【主日礼拝・メッセージの要 約】                                 2008年8月24日 

あるものとないものと 」

──「タラントンのたとえ」── 

 
マタイによる福音書25章14-30節

「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」

 

天野五郎牧師



田原米子――  ●少女時代、母の急死により生活一変----学校をさぼり、遊んで、酒・たばこをのみ・・・・・・お金がほしくて盗みにまで手を出す・・・・・・そんな自分に愛想を尽かし、鉄道線路に飛び込む----●命は助かったが、両足切断、左腕もなく、残った右腕の、指2本も失っていた。----死ぬつもりの私、なぜ、助けた--こんな体で・・・どうしたら死ねるか---- ●そこにもたらされた福音(宣教師と神学生)--生かされた 生きよ-- ついに主イエスを信じて立ち上がる(Uコリント5:17)----そのときから彼女の生き方が変わる。足がない、腕がない・・・から、私には右腕がある、親指から連続した3本の指がある---- それを生かして生きよう---- ●彼女はあるものをフルに生かして生きた。自分を信仰に導いた神学生(田原昭年--後に牧師)と結婚、お嬢さん二人も恵まれ、喜びをもってご主人と世界各国に出かけて伝道するものになっている。


星野富弘―― 受容 ●怪我をして全く動けないままに、将来のこと、過ぎた日のことを思い、悩んでいた時、ふと、激流に流されながら、元いた岸に泳ぎ着こうともがいている自分の姿を見たような気がした。そして思った。 ●「何もあそこに戻らなくてもいいんじゃないか・・・・・・流されている私に、今できるいちばんよいことをすればいいんだ」 ●その頃から、私を支配していた闘病という意識が少しずつうすれていったように思っている。歩けない足と動かない手と向き合って、歯をくいしばりながら一日一日を送るのではなく、むしろ動かないからだから、教えられながら生活しようという気持ちになったのである。

  
草木が語る――  ●それにしても私が自分の本を出せるなんて不思議でなりません。絵とも文章とも関係のない道を歩いていた私が・・・・・・、まして筆も握れないからだになってしまったのに、絵や文字を書いているのですから。 ●でもやっぱりそれも筆が握れなくなったおかげだと考えざるをえません。それまで私は、文字が書け絵が描けるということはあまりにも当然すぎて、そのすばらしさに気がつかなかったのです。当然のことが当然ではなくなった時、でもそのことによって文字のすばらしさ、それを綴れることの喜び、そして絵が描けることのすばらしさを教えられました。草花、人の愛、神のみわざ、気がついてみたら私のまわりには驚くことばかりだったのです。


 原崎百子――病床便り
わたしが共にいる 治らなくてもよいではないか
わたしが共にいる 長患いでもよいではないか
わたしが共にいる 何も出来なくてもよいではないか
或る晩 キリストがそう言って下さった。
 キリストがそう言って下さった。

    

 

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