなければなりません。なぜならば、音楽それ自体がそれを要求しているのですから・・・」と書き送っています。これが作曲された年代を多くの讃美歌集が1840年のものとしていますが、当時最も権威ある讃美歌編集の出版社が誤って世に紹介したためで、正しくは教団讃美歌の通りで1846年だということです。
それはともかく、彼の死後この曲はウィリアム・カミンングによって編曲され、メンデルスゾーンの期待に反して、きわめて宗教的なウェスレーの詩が採用されました。編曲者カミングさんの希望か、あるいは後世の解説者の希望によるものか分かりませんが、この曲は歯切れよく歌ってほしいということです。特におたまじゃくしのすぐ後ろについている黒い点、この讃美歌では四分音符についていますので、付点四分音符というそうですが、ここにアクセントをつけて、また「ききてもろびと」のところと、「いまぞ生まれし」の部分は力強く歌ってほしいということです。何しろカチンさんはその頃著名なテノール歌手でもあったので、高い部分を歌うときは、神の栄光を高らかに歌ってほしいと強調したかったのではないかと解説している人もいます。
この詩の作者チャールズ・ウェスレーという人は、兄ジョンと共にメソジスト運動に参加してキリストに倣い、「全き愛」の実践に熱心な人でしたが、この詩はルカ2:14の「天には栄光神に、地には平和が世の人々に」と歌った天使の大合唱を背景に作ったものです。神の御心がどこにあるのかわからない、けれどもその身を主のはしためとして献げたマリアと、この後どのような運命をたどるか分からないにもかかわらず、聖霊に励まされ、支えられながらマリアを妻として受け入れ、インマヌエルの主をただ中に受け入れたヨセフの信仰を思い、更にそのような二人の中に降誕して十字架への第一歩を歩み出して下さったイエス・キリストを歌う喜びに満たされた讃美歌です。歯切れよく、しかし心込めて歌いましょう。 祈りましょう。
「神はすべてを時宜にかなうように造り、また永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは赦されていない。」(コヘレトの言葉3:11)
主イエス・キリストの父なる神の御名を心から崇めます。
真にあなたのなさることは皆その時に適って美しいです。しかし、わたしたちはあなたの御業のすべてを見極めることはできません。ヨセフも、あなたがマリアに抱いておられるご計画を知るまではそうでした。しかしその大きな試練の中で、あなたがインマヌエルの主であると示してくださったとき、ヨセフは全てをあなたに委ねることができました。
主よ、わたしたちもまた突然の試練の前で立ち往生することがあります。しかし今日与えられたみ言葉によって、その試練こそがインマヌエルの主に出会う道であることを知ることができました。こんなもののために救い主をおあたえくださった主に感謝して、心いっぱいあなたを讃美させていただきます。
私たちの主イエス・キリストの御名によって。 アーメン。