【主日クリスマス礼拝メッセージの要約】                        2007年1223

東方の星」 

マタイによる福音書2章1−12節

 

高橋淑郎牧師

星に導かれて東の国からはるばるクリスマスのお祝いに駆けつけた博士たちのことを考えましょう。
彼らは、毎夜星を観察していましたが、その中にひときわ大きく、そして強く輝く星を見つけました。あれはどういう星なのか。山と積まれた書物の中から手がかりを得ようと丹念に調べ始めました。その中には、ユダヤ人から譲り受けた聖書もあったことでしょう(旧約聖書 民数記24:17)。
ひときわ大きく、そして強く輝くあの星こそ世界が待ち望んでいるメシア、キリストのお生まれを告げる祝福のメッセージに違いないと確信して旅立ってきたのです。救い主は確かにユダヤのベツレヘムにお生まれになりました。
神はこの嬉しいメッセージを、遠く離れた東に住む異邦人にも告げ知らせ、その道しるべとして輝いて下さいました。同時に、神はこの博士たちの信仰という「星」を、今度はわたし達の上に輝かせて、わたし達をベツレヘムへと招き寄せて下さっているのです。
今から2千年の昔、博士たちははるばる、東の国から尊い献げものを携えてやってきました。そして幼子の前に黄金・乳香・没薬などを献げました。これが彼らのクリスマスです。味わったクリスマスの喜びです。彼らは携えてきた以上の恵みを受けて喜びのうちに帰って行きました。イエスを王なるキリスト、神と人の架け橋となってくださる真の祭司、罪の贖いを成し遂げて下さる救い主と信じることができたからです。
あなたは今日、東方に、星のように輝く信仰者の輝きが見えたでしょうか。彼らは黄金・没薬・乳香を携えてクリスマスのお祝いにやってきました。
あなたも、主イエスが喜ばれる「謙遜」と「悔い改め」と、「信仰の告白」という献げものをこの方の前に携えてきたことでしょう。どうかそれを今神のみ前に献げて下さい。
そして、共に挨拶を交わしましょう。「クリスマスおめでとうございます。」と。

 

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【主日クリスマス礼拝メッセージ】                        2007年1223

東方の星」 

マタイによる福音書2章1−12節

高橋淑郎牧師

今日は厳密に言うと、クリスマスを待ち望む最後の日曜日です。しかし、わたしたちは、クリスマスを祝おうとしてここに集められてまいりました。嬉しいのです。待ちきれないのです。一日や二日早く祝ったからといって、神はお怒りにならないでしょう。いや、喜んでくださるでしょう。ここで、クリスマスは本当に12月25日なのか、という理屈っぽい時代考証はやめて、素直に神の独り子のお生まれを祝うことにしましょう。


 わたし達は、この朝東の国からはるばるクリスマスのお祝いに駆けつけた博士たちのことを考えます。東の国から、ひときわ輝く星に導かれて幾人かの博士たちがエルサレムに、そしてベツレヘムに、救い主の御許にやってきました。


 博士達が東からやってきたのであれば、星は西にあったはずだ。どうして今日のメッセージの主題は「東方の星」なのか、といぶかる方々に申し上げたいのです。この博士たちこそが、わたしたちをクリスマスの本当の喜びへと導いてくれた星のように輝く神の証人(あかしびと)だからです。
彼らは、毎夜星を観察していましたが、その中にひときわ大きく、そして強く輝く星を見つけました。あれはどういう星なのか。山と積まれた書物の中から手がかりを得ようと丹念に調べ始めました。その中には、ユダヤ人から譲り受けた聖書もあったことは容易に想像できます。その聖書の巻物を開いたことでしょう。そこには次のように預言されています。
「わたしには彼が見える。しかし、今はいない。彼を仰いでいる。しかし、間近にではない。一つの星がヤコブから進み出る。一つの笏がイスラエルから立ち上がり、モアブのこめかみを打ち砕き シェトのすべての子らの頭の頂を砕く。」(旧約聖書 民数記24:17)


 ひときわ大きく、そして強く輝くあの星こそ世界が待ち望んでいるメシア、キリスト、平和の王のお生まれを告げる祝福のメッセージに違いないと確信して旅立ってきたのです。救い主は確かにユダヤのベツレヘムにお生まれになりました。神はこの嬉しいメッセージを、遠く離れた東に住む異邦人にも告げ知らせ、その道しるべとして輝いてくださったのです。そして、今日神はこの博士たちの信仰という星を、今度はわたし達の上に輝かせて、わたし達をベツレヘムへと招き寄せてくださっているのです。
博士たちはそれぞれの国から、ほぼ同時にエルサレムに導かれ、王宮に住むヘロデ王に拝謁して、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」と申し出ました。王宮には生まれたはずの救い主の姿はありません。けれども聖書学者たちがいて、メシアはベツレヘムで生まれたはずだと教えてくれました。王宮を出ると、はや太陽は西に傾き、空にはうっすらと月が顔を見せ始めていました。他の星は、まだそれらしい光も定かではないのに、例の星だけは、博士たちの行く先を教えるようにひときわ輝き、またたいています。星は相変わらず、彼らの歩調に合わせてゆっくりと進み、ついにベツレヘムへと導き、救い主の住む家の上に輝いてくれました。思えば博士たちを救い主の御もとに導いたこの星は、今日(こんにち)、はるかかなたの宇宙にある衛星通信と連動しているカーナビのようなものだと考えると、決して子どもだましのおとぎ話とは思えません。


 博士たちはついに念願の救い主にお目にかかることができました。ルカによる福音書ではこの幼子は、まだ「乳飲み子」と呼ばれていましたが(ルカ2:16)、マタイによる福音書に登場する博士たちが到着した頃には、既に「乳飲み子」ではなく、「幼子」と呼ばれる1歳か2歳にはなっておられたようです(マタイ2:16)。この幼子こそ神のみ使から「イエス」と呼ぶように命ぜられていた(同1:21)待望のメシア、キリスト、世の救い主です。
一方2:16以後を読むと、ヘロデ王もまた、東からきた博士たちと同じように、聖書学者たちが読み聞かせてくれた聖書から、この幼子がいつごろベツレヘムに生まれたかを確認しました。しかし同じ聖書の解き明かしを受けながら、ヘロデはあの博士たちと違う感想をもち、恐ろしい計画を立て、それを実行してしまいました。ヘロデは幼子イエスのお生まれをヘロデ家から王座を奪うライバルの出現と思い違いをして、災いの芽は小さいうちに摘み取ろうと、ベツレヘムに生まれた2歳以下の赤ちゃんを皆殺しにせよと命令を下したのです(2:16)。


 このように、救い主ご降誕の知らせを聖書から聞いても、一方にヘロデのような人がいます。罪のために暗く、ドロドロとしたものがバリアとなり、心を閉ざしてしまっているので、そのような人の中には命の光が届かないのです。神のみ言葉が届かないために、人をも自分をも不幸にしてしまいます。聖書はこのような人について次のように言っています。
「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆(そそのか)されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を産みます。」(ヤコブ1:14−15)
イエス・キリストは神の独り子です。この方こそ世の救い主として天の王座から人のかたちをとってこの地上に生まれてくださいました。この方について、聖書は次のように言っています。


 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執(こしつ)しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6−8)
神がこの世に介入されたことによって、この世に愛が生まれました。愛はまた新しい命を生みます。キリストがもたらしてくださった愛と命は人間をへりくだらせ、キリストに従う人生を送る者へと造り変えます。また、その人たちの心に愛が宿ります。


 あの博士たちがそうでした。この世の知識を豊かに蓄えて博士と呼ばれるほどの人でありながら、かえってへりくだり、神こそ全知全能の方と認めることができました。彼らは神から与えられた智恵をもって、世の救い主である幼子イエスのみ前に、どのようなささげものがこの方に相応しいかを知っていました。

 彼らは、この幼子こそ全世界を統べ治める方であり、御国において、また地上において、一切の権能を帯びてお生まれになった王であると知り、この真の王であるキリストに相応しい「黄金」をささげました。神の聖さと偉大さを象徴する黄金の輝きについて、聖書はこう言っています。
「わたしは、語りかける声の主を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見え、燭台の中央には、人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。・・・」(黙示録1:12−13)

 また彼らはこの幼子こそ、万人の罪を執り成す唯一の「祭司」と認める霊の目を与えられていましたから、礼拝をささげるときに用いられる「乳香」をささげました。祭司は、民を代表して、乳香を携えて神の前に出て、執り成しの祈りを捧げます。イエスはその祭司として、神のみ前に出て、わたしたちの罪を執り成してくださるのです。聖書に、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)とあるとおりです。イエス・キリストは、わたしたち罪びとを友と呼び、わたしたちのために十字架の上に御自分の命を捨てて下さるのです。この十字架の犠牲こそ、神のみ前に受け入れられる香りよき献げもの、香りよき乳香です。日本語の聖書に訳されている「祭司」という語の元の意味は、「かけ橋になる人」という意味があります。わたしたちが礼拝を捧げる時、イエス・キリストが父なる神とわたしたちの間の架け橋となって、わたしたちが神と交わることができるようにしてくださるのです。
わたしたちはこのお方の前に自分の足りなさ、罪、過ちに気付き、それら一切を告白します。主イエスはその告白を善しとして、罪の赦しを執り成していただくことができるのです。「乳香」とは、罪の悔い改めと信仰の告白を意味するしるしなのです。

 また博士たちは「没薬(もつやく)」を献げました。没薬とは、医薬品の一つであり、同時に死者の体に塗る防腐剤のことです。博士たちは、母マリアの腕に抱かれている幼子が、やがて全人類の罪の贖いとして十字架に死んでくださる方です。没薬はその時のためにとささげたのです。また、主イエスは、ご自身その没薬として、わたしたちの罪のために傷んだ霊を癒してくださいます。聖書はこう言っています。
「彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって 私たちにへいわが与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された。」(イザヤ53:4−5)
今から2千年の昔、博士たちははるばる、東の国から尊い献げものを携えてやってきました。そして幼子の前に黄金・乳香・没薬などの献げものを置くと、彼らはそのまま帰って行きました。これが彼らのクリスマスです。味わったクリスマスの喜びです。彼らは携えてきた以上の恵みを受けて喜びのうちに帰って行きました。イエスを王なるキリスト、神と彼らの架け橋となってくださる真の祭司、罪の贖いを成し遂げて下さる救い主と信じることができたからです。

 あなたは今日、東方に、星のように輝く信仰者の輝きが見えたでしょうか。彼らは黄金・没薬・乳香を携えてクリスマスのお祝いにやってきました。
あなたも、主イエスが喜ばれる「謙遜」と「悔い改め」と、「信仰の告白」という贈り物をこの方の前に携えてきたことでしょう。どうかそれを今献げて下さい。
そして、共に挨拶を交わしましょう。「クリスマスおめでとうございます。」と。  祈りましょう。

 

天の父なる神さま。あなたのお名前を心より崇めます。
東の国から星に導かれて、ベツレヘムへと旅に出かけ、そこで救い主に出会えた博士たちの純粋な信仰を通して、わたし達は今日、あなたが備えてくださった博士たちの純粋な信仰という「星」を見出すことができました。博士たちはそれぞれの祖国からおおよそ2年がかりで救い主のみ前にたどり着きました。
しかし、わたしたちはそれぞれ自己中心の回り道をしてきた人生の長さの分だけ、救い主に出会うまでに時間がかかってしまいました。しかし、わたしたちは今日ベツレヘムの主イエスの御前に導かれましたから感謝です。主を讃美します。
わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン。


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