【主日礼拝メッセージの要約】 2008年1月13日
「愛に満ちて」
4−7節には、アガペーの特徴として、15を見ることができます。ここに見られる愛は忍耐強く、情け深いです。妬まず、自慢せず、高ぶらず、礼を失しません。利己的ではなく、いらだたず、恨みを抱きません。不義を喜ばないで、真実を喜びます。全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐えます。
ではいったい、このような愛はどこに行けば見ることができるでしょうか。イエス・キリストの父なる神です。神だけが、アガペーと呼ばれるに相応しいお方なのです。
次に、この愛は誰に向けられたものでしょうか。わたしたち罪人です。使徒パウロはアガペーについて、次のように言っています。
「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。」(ローマの信徒への手紙5:8)
今、改めて神の愛、「アガペー」を深く思うとき、キリスト者の生活の中心は、「わたしたち」ではないことが分かります。アガペーにふさわしいものはこの世のどこにも見られません。十字架のキリストにこそふさわしいと気付かせられます。使徒パウロは言います。
「なぜならキリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」
(コリントの信徒への手紙二5:14−15)
この世界は昔も今もキリストの愛に満ち満ちているのです。
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「愛に満ちて」
先ほどは司式者に、7節まで読んでいただきましたが、折角のすばらしい御言葉なので、今度はリレーしてわたしがその続きである8−13節までを読ませて頂きます。しかし、今朝私たちに与えられたメッセージは7節までです。
さて、コリントの信徒への手紙一13章は、有名な「愛」の章です。これを人生の土台をなす信仰生活上の倫理的な教えとして学ぶことも必要ですが、パウロがこの手紙を書いた動機は、コリントの教会が、人の手によってなる教会ではなく、聖霊によって生まれた教会に相応しく、聖霊によって成長する教会であってほしいという願いから書かれたものです。彼はこの手紙の中で一貫して、教会の一致と謙遜と聖潔の必要を説いてきましたが、人の集まりである教会が、キリストの体なる教会へと成長していくために、なくてならない「最高の道」(12:31b)を教えようとしているのです。それが13章にいうところの「愛」なのです。そして、14消防とでは、「愛を追い求めなさい。」と言っています。教会の交わりが豊かにされ、一人一人の人生が幸せになる最高の道は、「愛」に生きることなのです。このことを心に留めて、ご一緒にメッセージに耳を傾けてまいりましょう。
はじめに、パウロは自分の体験をもとに、愛の価値について語り始めます。彼は、異言を語れる人でした。「異言」とは、語っているその人と神にしか分からない祈りであり、神讃美です。パウロはこの異言を、「だれよりも多く語れる」(コリントの信徒への手紙一14:18)と言っています。また預言の賜物を用いて地中海世界を駆け巡り、伝道生活に明け暮れて、たくさんの人を救いに導き、教会を立て上げました。教会というのは会堂のことではなく、イエスをキリストと信じる人々によって成り立つ信仰の共同体のことです。その間にも神はパウロを用いて素晴しい神秘の世界である、「楽園」(口語訳聖書では「第三の天」。コリントの信徒への手紙二12:4)にまで引き上げて下さいました。知識においては、申し分ありません。当代随一の学者ガマリエルの厳しい教育を受けた(使徒言行録22:3)エリート中のエリートです。彼の信仰姿勢は半端ではありません。山を移すほどの完全な信仰の人といって過言ではありません。彼は常に信仰一途な人でした。彼は厳しい伝道旅行の間、未熟な教会に負担をかけまいと自分の食い扶持を自分で稼ぎながらの、いわゆる自給伝道でした。その傍ら、エルサレムで困窮しているキリスト者を支援するために諸教会を巡り歩き、そこで預かった献金には一切手を着けていません。文字通り、「全財産を貧しい人々のために使い尽くす人」でした。更に、彼の伝道は常に死と隣りあわせという危険が付きまといました。ですから、行く先々の教会で、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない。」(使徒言行録14:22)と教えて回っています。まさに、福音のためには、「わが身を死に引き渡す」ことも覚悟していました。こうして、聖書を読めば読むほど、パウロという人は、本当に凄い!と思わずにいられません。もし彼が教祖になって、「パウロ教」という宗教団体を旗揚げしたら、きっとかなりの人が信者になったことでしょう。事実、この1−3節の内、あれができる。これができると言っては、人々の心を惑わす、キリスト教を偽装した宗教団体や、新興宗教が数多くあります。彼らの教義とその活動を見ると、確かにパウロが警告しているように、それは純粋な愛を動機としたものではなく、「わがみを誇ろうとしている」本音が見え隠れしています。
パウロこそ、1―3節を欲得抜きで、しかも率先・実行してきた人です。パウロは言います。「愛のない宗教行為は騒音そのものであり、数えるに足りないし、何の利益にもならない」と。この世に愛以上の価値はない、というのが長年、キリストの福音に生きてきたパウロの結論です。
では、パウロが最高の道として発見した聖書の言う「愛」とは、どのような性質のものなのでしょうか。4−7節をご覧下さい。
日本語で「愛」という文字は一つしかありませんが、ギリシャ語で書かれた新約聖書を見ると、大体3つの種類で書かれていますが、本当は4種類から5種類に分類できるそうです。そのうち代表的なのが、神の愛を意味する「アガペー」です。ここに見られるのはそのアガペーの愛です。アガペーとは対照的なエロースの愛があります。エロースはよく誤解されやすいのですが、もともとそんなに下品でもありませんし、悪い意味ではないのです。ただ情熱的であるが、長続きしない愛なのです。それ以外の愛についてご紹介してもよいのですが、今日の聖書テキストで語りかけておられる神のメッセージを聴くために、時間の無駄遣いをしたくありませんので、アガペーの愛にこだわりながら、メッセージに耳を傾けてまいりましょう。
4−7節には、アガペーの特徴というか、15の性質を詳しく見ることができます。神の愛は忍耐強いです。情け深いです。妬みません。自慢しません。高ぶりません。礼を失しません。利己的ではありません。いらだちません。恨みを抱きません。不義を喜びません。真実を喜びます。全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐えます。
ではいったい、このような愛はどこに行けば見ることができるでしょうか。イエス・キリストであり、父なる神です。神だけが、この15もの特徴を持つ愛のお方なのです。では、このような愛は誰に向けられたものでしょうか。わたしたち罪人に対してです。使徒パウロはこのアガペーについて、次のように言っています。
「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。」(ローマの信徒への手紙5:8)
1月6日にキリスト降誕節が終わると、そのひと月後の2月6日からキリスト受難節に入ります。教会カレンダーとはまことにせわしいもので、キリストは12月25日に降誕し、1月6日には東から来た博士たちをお迎えになります。教派によってはこの日、もう大人になられたイエス・キリストが、ヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになっています。それから一ヶ月の間に、病人を癒し、肢体不自由の人を立ち上がらせ、悪霊に悩まされている人を解放し、死人を生き返らせ、多くの人たちに教えをし、弟子を選び、訓練し、祭司や律法の教師たちと論争し、あれやこれやと駆け回りながら、大急ぎで十字架への道を歩まれることになっています。
このように、12月から3月、4月まで、キリスト教会にとって忙しいのは、クリスマスと十字架による死と葬り、復活、聖霊降臨の出来事が一番大切なことだからです。今日与えられた聖書テキスト(ことに4−7節)にも、クリスマスから受難までのキリストの福音が見られます。「愛は忍耐強い、愛は情け深い」。神は忍耐強い方です。情け深い方です。どれくらい忍耐してくださっていたのでしょうか。御子をこの世に送るまでにも、各時代に預言者を送っては、人々が犯した罪を悔改めるのをひたすら待ち続けてくださいました。定められた時に、神はみ子を救い主としてこの世に与えてくださいましたが、この世の人々は、この尊いお方を十字架につけて殺してしまいました。しかし、神はこの御子をよみがえらせ、天の父の右のみ座にお迎えになり、やがて、終りの日に審判者としてこの世をお審きになるでしょう。その間にも神はこの世を見捨ててはおられません。聖霊を送って、キリスト者たちを用いて、罪びとが一人でも多く、悔い改めて神に立ち返るのを今も待ち続けて下さっているのです。神は十日や二十日ではなく、何百年、何千年もの間、忍耐してくださっているのです。それほどに情け深い方なのです。今も、神はあなたを待っておられるのです。実に神の愛はわたしたちの四方八方に満ち満ちているのです。
今、改めてアガペーを深く思うとき、教会の頭(かしら)、キリスト者の生活の中心は、「わたしたち」ではないことが分かりました。
今朝、わたしたちは、「アガペー」のもつ聖い特徴を最も良く備えておられる方をわたしたちは見出すことができました。十字架のキリストにこそふさわしいと気付かせられました。
使徒パウロは言います。
「なぜならキリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」
(コリントの信徒への手紙二5:14−15)
祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を崇め、讃美します。
この世にはさまざまな愛の形があります。少し見ただけでは、どれも真実であるかのような錯覚を起こさせます。しかし、現代の偽預言者である占い師の言葉に惑わされては失望させられ、似非宗教の教祖たちの怪しげな教義に騙されては人生を無為に過ごしてしまいました。家族や友人、知人の中にも真実の愛は見出せませんでした。第一、わたし自身の中にも真実の愛がなかったのです。
しかし、あなたが聖書を通して語られるメッセージに触れて、あなたは、こんなに偽りに満ちた世界であり、わたしたちなのに、ご自身の独り子イエスさまをこの世に与え、わたしの所にまで下りてきて、あなたの御もとに立ち返るのを、永く忍耐して待っていて下さったのです。感謝します。わたしたちは今日、ここに来るまで、この世は偽りに満ち、信じられるものが何もないと失望していましたが、そうではなく、わたしの心には、あなたの愛、真実の愛であるアガペーで満ち溢れていました。
今、わたしたちは自分のうちにある罪を認めますから、悔改めますから、どうかあなたの僕としてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。