【主日礼拝メッセージの要約】                        2007年1230

互いに愛し合う」 

ヨハネの手紙 一 4章7節

「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。

愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、

神を知っているからです。」

 

高橋淑郎牧師

今年一年を象徴する言葉の第一位は「偽」だそうです。その次は、何だったでしょうか。「怒り」という文字もありました。 残念ながら「神への畏れ」(或いは「恐れ」)」、また、「悔い改め」という文字は見当たりませんでした。


 しかし、神の愛はこの人々の上にもきっと流れ注がれていくことと信じます。実は、ここでいう「彼ら」の一人は、わたしたち一人びとりでもあるのです。わたしたちの心には、イエス・キリストに対する拒否反応があるからです。不思議なことに、わたし達の心に根ざしている拒否反応を取り去って、イエスを受け入れる心へと導いてくださるのは、何と言うことでしょう。わたしたちが、「いやだ、いやだ」と拒否している神ご自身の赦し、憐れみ、恵みなのです。「神の愛」という言葉は、わたしたちが簡単に口に出せるものではないことが分かります。先ず、このドロドロとした私たちの罪を清めて頂いてからでないと使えない言葉です。愛されるに値しないわたしをそれでも愛してくださる証拠は、どこにあるのか。十字架です。イエス・キリストがわたしの罪の償いに、わたしに代わってつけられて下さったから、わたしたちは神に愛され、受け入れられていることが分かります。

 今、わたしたちのなすべきことは何でしょう。神の愛を素直に受けることです。罪の悔い改めと、告白です。イエスを救い主と信じることです。聖書はまた、互いに愛し合いなさいと教えています。愛し合うとは、ただ互いの傷をなめ合う程度のリップサービスを意味しません。イエス・キリストがわたしを愛する証として御自分の命を代価として下さったように、わたしたちも私たちの家族のため、友人のため、地域社会のために自分の命をすり減らすほどに仕えることです。

 

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【主日礼拝メッセージ】                                  2007年1230

互いに愛し合う」 

ヨハネの手紙 一 4章7節

「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。

愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、

神を知っているからです。」

高橋淑郎牧師

今日は、降誕節に入って最初の日曜日です。今朝もまた、神が独り子をこの世に賜った愛について、思い巡らせて見ましょう。
最初に、ナザレに住む乙女マリアのことを考えて見ましょう。彼女は、天使を通してキリストの受胎を告げられたとき、即座にこのメッセージを歓迎できたでしょうか。答えはもちろん、ノー!です。彼女は戸惑いました。おじけたのです。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」(ルカによる福音書1:34)、と拒否しました。婚約者がいるとは言え、まだ一線を越えたわけではありません。「ハイ、分かりました」と、どうして言えましょうか。尻込みするのも無理ありません。彼女が純粋無垢であればこその拒否なのです。神を仰ぎ見る信仰の人だからこその苦悩です。神のご計画は、このようにそのスタートから、この世の人に受け入れがたいものとして進められていきました。しかし、神は天使を通して彼女の信仰を支え、聖霊の働きの内に心を開き、その身を明け渡す者へと導いてくださいました。受け入れがたい神のご命令に、彼女は従う者とされました。


 マリアへの受胎告知は、マリアの献身だけですませることもできたでしょう。イエスの母として選ばれたのだから、彼女は一生処女のまま、独身を貫きなさいと言うこともできたのです。しかし、神は彼女の許婚であり、婚約者であるヨセフの存在を抜きにして事柄を進めるようなことをなさいませんでした。ヨセフに対しても、御自分の救いのご計画を進める奉仕に参加する機会を与えました。


 何事も隠し事のできないまっすぐなマリアのことです。彼女は正直に、ありのままをヨセフに伝えたに違いありません。この瞬間からヨセフの苦しみが始まりました。彼の拒否反応が明らかになりました。良い加減な若者ではなく、常に聖書に照らして物事を判断し、行動する人、信仰一途の青年故の苦しみです。信仰を踏み外すことなく、そしてマリアの人生に傷をつけないためにはどうすることが正しいのか。いっそのこと、自分が悪者になって、マリアとの間にできちゃった婚として世間に言えば良いかも、いいえ、21世紀の現代ならともかく、2000年も昔のユダヤ社会でそんなことが許されるはずはありません。聖書を厳密に読むなら、挙式前に男女の関係になるなど、あってはならないことなのです。ではどうすれば良いのか。そうだ、彼女にも自分にもつらい決断だけれど密に別れよう。それで彼女が受ける社会的制裁がすこしでも軽くなるなら、そうしようと決断しました。正しさ故に、またマリアを純粋に愛していた、その愛の大きさゆえに、イエスの受胎を受け入れられなかったのです。マリアを受け入れられなかったのではありません。胎内に宿ったと言われているイエスを拒否したのです。しかし、神は天使を用いてヨセフの夢の中に現れて、マリアの身に起こった出来事は聖霊による御業であるから、一切を神に委ねてマリアと結婚をしなさいと勇気付けて下さり、ヨセフも御言に従いました。


 このようにイエスはその降誕の前から、この世の人々から拒絶されました。そうした中で生まれたイエス・キリストを時の王ヘロデはイエス暗殺もくろみました。結果は失敗でした。しかし、そのために罪のない2歳以下の赤ちゃんが大勢犠牲になりました。悪魔に魂を売った人はこんなに残虐になれるのです(マタイ2:16-18)。
主イエスが宣教を開始した時、初めは歓迎していた群衆も、自分の思い通りのメッセージではないからと、彼を殺そうとしました(ルカ4:29)。また、ある時は、母マリアと兄弟たちが、「(イエスの)気が変になっている」という世間の誤解をそのまま信じて、主イエスを取り押さえようとしました(マルコ3:20)。その後も日を追うごとに、イエスに対する世間の目はますます冷えていき、聖書を教える律法学者や、祭司階級の人々からさえも疎んじられ、ついに彼を十字架につけてしまいました。最も心が痛む事件がありました。それはイエス・キリストが「使徒」として選んだ12人の1人イスカリオテのユダが、主イエスを銀貨30枚の値段で敵の手に売り渡してしまいました。その他11人もみなイエスを見捨てて逃げてしまったというのです(マタイ26:15、マルコ14:50)。


 以上のように、この世の全ての人々はイエスを拒みました。この地上は罪に満ちていました。暗黒です。愛のかけらも見られません。しかし、もう一度今日の聖書に目を留めてください。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。」
「愛は神から出るもの」と聖書は言います。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(10節)とあります。


 愛の源泉は神にあります。その愛は御子の十字架による死という、わたしたち人間の到底理解しがたいところから流れ下ってきたのです。神の愛は、それを受けるに値するいと高き天上に留まらず、この地上のどす黒い罪に満ち満ちた世界にまで流れ下ってきたのです。受胎告知を受けて尻込みするマリアとヨセフはもちろんのこと、ありとあらゆる手段で救い主イエス・キリストを退けようとする人々、ついにはイエスを十字架に追いやった傲慢で偽善に満ちた人々の心の中にもこの愛は注がれてきました。
今年も今日を含めて後二日です。例年のことですが、今年一年を象徴する言葉について、新聞を見ますと、第一位は「偽」だそうです。賞味期限の偽装、産地の偽装表示、食材の偽装混入、政治家の「偽証疑惑」等々です。その次は何だったでしょうか。「怒」という文字もありました。これは国民の声を代表したものと言えます。しかし、残念ながら、「神への恐れ」とか、「悔い改め」という文字は見当たりません。


 これが今も昔もこの世の現実です。しかし、2000年の時を超えて、神の愛はこのような人々の上にもきっと流れ注がれていくことと信じます。彼らがやがて神と神の愛を知り、神への畏れが心の内に芽生えるなら、それは彼らの耳に福音が届けられたときです。ここでいう「彼ら」の一人は、それこそわたしたち一人びとりのことです。わたしたちの心には、イエス・キリストを拒む心があるからです。しかし、神の愛は何と大きく、深いことでしょう。そのようなわたし達の内に根ざしている頑なな罪の心を取り去って、イエスを受け入れる心へと導いてくださる神の赦し、憐れみ、恵みの前にひれ伏すばかりです。


 「愛といふは、我ら神を愛せしにあらず、神われらを愛し、その子を遣わしてわれらの罪のために宥めの供え物となし給ひし是なり。」(Tヨハネ4:10)
文語訳聖書は、「愛というは、」から、この10節を書き出しています。これを見ると、「愛」という言葉は、わたしたちが簡単に口に出せるものではないことが分かります。先ず、このドロドロとした私たちの罪を清めて頂いてからでないと使えない言葉です。愛されるに値しないわたしをそれでも愛してくださる証拠は、どこにあるのか。十字架です。イエス・キリストがわたしの罪の償いに、わたしに代わってつけられて下さったから、わたしたちは神に愛され、受け入れられているのだということが分かります。
今、わたしたちのなすべきことは何でしょう。神の愛を素直に受けることです。罪の悔い改めと、告白です。イエス・キリストこそわたしの救い主であると信じることです。
聖書はまた、互いに愛し合いなさいと教えています。愛し合うとは、ただ互いの傷をなめ合う程度のリップサービスを意味しません。主イエス・キリストがわたしを愛する証として御自分の命を代価として下さったように、わたしたちも私たちの家族のため、友人のため、地域社会のために自分の命をすり減らすほどに仕えることです。
祈りましょう。

天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。
今朝、私たちは改めてクリスマスの意味の深さ、大いなる神の愛を学びました。思い返すと、わたしたちの愛は随分薄っぺらいものであり、嘘っぽいものであることを認めないでおれません。わたしたちの心の中には愛と憎しみが同居していました。思い通りにならないとすぐに怒りとなり、憎しみが吹き出てしまいます。
しかし、あなたの愛は徹頭徹尾真実でした。あなたの愛はそれを受けるに価しない罪びとのわたしの上にも注がれました。あなたの愛は、わたしのような者のために御自分の命をかけるほどのものでした。あなたの愛は、み子イエスをも惜しまず罪深いわたしに与えてくださるほどのものでした。今、わたしはあなたの愛に感謝して、自分の罪を悔改めて、あなたに従う決心をします。そして、あなたが命がけでわたしを愛してくださったように、わたしも、わたしにかかわる人々を生命をかけるほどに愛することのできる者としてください。
イエス・キリストの御名によって。アーメン。


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