【ペンテコステ・父母の日
主日礼拝メッセージの要
約】 2008年5月11日
「喜 びなさい」
わたしたちは「喜び」がなくては生きてゆくことが出来ないものです。ですからイエス・キリストはわたしたちに喜びを与えてくださいました。わたし
たちは「こんな状態でどうして喜ぶことができるのだろうか」と言います。しかし、わたしたちはどんな状態にあろうとも喜ぶことが出来るのです。
その鍵は「主にあって」という言葉です。パウロの手紙は全てそうですが、フィリピの手紙には特に「主にあって」という言葉がたくさん出てきます。今日のと
ころでは1節にも2節にも4節にも10節にも「主にあって」とか「主によって」と言われています。パウロは「生きるのも主のため、死ぬのも主のため」と言
いました。またアテネでの説教では「われらは神の中に生き、動き、存在する」という詩人の言葉を引用しています。(使徒言行録17:28)
あの「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、 全能の父なる神の右に座したもう」(使徒信条)たイエス・キリストにおいてのみ、わたしたちの悲しみは喜びに変えられるのです。逆に、いかにも喜びと思わ れたことが、本当は悲しむべきことであることも見えてくるのです。
パウロはどうしてここで、「重ねて言います。喜びなさい」などというのでしょうか。それはわたしたちが、確かに喜びがあるのに、「喜びなどない」
と言い張るからです。「喜びなさい」は文字通り命令形です。「喜びなどない」と抵抗するわたしたちに対して、圧倒的なイエス・キリストの喜びが迫ってくる
のです。
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