【アドベント第2週 主日礼拝・巻頭言】 2008年12月7日
『主を待ち望む』
「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」
山岸 明牧師
救い主誕生の預言はどのような人々に向って語られたのでしょうか?それは、暗闇の中にある人々です。暗闇とはギリシャ語で、「光が届かない」ところです。真っ暗闇のような絶望的な状態、そこには喜びも感謝もなく、もはや自分自身の力ではどうする事も出来ないところです。
イザヤが語った暗闇の一つに、「飢え」があります。更に飢えには肉体的な飢えと、心の飢えがあります。私たちの胃袋は日々満たされています。では、心の方はどうでしょうか?充実していますか、生きがいを持っていますか、満されていますか。それとも、満たされず、何かに飢え渇いていませんか?私たちの心は一体何に飢えているのでしょうか?それは「愛」です。私たちの心は人間の愛だけでは満たされないのです。神様と正しい関係を持たなければ、私たちの心は満たされず、安定しないのです。私たちの満たされない曇り空のような心には愛という光が必要なのです。
暗闇に光が差し込んだと記されていますが、イザヤが預言した光とはイエス・キリストであります。このイエス様が全ての暗闇を光に変えてくださるのです。「わたしは、世の光である。わたしに従うものは暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ8:12) また、 私たちの心の飢えは、イエス様の愛によってしか満たされないのです。「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ6:35) と仰せられている通りです。
では、私たちがこの大きな光に照らされて歩むにはどうすれば良いのでしょうか?イエス様はこう仰せられました「悔い改めよ。天の国は近づいた。」(マタイ4:17) それは、「向きを変える」という事です。私たちの心の問題を解決する本当の方法は、イエス様を心に受け入れる事です。そうすれば私の内から闇がなくなり光り輝くのです。周りが変わらなければ自分は変わらないと思っていましたが、そうではありません。イエス様を信じ心に受け入れたとき、自分が変えられるのです。私の心が変われば、周りがどうであれ、心は晴々とし、そこは天の国なのです。
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【アドベント第2週 主日礼拝・メッセージ】 2008年12月7日
『主を待ち望む』
「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」
山岸 明牧師
初めに、この御言葉どのような人々に向って語られたのでしょうか?それは「暗闇の中にある人々」です。暗闇とは暗黒と訳すことも出来ます。また、ギリシャ語では、「光が届かない」ところであり、そこは真っ暗闇の中で絶望的な状態で、喜びも感謝もないところ、また自分の力ではどうする事もできない状態の中にある者です。聖書にはそこに「住む」とあります。そんな所に誰も好き好んで住みたいと思う人はいません。そんな状態になりたいとも思いません。しかし、そういう状態に身を置いて絶望の中に住んでいる人々。また、夢も希望もなく暗黒から抜け出せない、 イザヤはこの暗闇について、8:21で「人々は苦しみ、飢えてさまよう、人々は飢えて、憤り、顔を天に向けて王と神を呪う。地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない」と言っています。
さて、暗闇の一つに「飢え」があります。それも「肉体的な飢え」と「心の飢え」があります。肉体的な飢え関しては、今世界では5秒に一人の割合で、飢餓が原因で命を落としていると言われます。その殆どが子供たちです。日本では食べ物がなくて餓死することは事はありません。それどころか、日本に限らず先進国と言われる所では食べ物が捨てられるほど溢れています。私たちは幸いにして肉体的な飢えを覚える事は殆どありません。また、飢えというのは肉体だけの飢えだけではありません。心の飢えがあります。あのマザーテレサがニューヨークにホームを作ったとき、ある記者がマザーに質問しました。マザー、インドにホームが必要なのは分かるが、この大都市ニューヨークになぜホームが必要なのですか?マザーはこう言いました。確かにここには物があふれ豊かであるが、孤独という貧困がある。そして「人々は苦しみ、飢えて、さまよう」のです。しかし、さ迷い歩き回っても見つからない。やがて、「飢えて、憤る」とあるように、満たされない事への不満から、怒りが生じてきます。その怒りを人に向ける人もいます。また、自分に向ける人もいます。そして、最後には「顔を天に向けて王と神を呪う」です。神に対して恨み、そして憎んでいく、そして、自分で自分を苦しめるのです。
そんな私のもとに光が来た。光が差し込んだのです。この光とは何でしょうか、そんな光はどこにあるのでしょうか。それは、イエス・キリストであります。イエス様「私は世の光です」と言われました。ヨハネも「わたしは光ではなく、光について証しをするためにきた。その光はまことの光で世に来てすべての人を照らすのである」ヨハネ1:8−9イザヤが予言した光はイエス・キリストであります。このイエス様が全ての暗闇を光に変えてくださるのです。 私たちの心の飢えは、イエス様によってしか満たされないのです。
最後に私たちがこの大きな光に照らされて歩むには、そして、いつもこの愛に満たされて歩むにはどうすれば良いのか?イエス様はこう言いました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」 それは、天であり光であるイエス様が私のもとに来てくださった。その方に「向きを変える」こと、目と心の向きを光に向けることです。光がなければ、人間は暗闇の中を歩み続けるのです。光を知らない私たちは、今まで暗闇ばかり、絶望ばかりを見て歩んできました。しかし今、悔い改めて世の中ばかりを見ていた心を光へ向けるのです。今までと同じように自分の弱さ、力のなさばかりを見ていたら、暗闇の中しか見えません。心の向きを変えて、暗闇を吹き飛ばすほどの大きな光であるイエス様の方を見るのです。そうすれば希望が、満たしが与えられます。「わたしは、世の光であるわたしに従うものは暗闇の中を歩まず、命の光を持つ」ヨハネ8:12私たちの心の暗闇の問題を解決する本当の方法は、イエス様を心に受け入れる事です。イエス様について話しを聞き、イエスについてたくさんの学びをしても、受け入れなければ何も始まりません。イエス様についてではなく、イエス様そのものを心に受け入れてください。そしてイエスの命に触れるのです。
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