新年主日礼拝メッセ−ジ要約】                         2006年1月1日
 
イエスと名づける
ルカによる福音書 2章21節
「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。
これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。」
メッセージ 高橋淑郎牧師

 マリアとヨセフは幼子に、「イエス」という名をつけました。マリアが結婚前に身籠ったことを知って悩むヨセフに、神の御使が「これは聖霊の御業であるから安心して彼女を妻として迎えなさい。生まれてくる子にはイエスと名づけなさい。」(マタイによる福音書1:21)と告げられていたからです。

 「イエス(「主は救い」という意味)」のご本質は、「インマヌエル(「神はわたしたちと共におられる」という意味)」という恵みに満ちたお方なのです。「イエス」、何と麗しい名前でしょう。割礼に始まり、割礼を必要とするユダヤ人の枠を超えて、異邦人のわたしたちをも救う全能の神として十字架の上にその御業を完成してくださいました。イエスこそ神であり、イエスこそインマヌエルとして、わたしたちと共にいることを保証する唯一の救い主なのです。使徒ペトロはイエスについて、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」と宣言しました(使徒言行録4:12)。

 新生讃美歌199番、「暗き闇に星光り」の作詞者レジナルド・ヒーバーは1826年4月3日、ある神学校で卒業礼拝のメッセージを取り次ぎましたが、その夜入浴中意識不明になり、ついに返らぬ人となりました。死因は脳卒中でした。その日彼が卒業礼拝で取り次いだメッセージの一部を紹介したいと思います。

 「さて諸君、主を信じ、主を愛する思いに満たされてここから出て行きたまえ。諸君と諸君に信仰を勧めた人たちの一人でも信仰から脱落しないよう常に祈りなさい。やがて罪と憂いのない永遠の歓喜の世界、神を目の当たりに仰ぎ得る世界に行き着くことができるように祈りなさい。」

 

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新年主日礼拝メッセ−ジ】                         2006年1月1日

 
イエスと名づける
ルカによる福音書 2章21節
「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。
これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。」
メッセージ 高橋淑郎牧師

 

 教会カレンダーに忠実な教会の人たちにとって、クリスマスは昨年の12月25日で終わっていません。実はそこから始まるキリスト降誕の恵みを毎日指折り数えて神に感謝して日を過ごします。先ほど司式者に読んで頂きましたが、ルカによる福音書の著者は、イエス・キリストがベツレヘムの家畜小屋にお生まれになった八日目の今日、こんな出来事があったと書いています。ちょっと読んだだけではそれが38節まで続いているように思えますが、レビ記12:1−4(新共同訳旧約聖書p.179)を引用しながら読むと、八日目の出来事は21節だけで、22−38節はマリアの産後34日目以後の出来事であることが分かります。

 この日、幼子は人々の手で割礼を施されました。イスラエルの男子は生後八日目に、共同体への仲間入りのしるしとして割礼を受ける決まりになっています。これはアブラハムからモーセへと受け継がれ、レビ記の中で成文化された神の律法です。新約聖書に、「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」(ヘブライ人への手紙9:22)と教えられていますが、割礼はただ共同体の仲間入りを果たす社会的な決まりに止まりません。これによって幼子の罪が赦されてイスラエル、すなわち神の契約の民に加えられるという意義深いときなのです。

 しかし、イエスには清められなければならない罪はありません。では、天の父はどうして罪なきイエスに割礼を受けさせたのでしょうか。ここに神の大いなる御心があります。イエスが受けた割礼の意義は、「救いはユダヤ人から来る」(イザヤ書2:3→ヨハネによる福音書4:22)という預言の成就にあります。割礼とバプテスマはどちらも十字架を象徴するものです。イエスが受けたバプテスマは、それによって自ら教会の頭となるしるしを意味しますが、割礼によって流された血は、やがて十字架の上に流される血を象徴するものであり、死と甦りによって私たちの罪が赦され、清められ、永遠の命に生きるという約束を伴うものなのです。

 初期キリスト教会の中には、幼いときに割礼を受けたユダヤ人がいました。彼らは、「イエスも割礼をお受けになったのだから、あなた方がイスラエルの共同体、キリストの教会に加わりたければ、イエスの模範に倣ってバプテスマを受けるだけでなく、割礼も受けなければならない。」というように、異なった福音をもって異邦人を悩ませました。しかしキリストの使徒パウロは、「イエス・キリストが十字架に流された血によって割礼の意義は果たされた。だから、救われるために必要なのは認罪と悔い改めと信仰告白だけであって、もはや割礼の必要を認めない。」(ガラテヤの信徒への手紙2章)と言い切ることができました。十字架上で流された血、そして死と甦りにおいて罪の贖いと清めに必要な全てが備えられていることを発見したからです。いわばヨセフとマリアは彼ら自身さえ知らないうちに、割礼から十字架への橋渡し、律法から福音への橋渡しをするために選ばれた人たちだったということができます。

 またこの日マリアとヨセフは幼子に、「イエス」という名をつけました。これは彼らが考えに考えてつけた名ではありません。結婚前のマリアが身籠ったことで悩むヨセフのもとに、神から遣わされた御使が「これは聖霊の御業であるから安心して彼女を妻として迎えなさい。生まれてくる子にはイエスと名づけなさい。」(マタイによる福音書1:21)と告げられていたことを覚えていたからです。

 「イエス(「主は救い」という意味)」のご本質は、「インマヌエル(「神はわたしたちと共におられる」)」という恵みに満ちたお方なのです。「イエス」、何と麗しい名前でしょう。割礼に始まり、割礼を必要とするユダヤ人の枠を超えて、異邦人のわたしたちをも救う全能の神として十字架の上にその御業を完成してくださいました。イエスこそ神であり、イエスこそインマヌエルとして、わたしたちと共に居られる唯一の救い主なのです。使徒ペトロはイエスについて、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」と宣言しました(使徒言行録4:12)。

 わたしたちはこの後応答讃美をしますが、新生讃美歌199番、「暗き闇に星光り」の作詞者レジナルド・ヒーバーは、ほかに教団讃美歌214番、「北のはてなる」など、生涯で57編の讃美歌を作った詩人です。

 敬虔なキリスト者の家に生まれ、早くから神を畏れ、イエスを救い主と信じていました。5歳から自発的に聖書を読み、祈りを欠かさなかったと言います。伝記というものは、とかく主人公をオーバーに書きますので、どこまで信憑性があるか疑えばきりがありませんが、幼いときから聖書と祈りに親しんでいたことは事実でしょう。42歳の若さで天に召された英国国教会の牧師でした。新生讃美歌1番の、「聖なる、聖なる、聖なるかな」は1826年の作ですが、彼の生涯の集大成とも言うべき信仰告白的遺作です。その年の4月3日、彼は連日の激務で非常な疲れを覚えながらも、請われるままにある神学校で卒業礼拝のメッセージを取り次ぎました。その夜入浴中意識不明になり、ついに返らぬ人となりました。死因は脳卒中でした。その日彼が卒業礼拝で取り次いだメッセージの一部を紹介しましょう。

 「さて諸君、主を信じ、主を愛する思いに満たされてここから出て行きたまえ。諸君と諸君に信仰を勧めた人たちの一人でも信仰から脱落しないよう常に祈りなさい。やがて罪と憂いのない永遠の歓喜の世界、神を目の当たりに仰ぎ得る世界に行き着くことができるように祈りなさい。」

 感銘深いメッセージと思いませんか。ここにはしっかり神学の勉強をしろ、名説教をしろ、立派な牧師になれ、などという言葉は一切見られません。「主を愛する愛に満たされるように」に始まり、「祈りなさい」という言葉がダイヤモンドのように散りばめられています。誰一人信仰から脱落しないよう、天のみ国に行き着くことができるように祈れと奨められているからです。

 新しい年が始まりました。毎年、地球規模で地震と大津波、猛暑と相次ぐ台風、そして列車事故などによって、多くの尊い命が一瞬のうちに奪われ、家を失い、今なお心身ともにその傷が癒やされないでいる人が少なくありません。特に昨年は心無い人による通り魔的な犯行によって、多くの幼い子どもたちが犠牲になりました。

 この世界が神の御心に適い、神の愛をもって互いに愛し合い、平和に日を過ごすことができるように、今年もこの地域に建てられた仙川キリスト教会のメンバーが、それぞれ遣わされた地域社会の中で、主イエスの名を呼び、主を畏れ、主を愛する者でありましょう。全ての人、特にまだ神を知らず、教会にきたことのない人々の救いを祈りましょう。

 

主イエス・キリストの父なる神の御名を心から崇めます。

 新しい年、あなたはあなたの独り子をイエスという名で呼ぶことをおゆるしになりました。この方にこそ救いと永遠の命が約束されているからです。さまざまな試練の中で苦しむこの世の人々のためにわたしたちの力では何もできませんが、全能の主であるあなたはわたしたちにできることを教えてくださいました。それはあなたを愛することと隣人の救いを祈ることです。

 どうか、全ての業において祈りをもって始め、感謝をもって終えることを忘れることのない教会とならせてください。

私たちの主イエス・キリストの御名によって。 アーメン。


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