【主日礼拝メッセージ要約】 2007年9月30日
「 救いを見る 」
「生涯、彼を満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう」
詩91編16節
今日の朝、わたし達の教会では「長寿感謝」の礼拝を献げております。感謝というものの、いったい誰が誰に対して感謝する日なのでしょうか。長寿者が教会に対して感謝しなさいということでしょうか。聖書は「長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。」(レビ記19:32)と言います。感謝すべきはむしろ教会の側です。人生の先輩を教会に与えて下さっている神に感謝し、長寿者と呼ばれている一人一人に感謝し、尊敬の念を新たにする日なのです。
主イエスは十字架上でそのお手本を示して下さいました。「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹・・・が立っていた。イエスは、母とそのそばにいる 愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』と言われた。そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」(ヨハネ19:25−27)
福音メッセージ一覧へ戻る |
2007年9月30日
「 救いを見る 」
「生涯、彼を満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう」
詩91編16節
一般社会では9月17日を敬老の日と呼び、自治体ごとにその名に相応しい催しがなされました。わたしたちの教会では今朝、長寿に恵まれた方々と共に、生命の創造主である神に感謝し、この神を讃美するために呼び集められました。そこで与えられたテキストが詩91編です。司式者には16節だけを読んで頂きましたが、時間の許す限り、91編全編を通して、御言に心の耳を傾けたいと願っています。
この詩編は主なる神、主を信じる信仰の人、その信仰者に神の御心を伝える預言者のような人、計3人の方々が登場する対話集です。信仰者が預言者に促されて、「わたしの避けどころ、砦(とりで) わたしの神、依り頼む方」(2節)と信仰を告白し、神への讃美を歌ったとき、預言者は同じ心で喜びのうちに3−13節を通して、「神はあなたを救い出してくださる・・・あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり 獅子の子と大蛇を踏んで行く。」と神に頼る者に与えられる祝福の約束を取り次ぎました。特に11−12節は、主イエスが地上で宣教を開始しようとなさったとき、サタンが現れて荒野で彼を誘惑しようとして引用した聖書の言葉です。使徒パウロは、「サタンでさえ光の天使を装うのです」(Uコリント11:14)と言っていますように、サタンとか悪魔と呼ばれている者も、聖書の一部だけ引用して、人間の心をためし、言葉巧みに罪へと誘い込むのです。しかし、わたしたちの主イエスはサタンの狡賢(ずるがしこ)さをご存知ですから、聖書の言葉を引用して、彼を追い払ってしまわれました。それは次の御言です。
「イエスは言われた。“退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。”」(マタイ4:10)
皆さんも誘惑に遭いそうになったとき、この御言を思い出して、口に出してみましょう。そうすれば、あなたの心に囁きかけるサタンの誘惑を撃退することができるのです。
以上(1−13節)のように、信仰者の証と、その信仰者に対して神の祝福を取り次ぐ預言者のメッセージを喜ばれた主は、今度はご自身の口から信仰者の生涯を満ち足らせ、永遠の救いに与らせるという、この上ない祝福を約束して下さいました。これが14−16節の詩です。特に16節について、他の多くの聖書は「長寿」と訳しているのですが、不思議なことに新共同訳聖書だけは、「生涯」と訳しています。勿論これは誤訳ではなく意訳です。いつの時代も、「長寿」が必然的に満ち足りた人生、幸福を保証するものでないことを考えると、わたしたちが今手にしている聖書の方が自然と言えます。長寿であれ、早世であれ、地上にある一生の間、主なる神を慕う人に対する神の喜びはいかばかりでしょう。このような人生こそ、救いを見させて戴けるものとなるのです。反対に地上の生涯をいたずらに過ごし、良心に恥じる生き方を貫き、罪を認めず、悔改めないままに生涯を閉じる者に対する神の悲しみは深いのです。従って16節は、その意味でわたし達全ての人間に対して豊かな教訓を与えてくれる御言です。
「いつまでも生きていたくない。早く死にたい」とか、「わたしは何歳までに死にたい」と、言う人がいます。重い病の中にあり、絶え間ない苦痛に見舞われている人や、24時間人の世話にならないでは生きていけない人ならいざ知らず、そこそこ健康が守られている人が、もしこのようなことを考え、また口にするとしたら、これこそ自分に委ねられた命の重みを考えないで生命の創造主である神を冒涜する考え方です。キリストにある者にとって相応しい言葉とは言えません。キリスト者であれば、誰でも自分は生きているのではなく、生かされているのだという基本を知らないはずはないからです。だからこそわたし達は、命に対する畏敬の念を忘れてはなりません。創造主のみ前にもっと謙虚でなければなりません。それが16節を通して聴き取るべきメッセージなのです。
わたしたちの教会が、どうして「長寿を感謝」する礼拝を教会活動の一環として、教会カレンダーの中に位置づけているのか、その意味を改めて考えて見ましょう。わたしたちの教会には、「長寿」と申し上げてよろしいかと思われる姉妹がおられます。三鷹市大沢のどんぐり山特別養護老人ホームに入居中の石原ひろ子姉。また吉永明子姉は青梅市内の老人ホームに入居中と聞き及んでいます。そして健康状態が許す限り礼拝に来られている岡本綾子姉、角柄タツ子姉、仙波シゲ子姉の5名が与えられています。そこで皆さんにお尋ねします。長寿感謝礼拝と言いますが、いったい誰が誰に向かって感謝する日なのでしょうか。もちろん彼らが自発的に神に感謝し、教会に感謝することは良いことです。では、教会は彼らの感謝を当然のことと、ただ受けるだけでよいのでしょうか。
聖書は「長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。」(レビ記19:32)と言います。この御言に従えば、感謝すべきはむしろ教会の側のはずです。人生の後輩であるわたしたちは、この方々を教会に与えてくださっている神に先ず感謝しましょう。更に、彼ら一人一人に感謝し、尊敬の念を新たにする日なのです。
主イエスは十字架の上からそのお手本を示してくださいました。「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹・・・とが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる 愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』と言われた。そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」(ヨハネ19:25−27)
あの日、十字架上の主はその弟子に、「わたしはあなたのために、あなたの罪を贖い、あなたの救いを成就するために十字架に死ぬ。あなたはわたしのために何ができるか良く考えなさい。何もできないと思うか。あなたにできることが一つある。人は必ず老いて行く。その老い行く人に仕えることを学ぶことがわたしに仕える道である。」とお教えになったのです。教会に長寿、高齢の信徒が与えられていることを恵みと受け留めなさいと、主は言っておられるのです。主に仕える道は、弱い人に仕える道であるということです。長寿、高齢の方々もいたずらに人生を悲観して、自分で自分の命の終りを待ち望む不信仰をやめて、主に仕える心で、若い教会員にあなた自身を委ねましょう。このような霊の交わりの中に、わたしたちは、主の救いの確かさを見ることができるのですから。
そしてこれが今日、わたしたち全教会員に与えられた詩編のメッセージなのです。 祈りましょう。
天の父なる神さま、御名を崇めます。
いつの時代にも、長寿、高齢者と呼ばれている人の口から、「長生きはしたくないものだ。」という溜息ともつかぬ寂しい言葉が漏れてくるのを耳にすることがあります。
しかし、あなたは今朝、わたしたちになんとも豊かな慰めに満ちた御言を与えてくださいました。わたしたちがあなたを慕い求めてあなたの名を呼び求める限り、そして主にある教会の交わり、霊の交わりから離れない限り、わたしたちに賜った地上の歩みが何年であっても、その生涯は満ち足りたものとなり、主の救いの確かさを見ることができます。
主よ、どうか、この教会の全ての人々、またこのメッセージにふれることのできた一人びとりを大いなるみ腕の中に保護してくださいますように、み救いに与らせてくださいますように。
わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。