週の初めの日(日曜日)の明け方早く、今は亡きイエスを偲ぶひと時をもとうと墓を訪ねてきた数人の女性たちがいました。彼らは主イエスの弟子なのです。その手には香料がありました。死体が臭くならないようにという心遣いです。しかし、墓石は封印を解かれて脇に転がされている上に、中は空っぽです。主イエスの遺体はありません。彼女たちは途方に暮れました。気落ちしている情景が目に浮かびます。確かに葬ったはずの墓に遺体がないというのは大事件です。
その様子を見ていた輝く衣を着た二人の天使はこう言いました。「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と。それを聞いて、彼女たちの脳裏に一つの思い出が甦ってきました。それはイエスと過ごした懐かしい日々です。大切な教えや神の国について沢山の話をして下さったとき、イエスは折に触れて言っておられたのです。
「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」と。
彼女たちは御使のメッセージを聴くまで、イエスを過去形でしか思い出せなかったのです。これは男性の弟子たちにも言えることでした。イエス・キリストは復活されたと伝えられても、それを冗談としか受け取れなかったのです。あれから21世紀の時の流れを超えて、今日多くの人々からも、復活のメッセージは、「たわごと」としか受け止められていないのです。しかし、事実主イエスは甦られたのです。このメッセージに耳を傾け、単純に信じる人は、たとえその人の人生に今日終わりが訪れても、その命は今日始まるのです。復活の主イエス・キリストによって、復活の命に甦るのですから。
時を知っておられる神さまにあなたの人生をゆだねてください。
イースターおめでとうございます。
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」と主なる神の御使はお墓参りに来た女性の弟子たちに言います。このお墓には誰が埋葬されていたのでしょう。一昨日の金曜日に十字架の上で息を引き取られたイエス・キリストです。厳密にはイエス・キリストでした。この女性たちの名前はマグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリアとその他幾人かです。彼女たちは主イエスが葬られた墓をしかと見届け、週の初めの日(日曜日)の明け方早く、今は亡きイエスを偲ぶひと時をもとうと訪ねてきたのです。この時代、墓前に花を手向ける習慣はなかったのでしょう。しかしその手には香料がありました。死体が臭くならないようにという心遣いです。
しかし、墓石は封印を解かれて脇に転がされていて、中は空っぽです。どこを捜しても主イエスの遺体は見つかりません。彼女たちは途方に暮れました。この「途方に暮れた」については他の日本語聖書でも「狼狽して」とか、「詮方尽きて」とか、「為す術を失う」など、いろいろに訳されていますが、動揺し、慌てふためき、あちらこちら捜し回り、それでも見つからないので気落ちしている情景が目に浮かびます。確かに葬ったはずの墓に遺体がないというのは大事件です。
その様子を見ていた輝く衣を着た二人の人(著者は天使をこのように伝えています。いかに神々しい姿であったことでしょう)はこう言いました。「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と。それを聞いて、彼女たちの脳裏に一つの思い出が甦ってきました。それはイエスと過ごした懐かしい日々です。大切な教えや神の国について沢山の話をして下さったとき、イエスは折に触れて言っておられたのです。
「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」と。
彼女たちはイエス・キリストをとても愛していました。その一人、マグダラのマリアはイエス・キリストとの出会いを通して、絶望的な人生から立ち直らせて頂き、生きる力を与えられたのです。他の女性たちもそれぞれ危機的な状況から救われた経験を持つ人たちだったことでしょう。しかし、彼女たちの信仰には限界がありました。御使のメッセージを聴くまで、十字架に死なれたイエスを過去形でしか思い出せなかったのですから。これは男性の弟子たちにも言えることでした。彼女たちからイエス・キリストは復活されたと伝えられても、それを冗談、たわごととしか受け取れなかったのです。あれから21世紀の時の流れを超えて、今日多くの人々からも、復活のメッセージは、「たわごと」としか受け止められていないのです。しかし、事実主イエス・キリストは甦られたのです。
岸本羊一という牧師の著書、「葬りを越えて」の中に、このような一文があります。「わたしたちが日曜日に通っている教会の礼拝は、音楽付きで入場料が多少必要なキリスト教講演会ではなくて、イエスとイエスをめぐる対話の中で、わたしたちが生きた主イエス・キリストとの出会いを経験することです。」
この朝、あなたは何を求めて仙川キリスト教会の礼拝堂に入ってこられたのでしょうか。讃美歌の歌詞やメロディーの美しさに惹かれておいでになったのでしょうか。慈愛に満ちたイエス・キリストの立派な教えを聞くために来られたのでしょうか。興味深いたとえ話を聞きに来られたのでしょうか。もちろんそれは良いことです。しかし、十字架のイエス・キリストと出会うことは、あなたの人生をさらに豊かなものにします。そして、死んだのに甦り、今も生きておられるイエス・キリストを信じることは、あなたの人生を豊かにするだけでなく、あなた自身を造り変える力となるのです。主イエスは私たちの罪のために十字架に上げられたのに、その十字架の上から父なる神に、わたしたちの罪の赦しをとりなしてくださいました。わたしたちはそれによって救われました。主イエスは死んで葬られましたが、大いなる奇蹟が起こりました。不思議なことに三日目の朝早く甦られたのです。それによってわたしたちは罪の赦しを得ただけでなく、このイエス・キリスト救い主と信じることによって、わたしたちも復活の命、永遠の命を受けることができるのです。この事実を信じることが、イエス・キリストとの出会いを経験するという意味なのです。
教団「讃美歌21」の575番に、次のような歌があります。
1.球根の中には 花が秘められ、 さなぎの中から 命羽ばたく。寒い冬の中 春は目ざめる。 その日、その時を ただ神が知る。
2.沈黙はやがて 歌に変えられ、 深い闇の中 夜明け近づく。
過ぎ去った時が 未来を拓く。 その日、その時を ただ神が知る。
3.命の終わりは 命の始め。 恐れは信仰に、 死は復活に、
ついに変えられる 永遠の朝。 その日、その時を ただ神が知る。
このメッセージに耳を傾け、単純に信じる人は、たとえその人の人生に今日終わりが訪れても、その命は今日始まるのです。復活の主イエス・キリストによって、復活の命に甦るのですから。
その日、その時を知っておられる神さまにあなたの人生をゆだねてください。 イースターおめでとうございます。 祈りましょう。
天の父なる神さま。
御子イエス・キリストの御復活を覚えて心からあなたのお名前を崇め、讃美します。
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」と天使は墓詣でに来た女性たちに告げました。主なる神さま、同じように、このイースターの朝、み前にある人々が、いまだ死者の中にイエス・キリストを捜し求めておられるなら、どうか、今こそ復活のイエス・キリストに出会わせてください。この世でキリストに単なる望みをおく日々ではなく、永遠の命を受けて、あなたの御許に導かれる日を待ち望む者として下さい。
救い主イエス・キリストの御名にお願いします。アーメン。