【待誕節第3週 主日礼拝メッセージの要約】                        2007年1216

喜 び 踊 る」 

ルカによる福音書1章39−56節

 

高橋淑郎牧師

エリサベトのお腹の赤ちゃんは、マリアの挨拶の声を聴くや、踊りました。天使から、「エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名づけなさい。・・・聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。」と約束されていた子どもです(1:13−16)。その言葉のとおり、エリサベトのお腹の子ヨハネは、マリアのお腹にいる子をキリストと知って、喜び踊りました。するとエリサベトも聖霊に満たされてマリアとマリアの胎児を祝福し、神を讃美して歌いました。


 ここに注目すべき言葉が見られます。「祝福」という言葉です。ある牧師の言葉に、結婚式などでは、「新郎・新婦を祝福して」という言葉は聞かれます。しかし、それ以外の場面では余りこの言葉を聞きません。これに近い言葉で、「幸福」という言葉はよく耳にします。似ているようですが、聴く側、或いはこの言葉を使う側においても、少し距離を感じます。「幸福」という場合には、どこか狭い範囲でしか意味されていません。これに対して、「祝福」という言葉には、自分以外の人に向けられていることが多いのです。例えば、このわたしが、「私に祝福があるように。」とは言わないのです。むしろ自分以外の誰かに向かって用いるのが正しいのです。この言葉には、他者に対する愛と共に、神に対する執り成しの祈りを感じさせる温かさがあります。エリサベトは決して、「救い主と預言者を胎児に持つ私たちは幸せですね。」とは言いません。続く「幸福」という言葉(45節)でさえも、マリアに対する祝福の意味で用いているのです。
 エリサベトもマリアもこのように、静かな喜びのうちに救い主のお生まれを待ち望み、クリスマス アドベントの日々を過ごしていました。

 

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【待誕節第3週 主日礼拝メッセージ】                            2007年1216

喜 び 踊 る」 

ルカによる福音書1章39−56節

高橋淑郎牧師

今日皆さんと共に分かち合いたい御言は、56節まで続いています。司式者に読んで頂いた聖書箇所は、45節までですが、46節からはわたしがリレーして読ませていただきます。

 「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。」(39節)
これは天使を通して神の御子キリストの受胎告知を受けた直後のマリアの行動です。彼女はどうしてこんなに急いでエリサベトのもとに行こうとしたのでしょうか。マリアの内側から溢れ出る喜びのためです。以前ある教会の主婦から、女性にとって、胎内に命を宿したときの幸福感は言葉では表せないものがあるとお聞きしたことがあります。マリアの場合はそれ以上のものがあったのです。突然、天使から聖霊による受胎告知を受けたとき、或いは彼女の中に、小さな村とは言え、ナザレにも自分と同世代の乙女は少なくなかったでしょうに、どうして自分が選ばれたのか、と戸惑いもし、恥ずかしさもあったことでしょう。しかし、これは神の御心から出たことであると聞かされたとき、彼女はその選びを素直に受け入れ、神のご計画のためにこの身が役立つのであれば、と献身しました。この召命、この献身は許婚のヨセフの心にも届き、ヨセフもまたマリアとマリアの胎内に宿った約束の子を受け入れる決心へと導かれたのです。世間の誰に誤解されても、嫌われても、憎まれても、夫となるべき人の支えさえあれば、妻たる者は耐えられるものです。
事実、ヨセフはマリアの妊娠の事実を知ったとき、苦しみもし、一時は内々に離縁さえ考えたのですが、天使を通して告げられた神のメッセージによって彼の信仰は揺らぐことなく、マリアと共に、全てを委ねる決心をしてくれたのです。マリアの喜びはいかばかりであったことでしょう。この喜び、この感謝の気持ちを誰と分かち合いましょうか。親戚のエリサベト以外には考えられなかったのです。なぜなら、エリサベトもまた、かなりの高齢なのに、神の御心によって妊娠していたからです。この神のご配剤を思うとき、マリアはいても立ってもいられなくなり、「急いで山里に向かい、ユダの町に」行きました。ユダの町とは神の宮のあるエルサレムです。聖書巻末の地図(6.新約聖書時代のパレスチナ)の通り、ナザレから直線距離にして凡そ100km余りですが、残念ながら直線コースはあってないようなものです。当時ガリラヤ州の人がエルサレムに行こうとすると、真ん中にあるサマリア州を避けて、一旦ガリラヤ湖まで行き、ヨルダン川を越えて、川沿いに南下して死海の近くから再び川を渡ってユダヤ州に入り、エルサレムへという具合に、迂回をしていました。マリア一人なら、サマリアの地でも、そこに住む人であっても偏見や差別なしに直線コースをとったかもしれませんが、女性の一人旅は危険ですから、誰かが付き添ったに違いありません。その付き添った人たちがサマリアを通りたくないと言った場合には、途中山あり、丘ありの険しく起伏の多い地であったでしょう。やがて南へ下るに連れて荒れ野の乾燥地帯を歩くのですから、その旅は困難を究め、通常の三倍程度の距離を要したに違いありません。


 やっとの思いでエルサレムに住むザカリアの家に入り、エリサベトに挨拶をしました。すると、エリサベトのお腹の子がマリアの挨拶の声を聞いて小躍りしました。考えてみると、胎児も6ヶ月を過ぎると動きがかなり活発になっていますからあり得ることです。話は横道にそれますが、わたしの姉などは妊娠初期から胎教に良いと教えられて、ずっとモーツァルトのレコードを聴かせていたそうですが、これといった反応も感じないままに生まれました。この息子が小学生になった頃、母親がコンサートに連れて行ったのは良いのですが、演奏中に指揮者を指差して、「あの音楽をかき回しているおじちゃんはどうしてあんなところに立っているの?邪魔やなあ、ラッパを吹いてる人がよう見えん」と叫んだそうです。
 そこへ行くと、エリサベトのお腹の赤ちゃんの反応は大したものです。お母さんとマリアさんの声を良く聞き分けて、挨拶の声を聞くや、お腹の中で踊ったというのです。天使から、「エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名づけなさい。・・・既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。」と約束されていた子どもです(1:13−16)。その言葉のとおり、エリサベトのお腹の子ヨハネは、マリアのお腹にいる子をキリストと知って、喜び踊りました。すると、エリサベトも聖霊に満たされてマリアとマリアの胎児を祝福し、神を讃美して歌いました。


 ここに注目すべき言葉が見られます。「祝福」という言葉です。ある牧師(蓮見和男師)の言葉を受け売りさせてもらうと、結婚式などでは、「新郎・新婦を祝福して」という言葉は聞かれます。しかし、それ以外の場面では余りこの言葉を聞く機会はありません。これに近い言葉で、「幸福」という言葉はよく耳にします。似ているようですが、聴く側、或いはこの言葉を使う側の心の中で少し距離を感じます。「幸福」という場合には、どこか自分もしくは狭い範囲の関係の中でしか意味されていないようです。これに対して、「祝福」という言葉には、自分以外の人に向けられていることが多いのです。例えば、このわたしが、「私に祝福があるように。」とは言わないのです。むしろ自分以外の誰かに向かって用いるのが正しいのです。繰り返すようですが、この言葉には、他者に対する愛と共に、神に対する執り成しの祈りを感じさせる温かさがあります。エリサベトはこの言葉を、マリアに対して、二度も繰り返しました。彼女は決して、「救い主と預言者を胎児に持つ私たちは幸せですね。」とは言っていないのです。45節の「幸福」という言葉さえも自分の為には用いず、マリアに対して、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう。」と、やはり祝福しているのです。


 すると、マリアはこのエリサベトの祝福を受けて、あの有名な讃美の歌を、わたしたち後世に残しました。実によく整えられた「讃美歌」です。余談ですが、最近は文字が段々簡略化されてきて、この「さんび」という言葉も、いわゆるゴンベン抜きの「賛美」という文字が大勢を占めるようになりました。しかし、わたしは古いと言われても、ゴンベンをつけた「讃美」という文字を使いたいのです。このこだわりは、恐らく主も許してくださるでしょう。讃美はその土台に詩(言葉)があるからです。音楽にはメッセージがあるはずです。言葉抜きの讃美はあり得ないのです。マリアは神に向かって、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの魂は救い主である神を喜びたたえます」と歌います。「崇める」とは直訳すると、「大きくする」という意味です。私たちは神のみ前に小さな存在です。小さくあらねばならないのです。高慢であってはなりません。傲慢であってはなりません。神を小さくしてはなりません。自分を大きくしたり、神を小さくしてしまっては、「讃美」にならないのです。わたしの霊が救い主の御手に握られてこそ、本当の喜びを味わうことができるのです。この世の中で身分低く、また無用とされていても、神はこのわたしに目を留めていてくださいます。マリアの「幸福」の根拠は、お金がある、地位がある、教育がある、この世で高い地位にある等というところにはありません。この世の有名、有能、有力な人にも優る全能の方が、わたしに偉大なことをしてくださったからです。「偉大なこと」とは何でしょう。


1)尊い御名、時代を超えて限りない憐みを、主を畏れる者に及ぼしてくださる偉大さです。
2)思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろしてくださる偉大さです。
3)身分の低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満たし、富める者を空腹のまま追い返す偉大さです。
4)イスラエルを、真にイスラエルたらしめて下さる偉大さです。
そして、彼女が「先祖」というとき、それはイスラエルの基を築いたモーセではなく、国土を持たない難民として、ただ神の導きのままに生涯を貫いたアブラハム(「信仰の父」の意)にさかのぼっているところに、この讃美歌の意味の深さを感じます。

 イスラエルとは、「神が支配される」という意味です。イエス・キリストがこられるまでのイスラエルは、神を礼拝し、神を讃美しながら、その実は神を小さくし、自分を高め、思い上がる者でした(この思い上がりは神が賜った神の独り子イエス・キリストをも退けたのです)。誤った選民意識の上にあぐらをかき、権力の座に固執していました。
まことに、主の母上として選ばれた主のはしためマリアの歌とも思えない、実に大胆な讃美です。とても即興で作ったとは思えない素晴しい讃美歌です。

 エリサベトもマリアもこのように、静かな喜びのうちに救い主のお生まれを待ち望み、3ヶ月の間、二人は共にクリスマス アドベントの日々を過ごしていました。
皆さんはいかがですか。あなたは今、どのような思いの中でクリスマスアドベントをお過ごしでしょうか。本当の喜びがあなたの心の内にありますか。もう一度、この二人の女性の信仰に学び、もっともっと自分を小さくし、神の偉大さを心に留めましょう。そうすれば、あなたの心は大いなる主の御心を知り、救い主を待ち望む喜びに満たされることでしょう。皆さんの上に祝されたクリスマスアドベントの日々でありますように。祈ります。


天の父なる神さま。あなたの御名を崇めます。
今日、私たちはマリヤとエリサベトの信仰からあなたに讃美をささげることの意味と喜びを知ることが出来ました。救い主のお生まれを待ち望む日々、どうか、わたしたちの心をもっともっと低くすることができますように、神と人の前に謙虚であることを学ばせてください。あなたの大いなることを、思いにおいて、言葉において、生活の全てにおいて証する者とならせてください。
わたしたちの救主イエス・キリストの御名によってお願い致します。 アーメン。


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