【主日礼拝メッセージの要約】 2008年4月13日
「導き手は主」
しかし、その歩みを導く者は主である。」
箴言16章9節(口語訳聖書p.899)
「人」と訳されている元の単語は、ここでは「アダム」です。まず、「アダム」が「主」と対比して呼ばれていることに注意しましょう。これにはいろいろな意味があります。第一にアダムは神によって創造された「人類の祖先」です。第二に、アダムは神の戒めに背いた「罪びとの代表」です。新約聖書に、「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」(ローマの信徒への手紙12:3)とありますが、わたしたちの先祖アダムは、自分を過大に評価した結果、超えてはならない一線を越えてしまいました。人類の祖先アダムは御言葉を軽視したのです。神に背く心は、すなわち神に代わって自分がその座につこうとするに等しい大罪です。これを「原罪」と言います。人は生まれながらにして、神に背くばかりか、その心に偶像を造り上げて、あわよくば、自分が神の座につこうとする性質を受け継いでいるのです。
4月という月は一年のスタートを切る季節です。あなたはこの一年をどのように歩もうとしておられますか。その道は主の御心にかなったものですか。主はあなた方ひとりひとりを見ておられます。あなたのことをあなた以上にご存知です。
新しいスタートを切るこの季節を迎えて、目の前に見えるどの道を「選択」すべきか戸惑うこともあるでしょう。自分が選択し、計画した道が主の御心に適っているかどうかの吟味も必要です。歩むべき唯一つの正しい道を指し示し、これを導いてくださるのは主です。この方に従う一年を始めましょう。
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「導き手は主」
しかし、その歩みを導く者は主である。」
箴言16章9節(口語訳聖書p.899)
本日礼拝の後、執事・聖歌隊・教会学校リーダー任命式のご奉仕をさせて頂きます。牧会を退いたわたしが、このような大役を担うことに畏れを抱いております。どうか会衆の皆さん、祈り心をもって、任命式の証人として立ち会ってくださるよう、お願い致します。
仙川キリスト教会は、今年の1月総会で、2008年度の歩みのために、「どんな時も主を信頼して」という主題と、箴言16章9節の御言葉が示されました。しかも、これを口語訳聖書で採用することにしました。確かに主の導きを感じます。というのは、わたしたちが毎週の礼拝で読みなれている新共同訳聖書も味わい深いものがありますが、この箇所に関して言うなら、口語訳聖書のほうが原文に忠実だからです。ヘブライ語で書かれている原文を直訳しますと、
「アダムは心に旅路を計画する。しかし、主が整えて進み行かせられる。」です。
「人」と訳されている元の単語は、ここでは「アダム」です。まず、「アダム」が「主」と対比して呼ばれていることに注意しましょう。これにはいろいろな意味があります。第一にアダムは主なる神によって創造された人類の祖先です。第二に、アダムは神の戒めに背いた罪びとの代表です。使徒パウロが、その手紙の中で、「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」(ローマの信徒への手紙12:3)と言っていますが、わたしたちの先祖アダムは、自分を過大に評価してしまいました。口語訳聖書に従って読むと、「思うべき限度を超えて思い上がった」結果、神の御言葉を聞き流し、超えてはならない一線を越えてしまいました。人類の祖先アダムは御言葉を軽視したのです。神に背く心は、すなわち神に代わって自分がその座につこうとするに等しい大罪です。これを「原罪」と言います。人は生まれながらにして、神に背くばかりか、その心に偶像を造り上げて、あわよくば、自分が神の座につこうとする性質を受け継いでいるのです。聖書の中にも人間を意味する単語はいくつも見られますが、箴言の著者がここであえて、「アダム」と呼んでいるのにはそういう意図があったのだと読むことができます。すなわち、わたしたちが個人的に自分の人生の計画を考え、それを実行しようとする時に忘れてならないのは、わたしたちはアダムの子孫であるという事実です。世界の支配者ではなく、神に造られた小さな一人に過ぎないことを忘れてはなりません。同時に、神はこの小さな者にも命を与えて、生かして下さっていることを絶えず思い起こして神を讃美する者でなければなりません。この神を主として崇めることを忘れて、自分を過大に評価するという大罪を犯すことがないようにという、これは戒めの御言葉なのです。
次に注目したいのは、二行目の「主が一歩一歩を備えてくださる。」という御言葉です。先ほど原文を紹介しましたように、もともとの御言葉に、この「一歩一歩」という単語は見られません。これは、新共同訳聖書にかかわった先生方の意訳です。「いやく」と言っても、「違う訳」とか、「異なる訳」ということではなく、「ここは、こういう意味の教えであろう」というように、著者の意図を汲み取って訳したものと思われます。翻訳してくださった先生方のご苦労を感謝しながらも、やはりここは無理をせず、大方の聖書が訳しているように、そしてわたしたちが1月の総会で採用した、口語訳聖書のように、「しかし、主が整えて進み行かせられる。」と、そのまま素直に読んだほうが無難でしょう。
更に、「しかし」は、「そして」とも訳せる接続詞ですから、「アダムは心に旅路を計画する。そして、主が整えて進み行かせられる。」と読むこともできます。「しかし」と読もうと、「そして」と読もうと、いずれにしても、著者の意図は、一行目の人生設計は、二行目の主なる神の導きがあってこそ成功するということにあるのですから、ここは、むしろ接続詞を省略してほしくなかったというのが、わたしの率直な感想です。そして、主の導きは、必ずしも「一歩一歩」と、歩みそのものにあると限定して読む必要はないのです。人それぞれに多くの道が見え、どの道を選択すべきか戸惑うこともあるでしょう。その上、自分が選択し、計画した道が主のみ心にかなっているかどうかの吟味もまた必要なのです。このように一歩一歩と解釈することもできますが、或いは歩むべき唯一つの正しい道を指し示し、これを導いてくださる主に従えという意味に読むこともできます。そして、主は一人一人の歩みを導いてくださると読むこともできるのです。
このように今日示された御言葉は、皆さん一人ひとりの個人的な人生設計を築く上で示唆に富んだ御言葉です。新しい年度が始まりました。あなたはこの一年をどのように歩もうとしておられますか。その道は主の御心にかなったものですか。主はあなたがた一人ひとりを見ておられます。あなたのことをあなた以上にご存知です。
あなたはアダムの子孫であることを自覚してください。造り主である神の御前に、そしてお互いの間でもっともっと謙って下さい。あなたの心の内には、神に背く罪の性質が根付いていることを認めなければなりません。自分を過大に評価することをしてはなりません。あなたの前にただ一つの聖い道を示し、あなたの先駆けとなり、あなたのしんがりとなって導き、支えてくださる方がおられることを忘れないでください。
同時にまた、この御言葉は仙川キリスト教会という共同体の為に与えられたものであることを心に留めて下さい。2008年度の為に1月の総会で、神はあなたがたにこの素晴しい御言葉を与えて下さいました。「どんな時にも主を信頼」しましょう。主を信頼して、いろいろな「計画」、また「方針」という道を考える教会に対して、「この道を歩め」と指し示してくださる道をひとりひとりが、一歩一歩助け合い、赦し、祈り、とりなし合いながら前進してください。この御言葉を土台にして、27日の定期総会に臨み、一人ひとりの執事が提案する所信表明と予算案を吟味し、祈りの輪を形成して下さい。
しばし無牧師の時を迎えますが、執事たちの牧会に皆さんが一致・協力して、謙虚に、主に従い行く一人ひとりであって下さい。メッセージを閉じるに当たって、主イエス・キリストの模範に倣え、という使徒パウロの言葉をご紹介します。
「それは、キリスト・イエスにも見られるのです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執(こしつ)しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現われ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。』(フィリピの信徒への手紙2:5b−11)
この会堂に呼び集められる皆さん一人びとりに、主イエス・キリストの父である神の祝福が豊かでありますように。
祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。
2008年度の幕開け、わたしたちの前には大小さまざまな道が見えます。どの道があなたの祝福に与る道か、愛する兄弟姉妹に教え示して下さい。彼らはアダムです。ちょっとした油断で、あなたに背いて罪の泥沼に足をとられかねない弱い群れです。しかし、彼らはアダムです。あなたが御自分の形に似せて創造してくださった尊い命の共同体です。どうか、この群れを愛し、育み、あなたの祝福で満たして下さい。
主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。