「主がすべての災いを遠ざけて あなたを見守り あなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも 主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。」(7−8節)
旅人にとって「出る」と「帰る」は、出発から帰宅までのことですが、詩人はもちろん、そういう意味で歌い上げているのではありません。もっと雄大な時の流れ、わたしたちの人生そのものを言うのです。わたしたちの人生にはいろいろな出発点があります。誕生、入園式、入学式、卒園式、卒業式。成人式、就職、結婚式、定年など、思えば実にいろいろ経験します。では、わたしたちの帰るところ、人生の落ち着き先はいったいどこなのでしょうか。神は「創世記」から「ヨハネの黙示録」まで聖書全66巻を通して、私たちに問いかけておられます。「あなたはどこかから出て、どこに行くのか。」と。人生の出発点は病院の産婦人科ではありません。お母さんのお腹でもありません。わたしたちの人生の始まりは命の創造者である神によるのです。人生の終わりもまた、神に帰らなければなりません。人生の「出る」と「入る」を守るのは神だからです。命は神のもの、神から出て神に帰るべきものだからです。人生はわたしのものであって、わたしのものではありません。命は神から出て、神に帰るべきものなのです。自分の命も人の命もわがまま勝手に使って良いというものではありません。わたしたちの人生は神のご計画のままに用いて頂かなければならないのです。そうでないと、わたしたちは帰るべきところを見失ってしまいます。それは実に悲しい結末です。
あなたの人生は誰の為にあり、それをどう用いさせていただくかを心に留めてください。そして、あなたの目を上げて神が示してくださるヴィジョンは何かを祈り求めてください。
詩120−134まで合計15の詩編歌は元々、「上るための歌」(シル ラー マハロース)という表題がつけられていました。しかし、これは元々エルサレムの宮を目指す巡礼者の歌として作られた詩編ですから、「どこへ上るのか。シオンの丘にあるエルサレムの宮である。それならば・・・」、ということで、「都上りの歌」と意訳したものです。しかしいくつかの聖書は、「(音階を)上げる歌」(A song of degrees)、或いは「上昇の歌」(A song of ascent)という表題で訳している聖書もあります。
なぜくどくどとこんな前置きをしたかというと、詩人にとって、この表題はただの飾りではないのです。懐かしい都、エルサレムの宮を目指して巡礼者が、一段また一段と階段を上るように進み行く歌です。或いは捕囚された遠い異国の地で、はるか故郷を隔てる山々を見ながら、そのまた向こうにあるエルサレムを思いつつ詠んだ歌であり、まさに「上るための歌」なのです。彼らにとって礼拝とは、いと高き天に在ます主を仰ぎ見ることなのです。そういう思いのこめられた表題なのです。
「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。」
詩人は故郷を遠く離れた異邦の地で、はるか彼方の山々を仰ぎ見ながら神に祈りを捧げます。それはエルサレムの宮が建てられているシオンの山々を指すのでしょうか。それとも異国の山々なのでしょうか。いずれにしても、詩人はそうした山々に神秘的なものを感じてはいません。よしんばそれが、自分とエルサレムを遠く引き離す異国の山々であっても、その山に絶望しているわけでもありません。詩人はその高くそびえる山々の頂よりもっと高い所を仰ぎ見ています。天地を造られた主なる神を仰ぎ見ています。「風林火山」の旗印で有名な武田信玄の言葉に、「動かざること 山の如し」とありますが、イエス・キリストは、「もし、からしだね一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じてもそのようになる。」(マタイ17:20)と言われました。
ですから、シオンの山々がどれほど神々しく見えようとも、また異邦の地にあって、あたかも神の宮、エルサレムの都を隔てるこの山々がどれほど高くそびえていようとも、天地を造られた主、全能の神の救いの御手は、祈りの人に届きます。どっしりと構えた山々をも動かして、助けてくださるのです。
仙川キリスト教会は40数年の歴史ある教会です。神はこの後、この教会をどのように導いて下さるのでしょうか。過ぎた40年の歴史に確かな主の恵みの足跡、確かな救いの御手をわたしたちは認めることができます。しかし、そこに留まることはできません。わたしたちは前進しなければなりません。主の御許に近づかせて頂くために、主の御救いに与る魂がもっともっと沢山与えられるように、わたしたちは伝道の歩みをストップさせてはならないのです。主がお示しくださるヴィジョンに目を留めなければなりません。この詩人は、現実の厳しさにもめげず、神が啓示しようとして下さっているビジョンをはるか臨み見て、神の御許に近づくための歩みを再び始めています。それが3−4節です。
「どうか、主があなたを助けて 足がよろめかないようにし まどろむことなく見守ってくださるように。見よ、イスラエルを見守る方は まどろむことなく、眠ることもない。」
詩人は3節から、「あなた(たち)」と呼びかけています。多くの日本語訳聖書は、「主はあなたの足が揺らぐことのないように支え、また眠ることもまどろむこともなくあなたを守って下さる方です。」と訳していますが、新共同訳聖書ではわたしたちの為にとりなす祈りとなっています。讃美として読むか、祈りとして読むか、このことで議論することもないでしょう。一日の初め、お互いのためにこのように祈っても良いし、一日の終わり、お互いこのように感謝し、また讃美してよいのです。なぜならわたしたちの神は昼も夜も眠らず、まどろむこともない神だからです。また、「足」は生活そのものを意味しています。わたしたちの足は気をつけないとよろよろと偶像に向かいます。不道徳な生活、誘惑に負けて自分勝手な生活に足をとられてしまいます。或いは神を神と思わず、人を人とも思わない不信仰な人々の残酷な仕打ちを受けて、困難な生活を強いられることもあります。しかし、わたしたちの神は昼も夜もわたしたちを見ておられます。眠ることもまどろむこともなくわたしたちの歩みを守り導いてくださいます。5−6節は、この詩編のクライマックスです。
「主はあなたを見守る方 あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。昼、太陽はあなたを撃つことがなく 夜、月もあなたを撃つことがない。」
中東の昼と夜の寒暖の差は激しく、灼熱の太陽に照り付けられながら旅する人たちの苦労は大変だったでしょう。夜は夜でセム人の間では煌々と冴え渡る月明かりを不吉なしるしと恐れました。実際、寒さと戦いながら眠るつらさもあります。しかし、オアシスにひと時の暑さを凌ぐ木陰と水が、また巡礼の旅人を寒さから守る岩陰があるように、わたしたちの神は、わたしたちの人生の昼も夜も守り支えてくださるのです。「あなたの右にいます方」とは、不当な訴えを起こされて法廷で窮地に立たされる義しい信仰の人の弁護者として、無罪の判決を勝ち取ってくださるという意味です。詩人は最後にまたとりなしの祈りを捧げます。
それが7−8節です。
「主がすべての災いを遠ざけて あなたを見守り あなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも 主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。」
旅人にとって「出る」と「帰る」は、出発から帰宅までのことですが、詩人はもちろん、そういう意味で歌い上げているのではありません。もっと雄大な時間の流れ、わたしたちの人生そのものを言うのです。わたしたちの人生にはいろいろな出発点があります。誕生、入園式、入学式、卒園式、卒業式。成人式、就職、結婚式、定年など、思えば実にいろいろ経験します。では、わたしたちの帰るところ、人生の落ち着き先はいったいどこなのでしょうか。神は「創世記」から「ヨハネの黙示録」まで聖書全66巻を通して、私たちに問いかけておられます。「あなたはどこかから出て、どこに行くのか。」と。人生の出発点は病院の産婦人科ではありません。お母さんのお腹でもありません。わたしたちの人生の始まりは命の創造者である神によるのです。人生の終わりもまた、神に帰らなければなりません。人生の「出る」と「入る」を守るのは神だからです。命は神のもの、神から出て神に帰るべきものだからです。人生はわたしのものであって、わたしのものではありません。命は神から出て、神に帰るべきものなのです。自分の命も人の命もわがまま勝手に使って良いというものではありません。わたしたちの人生は神のご計画のままに用いて頂かなければならないのです。そうでないと、わたしたちは帰るべきところを見失ってしまいます。それは実に悲しい結末です。
これから教会キャンプに出かける人も、キャンプに参加しない人も、どうかこのことを心に留めてください。教会の新しい歴史はどこから始まり、どこに向かうべきか。あなたの人生は誰の為にあり、それをどう用いさせていただくかを心に留めてください。そして、あなたの目を上げて神が示してくださるヴィジョンは何かを祈り求めてください。
祈りましょう。
天の父なる神さま、御名を崇めます。
今日の御言葉とあなたが与えて下さったメッセージを感謝します。わたしたちは詩121編を通して、あなたの守りの御手が昼も夜もあることを知ることができたからです。あなたはわたしたちの人生はどこから始まり、どこにその目標を置くべきかを教えてくださいました。この世にはわたしたちがあなたの元に帰る歩みを妨げるいくつもの苦難があり、誘惑があります。どうか、わたしたちの目が低きに誘われ、罪の生活に陥ち行くことのないようにお助けください。詩人がシオンの山々とその向こうに備えられた主の宮を仰ぎ見ながら、この詩編をあなたにささげましたように、わたしたちもわたしたちの心の目を高く上げて、主の宮であるこの礼拝堂に、そしてあなたが備えてくださっているみ国を仰ぎ見つつ、わたしたちの祈りと感謝と讃美の歌をささげるものとならせてください。。
わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。