【 主日礼拝メッセ−ジ要約】                          2006年2月26日   

 

「理解できなくても」
ダニエル書12:1−13
マタイによる福音書14:22−32
篠原健治牧師

1.「終わりの終わり」

 神様は、ダニエルにこの世の「終わりの終わり」に何が起こるかを語ります。「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」(ダニエル書12:2)

2.十分に語られない「終わりの時」

 しかし、神様はこの後のことについては、多くを語りません。「こう聞いてもわたしには理解できなかったので、尋ねた。『主よ、これらのことの終わりはどうなるのでしょうか。』彼は答えた。『ダニエルよ、もう行きなさい。終わりの時までこれらの事は秘められ、封じられている。』(ダニエル書12:8-9)

神様は、優れた預言者ダニエルにさえ、すべてを語ったわけではありません。神様は、最後にダニエルにただ「ダニエルよ、もう行きなさい」と語ります。

3.十分に語られない理由

 なぜ主イエスも神様も「終わりの時」について多くを語らないのでしょうか。

次の3つの理由が考えられます。

(1)神様は、残された時間、一人でも多くの人が救われることを望んでいる。

(2)人間が、神のご計画・ご意志のすべてを知ることは許されていない。

(3)神様は、私達が「今」という時を真剣に生きて欲しいと願っている。

4.「今」を生きるとは

 私達が「今」どんな状況でも真剣に生きるとは「一歩を踏み出す」ということです。主の前に一歩を踏み出した人物が、主イエスの一番弟子ペテロです。(マタイ14:22-33) ペテロは、主と目が合っている時は、水の上を歩くことができました。しかし、強い風に怖くなり溺れかけます。こんなペテロが、一番弟子と言われるのはなぜか。それは、彼が理解できなくても「一歩を踏み出した」からです。もし、彼が舟の中に留まっていたら、水の上より安全だったかも知れません。しかし、決して主の御手とつながっていることはできませんでした。あなたは、「今」目の前に差し出されている主の御手にはどう応えますか。

福音メッセージ一覧へ戻る


【主日礼拝メッセ−ジ】                         2006年2月26日   

「理解できなくても」
ダニエル書12:1−13
マタイによる福音書14:22−32
篠原健治牧師

 

1.はじめに

 4月から読んできましたダニエル書も最後の12章になりました。

 ダニエル書10章以降は、この世の終わりの預言についての記述でした。

 この世の終わりには、

 (1)偶像が一時的にはびこること

 (2)偶像により頼む者は、偶像によって滅ぼされること

 が預言されました。

 ダニエル書全体は、偶像礼拝がいかに罪であり、偶像礼拝がいかに虚しいものであることを一貫して語っています。

 そして、生けるまことの神を最後まで信じる者はどうなっていくのか。

 そのことが書かれているのが、ダニエル書12章です。

 

 私達は、ダニエル書12章を通して、

1.この世の終わりの時、復活の希望があること。

2.復活の希望があるからこそ、神様は、私達が今という時を一生懸命生きることを望んでおられること。

3.私達が今という時を一生懸命生きるとは、まず「一歩を踏み出す」ことであることを

  主イエスの一番弟子ペテロが湖の上を歩く奇跡の記事を通して聞いていきたい。

 

2.12章の概要

 神様は、ダニエルにこの世の「終わりの終わり」に何が起こるかをダニエルに語ります。

1:その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。
その時まで、苦難が続く/国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。
 しかし、その時には救われるであろう/お前の民、あの書に記された人々は。
2:多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り/
 ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。

 

 すでに死んで亡くなった者達がよみがえり、永遠の命につながる者とそうでない者とが分けられるというのです。

 

 3:目覚めた人々は大空の光のように輝き/多くの者の救いとなった人々は/

 とこしえに星と輝く。

 「目覚めた人々」とは、神を信じた人々のこと

 「多くの者の救いとなった人々」とは、生けるまことの神に仕えた者のことです。

 彼らは、星として輝くという預言です。

 生ける神を最後まで信じる者は、その人生は呆気なく終わることはない。

 迫害の中にあり、自分の命がいつ断たれるか分からない当時の人々にとって、復活の預言は、まさに「希望の御言葉」であったと言えるでしょう。

 

 しかし、神様はこの後のことについては、多くを語りません。

5:わたしダニエルは、なお眺め続けていると、見よ、更に二人の人が、
 川の両岸に一人ずつ立っているのが見えた。
6:その一人が、川の流れの上に立つ、あの麻の衣を着た人に向かって、
「これらの驚くべきことはいつまで続くのでしょうか」と尋ねた。
7:すると、川の流れの上に立つ、あの麻の衣を着た人が、左右の手を天に差し伸べ、
 永遠に生きるお方によってこう誓うのが聞こえた。
「一時期、二時期、そして半時期たって、聖なる民の力が全く打ち砕かれると、
 これらの事はすべて成就する。」
8:こう聞いてもわたしには理解できなかったので、尋ねた。
 「主よ、これらのことの終わりはどうなるのでしょうか。」
9:彼は答えた。「ダニエルよ、もう行きなさい。
 終わりの時までこれらの事は秘められ、封じられている。
10:多くの者は清められ、白くされ、練られる。逆らう者はなお逆らう。
逆らう者はだれも悟らないが、目覚めた人々は悟る。

 ダニエル書を今まで読んできた私達は、ダニエルがどんな窮地に追い込まれても、生ける真の神を信じる人であったことを見てきました。

 しかし、神様は、そんな優れた預言者ダニエルにでさえ、すべてを語ったわけではありません。

 ですから、ダニエルは、神様のご計画すべてを理解できたわけではありません。

神様は、最後にダニエルにただ「ダニエルよ、もう行きなさい」とおっしゃたのです。

そして、ダニエル書は終わるのです。

 

3.十分に語られない「終わりの時」

 主イエスもそうですが「終わりの時は近い」ということはおしゃいますが、終わりの時が「いつ」であるかは分からないと語っておられます。

ですから、神様はダニエルにも、終わりの時が「いつ」であるかは語りませんでした。

 ダニエル書12章11節の「千二百九十日」12節も「千三百三十五日」も神様の暦であって、人間の暦とは異なるものです。

 なぜ、主イエスも神様も、こと「終わりの時」について多くを語らないのでしょうか。

 

(1)神様は、終わりの時までの残された時間、一人でも多くの人が救われることを

   望んでおられるということ。

   ペテロの手紙二3:8−9

(2)人間は、神のご計画・ご意志をすべてを知ることはゆるされていないということ。

  もしこの私が、この世の終わりがどうなるかをすべて知っていたらどうなるでしょうか。

  私が、次々とこの世の終わりに何が起こるかを語り、その通りになったとしたら…。

  「人間」である私が「神」になってしまい、私はきっと驕り高ぶるでしょう。

  神様は、「人間」が「神」になること望んではおられないのです。 

(3)神様は、私達が「今」という時を真剣に生きて欲しいと願っているからです。

  もちろん、終わりの時どうなるかを完全でなくとも、知っていることは希望と言えば希望です。

  特に、復活の希望は、私達にとってはかけがいのない希望です。

  しかし、どうせ「終わりの時が来る」「復活する」のだからと、私達が怠惰に生きるならば、神様から与えられた尊い「命」を無駄にすることに他なりません。

  神様は、私達一人一人がが「今」どんな状況にあろうとも真剣に生きて欲しいと願っておられるのです。

 以上3つの理由から、私は、神様が「終わりの時」について多くを語らないと考え、信じています。

 

4.「今」を生きるとは

 それでは、私達が「今」どんな状況にあろうとも真剣に生きるとは、具体的はどういうことなのでしょうか。

 それは、「まず一歩を踏み出す」ということです。

 神様は、私達が「まず一歩を踏み出す」ことを求めておられるのです。

 

5.ペテロ

 神様の前に、一歩を踏み出した人物として、私たちは、ダニエルともう一人、主イエスの一番弟子ペテロが思い出されます。

 ペテロが一歩を踏み出す場面が書かれたのが、マタイ14:22−33です。

 

22:それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、
 その間に群衆を解散させられた。
23:群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。
夕方になっても、ただひとりそこにおられた。
24:ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、
 逆風のために波に悩まされていた。
 弟子達を乗せた舟、それは現在ガリラヤ湖で観光用として建造されたしっかりとした船ではなく、人がやっと乗れる舟だったと思われます。
 その弟子達を乗せた舟は、ガリラヤ湖特有の突風で、向こう岸になかなか到着することができませんでした。
 そして、まさに弟子達が逆風に苦しんで、どうしようもない時、主イエスは湖の上を歩いて弟子達のところにやってきます。
25 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子達のところに行かれた。
しかし、
26 弟子達は、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声を上げた。

 

それに対して、主イエスは、

27 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。
   「安心しなさい。私だ。恐れることはない。」

と弟子達に話しかけます。

 

 すると、一番弟子のペテロが主イエスに対して言います。

28 すると、ペテロが答えた。「主よ、あなたでしたら、私に命令して、水の上を歩いてそちらに行かせて下さい。」

それに対して主イエスは、ペテロに「来なさい」と言います。

29 イエスが「来なさい」と言われたので、ペテロは舟から下りて水の上を歩き、
   イエスの方へ進んでいった。
30 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けて下さい」 と、叫んだ。
31 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。

 

6.とにかく一歩踏み出したペテロ

 ペテロという弟子は、一番弟子と言われながら、大変気が小さい人間です。

 しかも、気が小さい割には、言うことは大胆です。

 主イエスにどんなことがあっても付いていくと言いながら、主イエスが、十字架につけれる時、主について3度知らないと白を切ります。

 今回も、なんと湖の上を歩いていて、主の元に行こうとするのです。

 ペテロは主と目が合っている時は、水の上を歩くことができました。

 しかし、強い風に気がつき怖くなり、彼は溺れかけます。

 そして、叫びます。「主よ、助けて下さい」と。

冷静に考えてみると、「いやはや困った人」と言えるでしょう。

主イエスもペテロに言います。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と。

 

しかし、それでもペテロが、一番弟子と言われるのはなぜでしょうか。

 ほかの弟子達とどこが、違うのでしょうか。

 それは、彼が「とにかく一歩を踏み出した」ということです。

 逆風の中、向こうからいらっしゃる主イエスに信頼して、とにかく一歩を踏み出したのは、他の弟子ではなく、ペテロ自身だということです。

 一歩踏み出して、彼は溺れかけます。

 そして、主イエスから言われます。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」

 「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われながら、ペテロはだれにつながっているでしょうか。

  31イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。

ペテロは、今、主の手によって捕らえられています。

 逆風の中溺れかけ、恐怖心が全身を覆います。

 そんな中でも、主イエスの手は、ペテロを捕らえているのです。

主イエスの「手」−。それは、どんな手でしょうか。

分厚い手でしょうか。がっしりした手でしょうか。暖かい手でしょうか。

 

その主イエスの手が、溺れかけたペテロにつながっています。

ペテロが一歩を踏み出したらからこそ、主イエスの手は、信仰の薄いペテロに差し出されているのです。

もし、彼が舟の中に留まっていたら、確かに水の上より安全だったかも知れません。

 しかし、決して主の御手とつながっていることはできなかったのです。

主の前に「第一歩」を踏み出す。これは、大変勇気のいることです。

 主に対する「信頼」がなければ、その一歩を踏み出すことはできません。

 

7.主を信頼することとは

ところで、「いつでも主を信頼して」が仙川キリスト教会の年間主題です。

 私達は、主を信頼して歩むということを言葉では理解しているつもりです。

 しかし、いざとなると、体がすくんでしまう。この私も同じです。

 だれしも、先のことが十分に分かって、安心して一歩を踏み出したいと願うものです。

 

 今回、私は、日野神明伝道所に遣わされようとしている。

 正直言って不安だらけです。

 不安だらけだった時、この聖書箇所がディボーションの箇所でした。

 心のどこかで、実は、主を信頼せずに、自分の分別に頼っている自分。

それは、ちょうど、強い風に気がついて怖くなり、溺れかけたペテロと同じです。

 それでも、主イエスはそんなペテロを、そんな私を愛して下さる。

 だからこそ、その御手を伸ばして捕まえて下さる。

「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と叱って下さっても、その御手をしっかりと伸ばして下さり、私達を捕まえていて下さる。

 主は、私達がどれだけ信頼しているかどうかにかかわらず、その御手を伸ばしていて下さるのです。

 私は、この御言葉から主からのチャレンジを御言葉を通して示されると確信しました。

 何よりも主が「来なさい」と招いてくださっている。

 仙川教会の皆さんが、背後で祈って下さっている。

 私も、今後どうなるか、たとえすべてを理解できなくてもペテロのように一歩を踏みだそう。

 あとは、それに対して、私達自身が素直にすがっていくかどうかである。

 私は、このように、御言葉と祈りの中で、神様から示され、日野神明伝道所に押し出さようとしているのです。

 

8.差し出された主の手

 今まさに、私達は、私達の目の前に差し出されている主の御手に、私達はどう応えていこうとしているでしょうか。

(1)まだクリスチャンでない人は、まず一歩を踏み出して欲しい。

 現実の信仰生活は「山あり谷あり」です。躓きもあるのも事実です。

 しかし、この山も谷も、そして躓きも後から考えると、一歩踏み出したからこそ、味わえる主の恵みであります。

(2)では、すでにクリスチャンの人はどうでしょうか。何か信仰的にチャレンジしていますか。

 信仰がマンネリになっているとしたら、

 それは、船の中で安住しているペテロ以外の弟子になっているかも知れません。

 自分は、このキリストの体なる「仙川キリスト教会」で何をなしていくのか。

 自分は、主から「仙川キリスト教会」において、どんな信仰的チャレンジを受けようとしているのか。

 もし私達が「主からどんなチャレンジを受けようとしているのか」

 「主の御心」「主の御計画」を求めることすら忘れているとしたら、

 こんなつまらない信仰生活はありません。

 

 ペテロのように人間的に失敗してもいいではありませんか。

 人間的に失敗していても、ペテロは主イエスの御手にしっかりとつながっているのです。

 それは、ペテロが、たとえ理解できなくても一歩を踏み出したからです。

 

 今、私達の心は燃えているでしょうか。

 たとえすべてを理解できなくても今、私達は新たなる第一歩を踏み出そうとしているでしょうか。

 たとえすべてを理解できなくても、主を信頼して一歩を踏み出したのは、ダニエルです。

 たとえすべてを理解できなくても、主を信頼して一歩を踏み出したのは、ペテロです。

 そして、たとえすべてを理解できなくても、主を信頼して一歩を踏み出すのは、

「今」ここに生かされている私達一人一人なのです。

 

ダニエル書12:8−10
8:こう聞いてもわたしには理解できなかったので、尋ねた。
 「主よ、これらのことの終わりはどうなるのでしょうか。」
9:彼は答えた。「ダニエルよ、もう行きなさい。
 終わりの時までこれらの事は秘められ、封じられている。
10:多くの者は清められ、白くされ、練られる。逆らう者はなお逆らう。
逆らう者はだれも悟らないが、目覚めた人々は悟る。
 
マタイ14:29−33
29:イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、
 イエスの方へ進んだ。
30:しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、
 「主よ、助けてください」と叫んだ。
31:イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。
32:そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。
33:舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

<祈り>

 天の父なる神様、あなたは私達がどんな逆風の中にあっても、その御手を伸ばして私達を救って下さいます。

 あなたをもっと信頼し、その御手にすがっていく勇気を与えて下さい。

 私達がそのために、一歩を踏み出す勇気を与えて下さい。そして、その御手を私達から離さないでいて下さい。

 まだ、あなたの恵みの御手につながっていない方がありましたら、その方にも御手を伸ばして下さい。

 この祈りを私達の救い主、イエス・キリストの御名でお祈りします。    アーメン。

 


福音メッセージ一覧

集会案内

質問・メール

キリスト教イロハ

聖書を読む