【主日礼拝メッセージの要約】                                 2008年330

「主の名をとどめる」 

 「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。
わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。そして、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。
ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。」
 列王記上8章27−29節

 

高橋淑郎牧師


 その昔、主なる神はイスラエルを選び、奴隷の地エジプトからこの民族を導いて国を造らせ、エルサレムの都に神殿を建てさせました。その永い歴史の中で、神殿を建設するために選ばれたのは、ダビデの子ソロモン王とその時代の人たちでした。完成した神殿を目の前にして、しかしソロモンは、「これは自分たちの功績によるものではなく、神の導きと先祖の汗と涙と祈りと献げものの結晶であった。」(14−20節)と言いました。また彼は、「この主の宮を、ただの飾りものとしてではなく、神が、『わたしの名をとどめる』と言われたことを心に留めて、神への礼拝をささげる場、祈りの場として用いさせてください。」(27−29節)と神に祈りました。


 今日、各地にあるキリスト教会の会堂も同じです。それらの会堂は唯の飾り物ではありません。例えば、この教会の前の会堂は45年前に伝道を開始したのとほぼ同じ時期に建てられました。今日までそれぞれ許された期間を使命に従って働き、信仰の交わりに生き、福音宣教にかかわってくれた歴代の宣教師、牧師、兄弟姉妹の涙と祈り、そして献身があったことを忘れてはなりません。現在の会堂は、5年前に建設されたものです。会堂が新しかろうが古かろうが、大きかろうが小さかろうが、そこに導かれた人々にとって、会堂はただの飾り物ではありません。ここは礼拝をささげるところです。御言葉が語られ、聴かれるところです。祈りがささげられるところです。心を込めて、主イエス・キリストの父である神を讃美するところです。「主の名をとどめる」とはそういうことです。


 「わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き  わたしの祈りの家の喜びの祝いに  連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」(イザヤ書56章7節)という御言葉があります。「聖なるわたしの山」、「わたしの祈りの家」、「わたしの祭壇」、「わたしの家」と、神は繰り返し「わたしの」と強調しておられます。「ここに主の名を置く」、どうかこの御言葉を生涯忘れないでください。

 

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【主日礼拝メッセージ】                                       2008年330

「主の名をとどめる」 

 
「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。
わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。そして、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。
ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。」 列王記上8章27−29節

高橋淑郎牧師

 仙川キリスト教会の歴史は古く、設立以来今年の12月で46年になります。三鷹バプテスト教会の宣教師カーテス・アスキュウ先生が、同じ教会員であった平野四郎兄弟の協力を得て、この中原の地で開拓伝道を始めました。1962年12月のことです。母教会となった三鷹バプテストから派遣されたアスキュウ先生は宣教師兼初代牧師として、この仙川バプテスト伝道所に派遣され、間もなく土地も会堂も与えられて、これからいよいよ本格的に伝道をと喜んでいた矢先の1963年1月、惜しくも平野兄弟が病臥に伏し、そのまま天に召されました。しかし、伝道所はその悲しみを乗り越えて翌年の3月に、後に牧師となられた野村義雄先生を副牧師としてお招きして伝道は進められ、やがて仙川バプテスト伝道所は母教会から独立して、「仙川キリスト教会」と、その名を改めて今日に及んでいます。その間、8人の宣教師(アスキュウ、ウェスタン、ライト、ホーン、カルヴィン、デカート、ベネット各先生)と、7人の日本人牧師(野村義雄、渡部元、ボートライト、高橋弘、渡部邦博、蓮池昭雄、田中仁一郎、三木曉各先生)と、8人目のわたし黒水〈高橋〉淑郎)たちが関わってきました。


 このように45年の間、宣教師、牧師を含めた教会のメンバーは礼拝を共にささげ、また交わりを共にしてきました。前の会堂は40年間というもの、ここに建ち続け、地域の象徴として存在し続けてくれました。25年前には、それまで20年の歩みを振り返って、「ハレルヤ」という記念誌を発行されました。更に15年前にはこの土地を利用して会堂を建て直すか、新たな伝道地を求めてそこに建て替えるかなど、と「会堂建設」のヴィジョンが与えられていました。ここに、その当時の人々が、この土地で建てるとすれば、どんな会堂にするか、別の土地ならどんな所にどんな会堂を建てるか、墓地を購入するか、会堂の中に納骨室を造るか等と祈りを積み、与えられたヴィジョンを、或いはKJ法で語り合い、或いは絵にして楽しく夢を分かち合った後が見られます。


 わたしがこの教会に赴任したのは1997年10月23日で、その月の26日が最初の礼拝メッセージ(「神の家族」マルコによる福音書3章31−35節)でした。今から6−7年前、当時の執事会に、宣教開始40周年を期して、二回目の「記念誌」を発行してはどうかと提案したことがあります。しかし、当時はいよいよ会堂建設と教会墓地購入という大事業に取り組み始めたこともあって、実現しませんでした。また、会堂はできてもここに呼び集められるわたしたちの信仰はどうなのかと、神から問われる思いで、「教会規則と細則」の改定作業を成し、更にこの教会の存立をもっと深いところで問い直される意味で、「教会の信仰告白」文を新たにするという事業にも取り組み、ようやく今年4月の教会定期総会には間に合わせることができそうです。こうしたものを用いて、50周年には記念誌の発行が実現すると良いなと希望しています。その資料の一助ともなればと思い、積年の課題であった「教会員原簿」の整理と手直しに取り掛かりましたが、忙しさにかまけてほとんど手付かずの状態が続いています。わたしがここにいる残りひと月の間に、これも何とか完成させて引き継いでまいりたいと考えています。

 さて、今朝、皆さまと共に分かち合いなさいと示された聖書テキストは、先ほど読んで頂いた列王記上8章27−29節です。ご記憶と思いますが、2004年1月18日に新会堂竣工を感謝して、献堂礼拝を執り行いましたが、その時に取り次いだメッセージの聖書テキストと全く同じ御言葉です。わたしが今日、この日の為に選ばせて頂いたのには理由があります。これは、最近この教会のメンバーに加えられた人をはじめ、今朝ここで礼拝をささげている全ての人の為に必要な御言葉なのです。
この章の14節以下をご覧ください。20節まで読みましょう(旧約聖書541頁)。


 今読みましたように、主である神はイスラエルを選び、奴隷の地エジプトからこの民族を導いて国を造らせ、エルサレムの都に礼拝をささげるための神殿を建てさせました。その永い歴史の中で神殿を建設するために選ばれたのは、ダビデの子ソロモン王とその時代の人たちでした。しかし、この時ソロモンの心は決して高慢ではありませんでした。これは自分の功績によるものではなく、先祖たちの汗と涙と祈りと献げものの結晶であったことを忘れませんでした。そのことを深く心に留めて語り伝えたのが、14−20節です。
今日、皆さんにお伝えしなければならないことも同じです。間もなく4月1日から仙川キリスト教会にとって、新しい歩みが始まります。2008年度の幕開けはもうすぐです。この新しい年度、教会の歩みの為に示された御言葉は箴言16章9節です。聴いていてください。
「人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である。」(口語訳聖書)


 わたしはこの御言葉を読むたびに、個人的に思い出す新約聖書の一節があります。
「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」(ピリピ人への手紙2章13節)
昔、わたしは人生の大きな分かれ道に立たされていました。右に行ってもそれは主の導きのように思えました。左に行っても正しい道のようです。どの道を選択すべきか、わたしは大いに悩みました。その時、わたしの人生のパートナーである斐子が示してくれたのがこの御言葉でした。どちらも間違ってはいないと思えるものの、わたしはこの御言葉の前にもう一度祈りました。その結果一つの道を選ぶ決心が与えられたのです。そしてそれは間違ってはいませんでした。あの時別の道が正しく見えたのは、心の奥の奥で、それが自分にとって都合の良い道だったのです。その道を選んだ方が、自分の願いが叶えられる早道のような気がしていたからです。しかし、もしわたしがその道を選んでいたら、今日わたしはここに立ってはいなかったでしょう。
「人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である。」
確かにこの御言葉はわたしにとっても永遠の真理です。


 愛する兄弟姉妹、新しい年度、あなたの目先にいく筋もの道が見えることでしょう。どれが正しい道なのか、どれが主のみ心にかなった歩みなのか、大いに迷うことでしょう。悩むことでしょう。その時、あなたの心にあるその願いが叶うために、あなたにとって都合の良い選択をすることは危険です。教会にとって、それは悲劇の始まりとなります。よく祈りこんでください。心を合わせて御言葉に聴いてください。見えない神が、見えないけれども確実に一つの道を示し、その道に向かって歩むべく願いを起こさせてくださるはずです。御言葉に聴かずして、祈りなくして平安も祝福も勝利もありません。

 また愛する兄弟姉妹、このところに会堂が建てられた意味を考えてください。ソロモンが取り次いだメッセージを思い起こしてください。ソロモンはあの日、神殿を目の前にして、これは先祖の祈りと涙、また神への献身の積み上げが自分たちにこの大事業をなさしめたのだという思いを新たに示されましたから、会衆に向かって、「神が自分たちに神殿建設の願いを起こさせ、その事業を導き、そしてことを成し遂げさせて下さったのだ。」と宣べ伝えました。
仙川キリスト教会の会堂も同じです。45年もの間、許された期間を使命に従って働き、信仰の交わりに生き、福音宣教にかかわってくれた宣教師、牧師、兄弟姉妹の涙と祈り、そして献身があって、ここに会堂があり、わたしたちは礼拝と交わりができたのだということを忘れないようにしましょう。
その上で、もう一度今日の聖書テキストに目を向けて下さい。この主の宮は、「わたしの名をとどめる」と言われた方のものでることを忘れないでください。礼拝プログラムの「招詞」にはこうあります。


 「わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き わたしの祈りの家の喜びの祝いに 連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」(イザヤ書56章7節)
「聖なるわたしの山」とは、あのエルサレムの地でした。仙川キリスト教会に関して言えば、三鷹市中原1丁目24−8というこのところです。
「焼き尽くす献げ物といけにえ」とは、礼拝者の罪が神のみ前に明らかにされ、焼き尽くされる。すなわち徹底した悔い改めへと導かれることであり、自分自身を丸ごと神に明け渡すことを意味します。「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマの信徒への手紙12章1節)と、使徒パウロも言っています。


 そして、「聖なるわたしの山」、「わたしの祈りの家」、「わたしの祭壇」、「わたしの家」と、繰り返し「わたしの」と強調しています。神の宮であるこの会堂は、人間のものではなく、神のものであることを強調しておられるのです。だから、わたしたちは礼拝堂を清潔に保つのです。どの部屋も念入りに掃除をします。事務室も台所もトイレも自分の家以上にきれいにし、後片付けをするのです。ここは主の名をとどめるところ、「わたしの」と強調しておられる方のものだからです。


更に、この仙川キリスト教会は自慢ではありませんが、伝統的に赤字財政の教会です。何とかしたいと執事たちは毎月集まって祈り合い、協議し、教会に実情を報告しては祈ってくださいと訴えています。しかし、このような時こそ、わたしたちの心にささやくサタンの声に揺さぶられてはなりません。
「会堂の駐車場は普段の日は空いているから、有料駐車場として貸してはどうか。フェロシップホールや聖歌隊室、また二階の託児室や図書室を有効に用いて、何かのお稽古事の部屋として有料で貸してはどうか。」と。そういうささやきは、イエスを試みようとして、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」(マタイによる福音書4章9節)と誘惑したサタンの声です。もしわたしたちがそういう声に耳を傾けたなら、たちまちイエス・キリストの、「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」(マタイによる福音書4章10節)というお叱りの声が飛んでくることでしょう。苦しくても、困難でもわたしたちは主をのみ拝しましょう。主にのみお仕えしましょう。すべてを献金によって賄う教会、まずは神にお献げして、その上で必要なことに必要なだけ用いさせていただく教会であり続けましょう。たとえ何かの団体にこの会堂を用いて頂くにしても、その人たちに神を畏れ敬う思いを抱かせるために、使用料とか、寄付というかたちではなく、献金の意味を教えて、これは神に献げられた建物であるから、わたしたちも神への感謝をもってささげましょうという心へとお導きする教会であり続けましょう。ここは、主の名をとどめると呼ばれるべき、主の宮だからです。 主イエスは苦しみの杯ともいうべき十字架を経て、わたしたちに愛を注いでくださいました。そして三日目に復活して、わたしたちに命じておられます。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書28章19−20節)
最後に、わたし自身50年という信仰生活を振り返り、特に牧師になって30年というささやかな経験ですが、皆さんにはっきり言えることが一つあります。貧しくても、年中赤字財政であっても、礼拝と祈り会、伝道活動を忠実に守り続ける限り、経済的な理由で倒れた教会は、これまで唯の一つも見たことがありません。ここが世の中の事業と不思議なほどに異なっているところです。


 しかし、教会も倒産することがあります。何が理由で倒産するかと言いますと、礼拝が疎かに扱われる時です。祈りが小馬鹿にされるときです。聖書に代えて他のものがテキストとして重宝され始めたときです。気をつけたいことですが、礼拝も祈祷会も守られているのに分裂、倒産する教会もあります。教会の中に愛が冷えて行き、一致がなくなったときです。
「ここに主の名を置く」、どうかこの御言葉を生涯忘れないでください。  祈りましょう。

父なる神さま、あなたのお名前を心から崇め、讃美します。
 おおよそ45年の間、15人の働き人を順次遣わし、またその時その時に信徒を呼び起こして、この教会を愛し、守り、支え、導いてくださったあなたに感謝します。聖書に、「わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」(ヘブライ人への手紙12章1節)とあります。これら先達の信仰を、今立てられている兄弟姉妹たちが、引継ぎ、この教会を、「主の名をとどめる」と呼ばれるにふさわしく整え、聖め、祝福してくださいますよう、
わたしたちの主イエスの尊いお名前によってお願いいたします。アーメン。


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