【ペンテコステ・父母の日
 主日礼拝メッセージの要 約】
                        
         2008年11日

喜 びなさい 

 フィリ ピの信徒への手紙4章1~9節

 

北 島 靖 士牧師

 わたしたちは「喜び」がなくては生きてゆくことが出来ないものです。ですからイエス・キリストはわたしたちに喜びを与えてくださいました。わたし たちは「こんな状態でどうして喜ぶことができるのだろうか」と言います。しかし、わたしたちはどんな状態にあろうとも喜ぶことが出来るのです。
その鍵は「主にあって」という言葉です。パウロの手紙は全てそうですが、フィリピの手紙には特に「主にあって」という言葉がたくさん出てきます。今日のと ころでは1節にも2節にも4節にも10節にも「主にあって」とか「主によって」と言われています。パウロは「生きるのも主のため、死ぬのも主のため」と言 いました。またアテネでの説教では「われらは神の中に生き、動き、存在する」という詩人の言葉を引用しています。(使徒言行録17:28)

 あの「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、 全能の父なる神の右に座したもう」(使徒信条)たイエス・キリストにおいてのみ、わたしたちの悲しみは喜びに変えられるのです。逆に、いかにも喜びと思わ れたことが、本当は悲しむべきことであることも見えてくるのです。

 パウロはどうしてここで、「重ねて言います。喜びなさい」などというのでしょうか。それはわたしたちが、確かに喜びがあるのに、「喜びなどない」 と言い張るからです。「喜びなさい」は文字通り命令形です。「喜びなどない」と抵抗するわたしたちに対して、圧倒的なイエス・キリストの喜びが迫ってくる のです。

 

福音メッセージ一覧

戻る

                  音声によるメッセージ(完全版)

福音メッセージ一覧

集会案内

質問・メール

キリスト教イロハ

聖書を読む