6−7節に書かれている、「前にも後ろにも一面に目のある四つの生き物とは、四福音書のこと」と解説してくれた人がいます。わたしもその教えを信じるひとりです。四福音書の著者は、それぞれに四つの生き物にイメージしてキリストを証言しています。マタイによる福音書は百獣の王である「獅子」のように、「王なるキリスト」を証言し、マルコによる福音書は、正反対に神の御子であるにもかかわらず、黙々と田圃(たんぼ)を耕す「若い雄牛」のように奉仕する「僕としてのキリスト」を証言し、ルカによる福音書は、弱さの中にある者、虐げられている者、貧しい者に寄り添って、心から同情して共に涙し、救いの手を伸べる真の隣人(となりびと)としての「贖(あがな)い主キリスト」を証言し、ヨハネは空中高く飛び、四方を見渡す優れた目を持って地上の獲物を窺う「鷲」のように、神の目線で地上にあって神を慕い求める人々、神に逆らい続ける人々の全てをみておられる「神なるキリスト」を証言しているのです。
このように、時代を超えて全世界に目を注ぎつつ、この四つの生き物、即ち四福音書著者たちの讃美が聞こえてきます。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」と。
24人の長老はこの讃美の声を聴きましたので、受けた冠を頭から外して御前に投げ出したのです。このように、先に召された信仰の先達でさえ天上にあって、神のみ前に己を空しくしています。
わたしたちも主の日ごとに礼拝において、四福音書が証する聖き神を讃美する聖歌隊によるメッセージを聴きましたからには、この地上で何某(なにがし)か受けている栄誉の冠を御前に投げ出し、跪(ひざまず)き、全てはただ主の御心によってなるものと感謝し、讃美しましょう。
今朝、わたしたちは主なる神の権威の御手に移された方々を記念する礼拝を献げています。特に彼らの信仰の足跡を辿りながら、父なる神からのメッセージに与りましょう。
机の上に並べられた写真の中には故人と共に、現在なお生存している人もいますが、それはそれなりに過ぎし日を想い起すよすがになることでしょう。並べられている写真の順番どおりではないかもしれないかもしれませんが、わたしの手許にある名簿順にご紹介させていただきます。( )内は召天日
高木鎭一・美津子ご夫妻(1954.10.15・82.11.13)は昭之兄のご両親です。関野九郎・はるのご夫妻(71.7.25、89.3.12)は岡本綾子姉のご両親です。鈴木洋男・菊枝ご夫妻(77.8.9、2001.7.13、2004.4.29)は鈴木美子姉のご両親です。白石伍郎・せつご夫妻(80.7.28、79.10.20)は、吉野純子姉のご両親です。角柄登喜雄兄(99.4.29)はタツ子姉の夫君です。服部貞子姉(99.10.13)は今年の2月に召された幸太郎夫人で、美枝子姉の母上です。今野高子姉(03.2.25)は、教会にご遺族がいらっしゃいません。大河内時子姉(04.11.2)は、保男夫人です。高橋シン姉(88.9.5)は、わたしの母です。
わたしたち仙川キリスト教会は、実に40数年の歴史有る教会ですが、召天された多くの方々も、かつては今皆さんが使っているそのベンチに座って礼拝をささげておられたのです。40年という時の刻みの重さに、感慨も一入(ひとしお)です。
「ハレルヤ−仙川キリスト教会20年の歩み」誌(1981年12月発行)に、今は召天者リストにその名を連ねている人々も投稿しておられます。1962年に母教会の三鷹バプテスト教会から送り出されてこの地に「仙川キリスト教会」の看板を掲げた開拓当初の証です。会堂は建ったものの、会堂の中には何もありませんでした。講壇も楽器もベンチもなく、必要な一切を全員手分けして調達、献品、献金しました。ある人はベンチの座布団を縫い、食器を寄せ集めて、少しずつ会堂らしい装いができていきました。当初台所は二階で、何かある度に1階と2階を駆け足で10往復はしたということです。そんなに不自由な中でも、毎日のように会堂に集まっては祈り、伝道チラシを持って配り歩き、会堂の中だけでなく、信徒の家庭でも集会を重ね、備品や家具だけでなく、求道者が一人また二人と与えられ、救われる人が起こされて行きました。そうして全くの無から今日の恵まれた教会への橋渡しをして下さったのです。
もう一つ25年前、この「ハレルヤ」誌を編纂し、投稿した当時の教会のメンバーの証の中で見逃せないのは、あの時代の人々の多くは大いなるビジョンに燃えていました。過去を忘れず、今を感謝し、その上10年後、20年後、自分たちの愛する仙川キリスト教会が更に前進、成長するために何が必要であるのか、祈り求めている姿がその証の端々にみなぎっています。そして彼らの幾人かは、わたしたちにその偉大な事業を託すかのように地上の業を終え、息絶え、復活の朝を待ち望みながら墓に眠っています。
今朝与えられたメッセージのための聖書テキストは、その彼らがやがて来るべき日、主のみ前で何を受け、何をもって主に仕えているかを証言しています。24人の長老は地上にあって厳しい時代を生き抜き、迫害に耐え、そして恐らく殉教して果てたと思われる人々の姿なのです。同時にこの24人の長老は歴史を超えて信仰に生きた人々の御国に招かれた、或いは招かれるであろう人々の姿でもあるのです。彼らは地上において大した報いも受けられず、死んで後葬られることもなく、遺体となってもなお犯罪人のように見捨てられたままかも知れません。一方天上においてはこの忠実な神の僕に対するもてなしの様子が見られます。地上の扱いとは全く異なって、永遠の神のみ住まいである聖なる玉座の周りに24の座が用意されていました。そして彼ら一人びとりの頭に忠実な信仰のごほうびとして栄光の冠りが与えられています。しかし、彼らはその冠を玉座の前に投げ出しました。気に入らなかったのでしょうか。もっと豪華なものがほしかったのでしょうか。いいえ、そうではありません。彼らは言いました。「自分たちはその冠を受けるに相応しくありません。栄光と誉と力とはただ神にのみ帰すべきものだからです。」と。彼らはどこまでも謙虚です。地上にあってこの上ない苦難の限りを受けつくして殉教した人々が、天上にあって彼らを慰める意味で与えられた神からの栄誉を受けるに値しないと返納しました。
6−7節に書かれている、「前にも後ろにも一面に目のある四つの生き物とは、四福音書のこと」と解説してくれた人がいます。わたしもその教えを信じるひとりです。四福音書の著者は、それぞれに四つの生き物にイメージしてキリストを証言しています。マタイによる福音書は百獣の王である「獅子」のように、「王なるキリスト」を証言し、マルコによる福音書は、正反対に神の御子であるにもかかわらず、黙々と田圃(たんぼ)を耕す「若い雄牛」のように奉仕する「僕としてのキリスト」を証言し、ルカによる福音書は、弱さの中にある者、虐げられている者、貧しい者に寄り添って、心から同情して共に涙し、救いの手を伸べる真の隣人(となりびと)としての「贖(あがな)い主キリスト」を証言し、ヨハネは空中高く飛び、四方を見渡す優れた目を持って地上の獲物を窺う「鷲」のように、神の目線で地上にあって神を慕い求める人々、神に逆らい続ける人々の全てをみておられる「神なるキリスト」を証言しているのです。
このように、時代を超えて全世界に目を注ぎつつ、この四つの生き物、即ち四福音書著者たちの讃美が聞こえてきます。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」と。
24人の長老はこの讃美の声を聴きましたので、受けた冠を頭から外して御前に投げ出したのです。このように、先に召された信仰の先達でさえ天上にあって、神のみ前に己を空しくしています。わたしたちも主の日ごとに礼拝において、四福音書が証する聖き神を讃美する聖歌隊によるメッセージを聴きましたからには、この地上で何某(なにがし)か受けている栄誉の冠を御前に投げ出し、跪(ひざまず)き、全てはただ主の御心によってなるものと感謝し、讃美し、そして祈りましょう。
天の父なる神さま。
わたしたちは先年、愛する方々をあなたの主権の御手にお委ねし、今朝また心新たにその一人びとりを記念する礼拝を献げています。この記念の礼拝のためにあなたはヨハネの黙示録4章の御言葉を与えて下さいました。わたしたちにとってこれらの方々を思う想いがあなたのみ心にかなったものであることを願わずにおれません。
聖書によると、あの24人の長老たちでさえ四つの生き物の讃美を聴いたとき、地上の信仰と忍耐の賜物として受けた冠をあなたのみ前に投げ出しました。あなたの聖さと栄光の輝きの前にはそれを受けるに値しないと認めたからです。彼らに続く沢山の召天者たちもまた同じことをしているに違いありません。これこそあなたのみ心にかなったことと信じます。
主よ、わたしたちも毎週主日礼拝の中で、あなたがお選びになった聖歌隊による讃美のメッセージを通してキリストの福音を聴くとき、わたしたちが受ける、この世の栄冠を脱ぎ去り、あなたのみ前に投げ出す者、あなたのみを讃美する者とならせて下さい。
救い主イエス・キリストの御名にお願いします。アーメン。