【待誕節第2週 主日礼拝メッセージの要約】 2007年12月9日
「栄光が全地に満つ」
主は言われた。「あなたの言葉のゆえに、わたしは赦そう。しかし、わたしはいきており、主の栄光は全地に満ちている。」
しかし、この神の栄光の輝きに照らされて、なお犯した罪を隠しおおせる者はいません。栄光に輝く神の御眼を逃れ得る者は一人もいないのです。ごまかしは通用しません。民数記14:21はそういう意味です。
あなたの心はこの栄光に輝く神の御眼に耐えられますか。罪の暗闇に蓋(おお)われていませんか。神はあなたの心の隅から隅まで見通しておられるのです。このままではあなたの人生は決して祝されないでしょう。しかし、神は感謝すべきかな、あの日、心頑ななイスラエルの民と、怒りに燃える神の間(はざま)にモーセという執り成し手が立ち、そのほころびを繕うようにして、切々ととりなしの祈りをささげたとき、神は御怒りを静め、裁きを下す御手を納めてくださいました。
今をさかのぼるおおよそ2千年の昔、この罪深いわたしたちと神の間に、モーセにもまさるとりなし手が与えられました。主イエス・キリストです。これがクリスマスです。
これでお分かりになったと思いますが、ここにクリスマスを祝う意味があるのです。クリスマスにはどうぞ、それぞれのお宅でツリーやさまざまなものを飾り、プレゼントを交換し、おいしいご馳走やケーキを食べて、どうぞ楽しんでください。
しかし、忘れないで下さい。クリスマスの本当の意味は、誰にも言えない心の闇、あなたの心の奥深くに隠されている罪という暗闇を、栄光の神が照らし出しておられる日であるということを。そしてその罪の赦しを執り成すために、弁護者であるイエス・キリストがお生まれになったのだということを。
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「栄光が全地に満つ」
主は言われた。「あなたの言葉のゆえに、わたしは赦そう。しかし、わたしはいきており、主の栄光は全地に満ちている。」
今読んでいただいたこの聖書箇所は彼らの先祖の故郷であるカナンを目指して荒野を旅するイスラエルの民に対する神のみ言葉です。しかし、この御言は13章から続いている出来事の流れで読まなければその意味が分かりません。それで少し要約的にお話しすることにします。エジプトを出て北上していたこの民は、早くもカナンの地に近づいていたのです。そこでモーセはイスラエル各部族から代表者を選ばせて合計12人を偵察隊として、早い話がスパイとしてその地に送り込みました。12人は40日かけてその地をくまなく調べ、その地の産物を携えて帰ってきました。そして、彼らはこの地がいかに恵まれた土地であるか、定住するにふさわしい土地であるかを報告して喜ばせました。カレブとヨシュアの二人は、神が善しとされるなら、我々に勝ち目がある。もともとカナンの地は我々の先祖が所有していた土地なのだから、と人々を鼓舞しようとしました。ところが12人のうち10人までが、カナンに住む人々の背の高さ、屈強さにはとても太刀打ちできるものではないからあきらめようと言うのです。多数の不信仰な意見は少数の正しい意見を踏みにじってしまいました。すると60万人に及ぶ群衆のほとんども、今更危険を冒して進むより、エジプトに帰ろうと言い出す始末です。この様子をご覧になった神は激しく怒り、この不信仰で神に反逆する民を全て捨て去ると言われました。
しかし、モーセはこの時、「どうか、あなたの大きな慈しみのゆえに、また、エジプトからここに至るまで、この民を赦してこられたように、この民の罪を赦してください。」(19節)と、モーセは今、神の大いなる慈しみにかけて、どこまでも民の救いのために、切々ととりなしの祈りをささげました。13−19節は、実に感動的で、涙なくして読めません。
神はモーセの切なるとりなしの祈りを聞き、その怒りを静めてくださいました。しかし神は神に逆らった罪びとを決して野放しになさる方ではありません。神の赦しには懲らしめが伴うことを私たちは学ぶべきです。その懲らしめとは、一つは不信仰な偵察隊がカナンの地を探るに要した40という日数に応じて40年間荒野をさまよわせること、二つ目は、その40年の間に、この不信仰な民は荒野に骨を埋めることになるのです。神を蔑んだ民たちは決して約束の地を見ることができないのです(22−23節)。カナンの土地を見、その地に入ることができるのは彼らの子孫なのです。
ここでもう一度21節に眼を向けて下さい。「わたしは生きており、主の栄光は全地に満ちている。」と主は言われます。いったい主の栄光の輝きとはどれくらいの明るさなのでしょうか。ヨハネの黙示録には、次のように書かれています。
「都は神の栄光に輝いていた。その輝きは、最高の宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。」(21:11)
更に、「わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりである。」(21:22−23)とあります。
この地上は太陽に照らされても、犯した罪を隠そう、なかったことにしようと、偽りのレッテルを貼ってそ知らぬ顔をする者が絶えません。白日のもとに曝されても、「記憶にない」という言葉で逃げようとします。
しかし、この神の栄光の輝きに照らされて、なお犯した罪を隠しおおせる者はいません。栄光に輝く神の御眼を逃れ得る者は一人もいないのです。ごまかしは通用しません。民数記14:21はそういう意味です。
あなたの心はこの栄光に輝く神の御眼に耐えられますか。罪の暗闇に蓋(おお)われていませんか。神はあなたの心の隅から隅まで見通しておられるのです。このままではあなたの人生は決して祝されないでしょう。しかし、神は感謝すべきかな、あの日、心頑ななイスラエルの民と、怒りに燃える神の間(はざま)にモーセという執り成し手が立ち、そのほころびを繕うようにして、切々ととりなしの祈りをささげたとき、神は御怒りを静め、裁きを下す御手を納めてくださいました。
今をさかのぼるおおよそ2千年の昔、この罪深いわたしたちと神の間に、モーセにもまさるとりなし手が与えられました。主イエス・キリストです。これがクリスマスです。
これでお分かりになったと思いますが、ここにクリスマスを祝う意味があるのです。クリスマスにはどうぞ、それぞれのお宅でツリーやさまざまなものを飾り、プレゼントを交換し、おいしいご馳走やケーキを食べて、どうぞ楽しんでください。
しかし、忘れないで下さい。クリスマスの本当の意味は、誰にも言えない心の闇、あなたの心の奥深くに隠されている罪という暗闇を、栄光の神が照らし出しておられる日であるということを。そしてその罪の赦しを執り成すために、弁護者であるイエス・キリストがお生まれになったのだということを。新約聖書には次のような1節があります。
「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。」(Tヨハネ2:1)
どうか、あなたの人生が光り輝くものとなり、誰の前にも包み隠す必要がなくなる日々となるために、また偽りのないものとなるために、今すぐに、あなたの心の闇に栄光の神、世の光であるイエス・キリストを信じ、受け入れてください。
最後に一編の美しい詩をご紹介して終わります。
1.光満ちて 輝く空 清らかな夜
優しい声 鳥はつどい 今日の日を祝う
優しい声 鳥はつどい 幸せを歌う
2.甘い声で 風に歌い 鳥たちは告げる
主は来ませり 人の罪を 救いたもう
主は来ませり この喜び 与えたもう
(カタロニア民謡より)
海野洋司訳詞
南安雄編曲
祈りましょう。
主よ!私は、あなたの恵みを忘れて生きていた罪を、今悔い改めます。私のために、執り成し手となってくださった、あなたの御恵みを覚え、心一杯に感謝します。
私たちの救い主イエス・キリストのお名前によって。 アーメン。